第3話 受験校の選び方


 ヤンチャが洗った手をズボンで拭いながら入ってきた。ハテンコー先生は、教卓に両手をつきながら、ヤンチャが席に着くのを待っていた。すると、思い出したようにしゃべり始めた。

「おい、ヤンチャ。ところで、お前。昨日は少しは勉強したのか。野球のためにさ」

なんだ、昨日の話は忘れているようだったのに、覚えていたのか。ホントに喰えないおっさんだな、この先生は。すると、ヤンチャはちょっとだけ興奮しながら話し始めた。

「そうだよ、ハテンコーさん。聞いてくれよ。オレさ~、昨日ちょっと勉強やったんだぜ」

「あんた、で、どれだけやったのよ?」

オテンバが口を挟んだ。

「まぁ、30分だけどな…。でもよ、オレ、勉強なんてしたことなかったし」

「そりゃ、そうだな。あの点数は勉強して取れるような点数じゃないからな」

今度は、ハテンコー先生が口を挟んだ。

「ひどいな、先生。でもよ、生まれてはじめてだぜ、自分からやろうかなって思ったの。母ちゃん、真剣に熱でもあるのかって驚いてたからな」

「で、ヤンチャ。勉強をがんばったお前の目標はなんだ?」

ハテンコー先生が少しだけ真剣な眼差しで尋ねた。急に教室に緊張が走って、みんなシ~ンと耳を澄ませた。

「まぁ、とりあえずは高校に入ることかな。名前は、まあ秘密だな。野球の強い高校。いや、野球部があれば、いいかな。そこでオレは野球をやるんだ」

と、少し照れくさそうにヤンチャは言った。先生は満足そうにうなずきながら、

「いい目標だな。おい、シュウサイはどうだ?お前の目標を教えてくれ」

急に話を振られて、シュウサイは肩を揺らして驚いた。なにか考えごとでもしていたのだろうか。彼は、少し深く腰掛け直し、姿勢を正して口を開いた。

「僕は、優秀高校が第1志望です」

教室中から「おぉ~っ」という歓声が沸き起こる。優秀高校といえば、県内でもトップの難関校である。他県からの受験もあるという誉れ高い高校である。僕など、受験することを考えるだけでもおこがましい、そんな学校だ。

「で、目標はなんだ?」

ハテンコー先生はまるで、話を聞いていなかったかのようにしゃべった。ちょっとだけシュウサイは不機嫌そうな顔を見せた。

「先生は、僕の話を聞いていなかったんですか?僕の目標は、『優秀高校に入ること』です。そのために週に七日も僕は塾に通って勉強しているんです」

少しだけ興奮気味にシュウサイは話した。僕らはみんな知っている。あいつは、休み時間もずっと参考書を開いて勉強に励んでいた。授業でわからないことは、たいていシュウサイに聞けばなんとかなった。もちろん、多少嫌味なところもあるのだが、こと勉強に関していえば、シュウサイはリスペクトに値する人間だった。

 ところが、ハテンコー先生は一言、いつもの軽い調子で言い放った。

「ん~っ、その目標はダメだな」

それを聞いてシュウサイの顔は一瞬青ざめたように見えた。さらに教室中に緊張が走った。僕は、思わず腰を上げて

「おい、シュウサイ。あの人は何にも考えてないから。気にするなよ」と言いかけたのだが、それを遮るように、

「どういうことですか先生。僕の目標のどこがダメなんですか?こんなにがんばっているんです。難関なのはわかっていますよ。でも、受かるように必死にがんばっているんです」

シュウサイは、興奮して立ち上がり声を張り上げた。目に涙を浮かべている。シュウサイの気に障ることをハテンコー先生が口にしたとはいえ、今日のシュウサイはどこかおかしい。なにかあったのだろうか。

 「おい、シュウサイよ。お前、なんで優秀高校に行きたいんだ?」

「そんなの、決まってるじゃないですか?あそこは、県内で一番偏差値が高い学校ですよ。他に理由がいるんですか?」

「偏差値が高いことがそんなに重要なことなのか?」

ハテンコー先生は、一切引く様子はなかった。僕は後ろの扉から、またキマジメが入ってくるのではないかと内心ドキドキしながら扉に目をやった。しかし、扉が開くことはなかった。

「そんなの…。偏差値が高い方がいい学校に決まってるじゃないですか」

言ってることはシュウサイの方が正しいように聞こえるのだけど、なんだか追い詰められているようにも見えた。いったい先生は何が言いたいのだろう。クラスメイトは全員息をのんで、この様子を注視していた。

「だからさ、偏差値が高い学校は、なんでいい学校なんだよ。それがわからないんだけど」

シュウサイは瞬きを何度も繰り返しながら、声を上ずらせた。

「だから、偏差値が高いと、勉強できる子が多くて、それで…、先生も優秀で…、それで僕も勉強ができるようになって…」

「じゃあさ、お前の第2志望はどこだ?」

「そんなのまだ考えてないですよ。塾の先生は、良好学園を第2志望。スベリ止めに並野高校を考えてるらしいけど。僕はあんな学校には行きたくありません」

「あんな学校」と言われて、僕は内心ムッとした。隣のヤンチャも気がついたようで、立ち上がろうとしたので、僕は彼の腕を掴んで、首を横に振った。「様子を見よう」という合図だった。ヤンチャと違って、僕は空気が読めるのだ。

「んじゃ、聞くがよ。お前、第2志望の良好学園じゃ、お前のその頭脳は力を発揮できないのか?勉強できないのか?」

「そんなことあるわけないじゃないですか?僕は僕ですよ、どこに行ったって」

シュウサイは唾は飛ばしながら叫んだ。目は真っ赤に充血していた。

「いいか。お前の目標には重大な問題があるんだ。わかるか」

「どういうことですか、先生」

オテンバがようやく口を開いた。あのおしゃべりのオテンバがよくここまで我慢したものだ。それぐらい、教室はなにかを話すのがはばかれるような空気が支配していたのだ。

 ハテンコー先生は、両方の手の平を見せながら、「まぁ待て」というポーズを見せた。

「いいか、目標ってのはさ、ゴールじゃダメなんだぜ。『優秀高校に入る』って目標にするとさ、受かった時点で終わりだ。そうやって、受験が終わると燃え尽きちゃうヤツがいるんだよ。で、万が一不合格だったとしよう。なぁ、シュウサイ」

「ボ…、僕は受かりますよ、絶対」

「あぁ、オレもお前なら受かるって信じてるよ。週に七日も塾か。オレには考えられないね。お前はホントにすごいと思うよ。だが、万が一ってあるだろ?」

「まぁ…、物事に絶対はないですからね」

少しだけシュウサイは冷静さを取り戻したようだ。

「いいか。『優秀高校に入る』って目標は、合格しても終わっちゃうし、不合格しても終わっちゃうわけだろ?」

「それは、そうよね…。でも、だいたい、みんな、そんな感じで