第4話 夢の見つけ方
お昼休み、僕らはグランドで野球をしていた。と言っても、狭いグランドを3学年で分け合って使っている。僕らはその片隅で、ヤンチャのノックを受けていた。深く澄んだ青空に、入道雲が佇んでいた。まもなく本格的な夏がやってくる。
ふと、校舎の方に目をやると、なにやら水飲み場で騒いでいる一団があった。蛇口に指を当てて霧吹き状の水を飛ばしているのは、ハテンコー先生だ。その周りで女の子たちがキャーキャー騒いでいる。すると、3階の校舎の窓から顔を出したキマジメが、ハテンコー先生の方を指さして、何かを怒鳴っていた。蜂の子を散らすように、女の子たちが退散していく。最後に一人取り残されたハテンコー先生は、何度も頭を下げていた。
気がつくと、僕の隣にはヤンチャがいた。僕の肩をバッドの先でトントンと小突きながら、
「ほ~んと、あの人、わけわかんないよな。なんかさ、あんなのでも先生になれるなら、オレらでもなれそうじゃない?」
と言って笑った。僕もヤンチャに合わせて笑った。
「だけどよ。オレ、なんか好きなんだよな、あの人」
と、ちょっとだけ大人びた表情でヤンチャが続けた。
教室に戻ると、ハテンコー先生がタオルで顔を拭いながら入ってきた。
「いや~っ、まいったねぇ。まもなく夏休み。気分だけでも先取りで、夏休み気分を盛り上げようと思ったんだけどねぇ」
と、大きな独り言を言っていた。オテンバは、その独り言に応えて尋ねた。
「先生さ。また怒られたんでしょ?キマジメに」
ハテンコー先生はにっこり笑って答えた。
「まぁ、叱られたね。でも、大丈夫。全然気にしてないし」
少しは気にした方がいいのではないだろうか。オテンバも同じことを考えていたようだ。
「先生さ。少しは気にしたほうがいいよ。あんまりわけのわかんないことやってると、校長先生に叱られるよ」
それを聞くと、突然先生は大笑いをした。
「お前たちな。叱られることを恐れるな。失敗を恐れるな。人の一生なんて短い。やりたいことは全部やれ。まぁ、とりあえず、オレの心配ならいらん」
「先生、僕らだって一応先生のこと、心配してるんですよ」
と僕は言った。ところが、当のハテンコー先生はまだ馬鹿笑いをしながら
「オレはな、失敗など恐れない。なにせ、得意技があるからな」
なんて言うものだから、みんな興味津々の顔を見せている。
「なんなのよ、得意技って」
と、みんなを代表してオテンバが尋ねた。すると、両手をぴんと伸ばして上に伸びたハテンコー先生は、そのままの姿勢で膝をつき、体を前に倒した。そして、
「土下座!」
と叫んだ。さらに、床に寝転がり、
「土下寝!」
と言った。今度は、クルクルと横に転がり、
「土下転がり!」
と言った後、両手でピースサインを作り、ウインクした。
もう、みんな言葉をなくして、シ~ンとしている。シュウサイが恐る恐る口を開いた。あんなにもおびえたシュウサイの目を見るのは初めてだった。
「先生…。それはいったいなんなのですか…?」
「う~んとね、わかりやすく野球に例えるとな、先発、中継ぎ、抑えの切り札みたいなものだな、謝り方の」
とまじめな顔で答えた。
「いや…、わかりません」
シュウサイは、得体の知れないものを見る目で、先生の方を見ていた。
ヤンチャが
「土下座を先発で起用するということは、やっぱ土下座はエースか」
と、僕に尋ねてきたが、聞こえないふりをした。
「いいか、まず自分のやりたいことをめいっぱいやるんだ。人生ってのは挑戦だぜ。で、失敗することだってあるだろ?人に迷惑をかえちゃダメだけど、まあそういうこともあるわな。そしたら謝るんだ。最悪、土下座だな。で、許してもらえなかったら、もう開き直って土下寝だ」
なんだか、わけのわからない話なのに、ハテンコー先生の言葉には、いつも人を納得させる魔法のような力がある。現に、ヤンチャは隣で真剣にうなずきながら、「なるほど。土下寝か…」とつぶやいたのを僕は聞き逃さなかった。
「先生、それじゃあ、土下寝がダメなら転がるわけですね?」
と、シュウサイが真剣な眼差しで尋ねた。シュウサイよ、なにを馬鹿なことを聞いているんだと僕は呆れたが、急に先生もまじめな顔をして、優しい声で語りかけた。
「シュウサイ…。お前、受験勉強でだいぶ悩んでるみたいだな…。いいか…」
と、急に声のトーンを変えて
「お前、さすがのオレも転がったりしないよ。ダメじゃん、転がっちゃ。だって、オレ大人だし。土下転がりはないよ。転がったら大人失格よ」
と笑った。シュウサイが顔を真っ赤にして怒ったので、
「土下転がり!」
と叫んで、先生は転がり出した。もう教室中パニックである。
すると、扉がガラガラと音を立てた。キマジメだった。彼の顔は見る見る真っ赤に染め上げていった。
「先生、いったいなにをしてるんですか?」
とヒステリックな声をあげた。すると、ハテンコー先生は、すっと立ち上がると、生徒用の椅子に片足を載せた。そして、まったく生えていない前髪をかき上げるしぐさをしながら、こうつぶやいた。
「土下転がり」
そして、僕らの方を振り返るとウインクした。
キマジメは、真っ赤に染めた顔をさらに赤くして、勢いよく扉を閉めた。
「これが、土下転がりの効果だ。どうやら許してもらえたようだぜ」
とハテンコー先生はご満悦の様子だったが、僕は呆れていた。ただ、みんなはなぜだか温かい笑顔を先生に向けていた。なかには拍手する者さえいた。ヤンチャはともかくシュウサイさえ、目を輝かせている。いったい、みんなどうしてしまったというのだろうか。
「まぁ、そういうわけで人生は一度きりだからよ。たとえば、明日死ぬとするじゃん。突然、死神がやってきてさ、『君は明日死ぬよ』とか言われるわけね」
みんな真剣に話を聞いている。キマジメが一度顔を見せてから、僕らは誰からともなく席に着いた。すると、シュウサイが手を挙げて尋ねたのだった。
「先生、さっき言ってましたよね?『人生ってのは挑戦だから、めいっぱいやりたいことをやれ』って話。あれ、僕はもうちょっと詳しく聞きたいんですが」
そんな言葉を言われたら、ハテンコー先生は止まらなくなる。リクエストには100%応えるタイプなのだ。こうして、先生の独演会は始まった。
「明日死ぬんだぜ。ヤバいな。でもさ、オレ、そうなったときに、あ~あれやり残したな~って焦る人生は嫌なのね。とりあえず、俺の人生、最高だったわって言って死にたいのね」
ヤンチャが
「いいな、そういうの。でも、やっぱ明日死ぬなんて言われたら、やっぱそんな風には考えられないわ」
ハテンコー先生はにっこり笑ってヤンチャを指さした。
「そりゃそうさ。明日死ぬって言われたら、えぇ~ってなるよ。俺は神様に土下寝するよ」
「先生、いくらなんでもそれは…」
とすかさず、シュウサイがツッコミを入れた。
「でもさ、それってここから先、まだまだいっぱいやりたいことがあるから生きたいわけだろ?で、俺が言いたいのは、ここまでね。ここまでの人生、とりあえず100点満点で生きておきたいの。わかる?」
オテンバが
「あ~なんかわかる~。先生ってさ、なんかここまでの人生100点満点って感じだもんね。自己採点ならだけど」
と口を挟んだ。
「なんだ、それは。まるで俺のことを悩みのない人みたいな言い方をして。俺だって悩みの一つぐらいあるんだぞ」
僕は思わず
「何ですか、悩みって?」
と尋ねた。すると、先生は、か細い声で
「ウスゲ」
と答えた。それが「薄毛」と理解するまでに数秒間の時間を要した。
「先生…、薄毛で悩んでいるんですか?」
先生はキリッとした表情で、
「そうだ。薄毛だ。あと痔持ちでもある」
と答えた。そして、
「だからな、俺の人生は99点だ。今のところな。オテンバよ、人はだれにだって悩みがあるんだぞ。だから、俺は明日死んだら、薄毛と痔のことだけは後悔して死んでいくわけだ」
「そんなに悩むなら、病院に行けばいいじゃないですか」
と僕が尋ねると、
「薄毛と痔の病院に行くのだけは、俺のプライドが許さんのだ」
と、またわけのわからないことを言った。
「だって、看護婦さんに見られるんだぞ。お尻の穴を。鼻の穴じゃないよ、お尻だぞ。もうおじさん、お嫁に行けないよ。あと、カルテに薄毛って書かれるんだぞ。」
先生は頭を抱えた。シュウサイが、
「先生、痔の方はともかく、髪は…今はカツラもかなり精巧に作られているらしいですから…」
と口にすると、先生は興奮した様子で
「お前、もう馬鹿。もう馬鹿。そんなもんで自分を偽って生きていくなんて、そんなのオレの美学に反するわけ。ありの~ままの~♪って、俺は生きたいの」
みんなハテンコー先生のわけのわからない勢いに負けて黙っていたが、その視線は頭部に集まっていた。一呼吸置いて、先生は話を続けた。、
「だから、まぁそれぞれに悩みはあるわけだけどさ、いつ死んでもいいくらい、人生ってヤツをめいっぱい楽しんでおかないといけないわけよ」
僕はやっぱり聞かないではいられなかった。
「先生。そのやりたいことが見つからない人間は、どうしたらいいと思いますか?」
すると、じっと僕の目を見つめたハテンコー先生は、少し間を置いてから静かに話し始めた。
「おい、ヘイボンよ。お前さ、あと5年しか生きられないって言われたら、何をするよ?」
そう尋ねられた僕は、どう答えたものか思案していた。「明日死ぬ」って言われたら、何をしたいだろう。大好きなあの子に告白するかな、ダメでもともとだし。それから、銀行強盗して、たくさんお金を手に入れてやろうか。あっ、でも次の日に死ぬんじゃお金があっても意味ないか。まぁ、貯金を全部使い果たして、買い物をするだろうか。犯罪とか悪いことをしてしまうかもしれない。
だが、5年というのは、思ったより長い。自暴自棄になるにはまだ早い気がする。だから、僕が答えに窮していた。
「じゃあヘイボン。質問を変えるぜ。5年も生きられるって考えたらどうだ?お前になにができる?」
僕に何ができるか。5年か…。僕の目を優しく見つめたまま先生は、一言も言葉発しなかった。そして、先生が黙っている間、みんなもじっと僕の言葉に耳を傾けていることがわかった。
そうだな、外国とか、たとえば国内でも知らない町とかに旅してみたいかもしれない。それに、なにか自分が生きた証っていうのかな。うまく言葉では言えないけれど、やっぱりこのまま消えてなくなるのは悲しい。世のため人のためなんて、きれいごとは言わないけれど、だれかが覚えてくれている人間でありたい。
どのくらいの時間が流れたのだろうか。僕は、とても長い間考えていたようにも感じたし、それはとても短い時間であったようにも思えた。
「僕は…、外国とか行ってみたいです。それで、だれかの役に立って、僕のことを覚えててもらいたいです」
僕は、今にも消え入りそうな声でそうつぶやいた。静まり返った教室で、ハテンコー先生は、真剣な顔をしていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「いいな、そういうの。で、お前はだれかの役に立って、なんて言われるんだ?」
僕の口は、意に反して勝手に動き出した。
「あの…、ありがとう…って。君のおかげだって…。そう言われたいです」
「なるほどなぁ。で、外国っていうと、お前の頭に浮かぶのはどんな風景だ?」
僕は夢中で答えた。
「草原…、いや、砂漠かな。昔、アフリカの子どもたちが、ハエのたかってるところで食事しているのをTVで見て、なんか僕は、その…」
「そういうところで、お前は何やってるんだ?」
「あの…、これは夢というか。無理かもしれないけど…」
そういうと、ハテンコー先生は、初めて怒った表情を見せて、
「お前、馬鹿か。無理とか言うな。無理とかないから。無理とか言うヤツは馬鹿。お前の心の中にある言葉を言えばいいんだ」
と言った。顔は怖かったけれど、声色はとても優しく、そしてあたたかかった。
「はい、僕はそこでお医者さんみたいな仕事を…」
「お前な、お医者さんみたいな仕事なんてない!お前は医者になってんだろ?」
ハテンコー先生に言われて、僕はドキッとした。そして思わず
「はい。医者になって、アフリカの子どもたちの診察をしています」
と口にしてしまった。それは、僕が小さなころから胸に秘めていた夢だった。けれど、僕は勉強ができない。「医者になる」なんていう夢を見てもいいのは、親が医者か、かなり頭のいいヤツか、それともお金持ちの子どもか、少なくとも何もかも平凡な僕には、そんな大それた夢を見る権利すらないと思っていた。
「ヘイボンよぅ…。もう、お前の夢、もうサイコー。それ、叶うよ、マジで。俺が言うんだから間違いない」
先生の「俺が言うんだから間違いない」という何の根拠もない言葉が妙にあたたかく響いた。けれど、先生は続けてこう言った。
「だけどよ、世の中には叶わない夢も多い。いや叶わない夢が大半だ。たぶんお前の夢、叶わないかもしれない」
なんだ?さっきと言ってることが違うじゃないか?だから、このハテンコーという男は信用ならない。けれど、先生はさらに続けてこう言った。
「だがな、夢が叶わないのは、夢の設定の仕方に問題があるからだ。夢ってのは、描き方次第で、叶う可能性がグ~ンと高まる。いや、ほぼ100%に近づくんだな」
そういうと、ハテンコー先生はニヤリとほほ笑んだ。僕は、もう少しだけこの先生の話を聞いてみたいと思った。
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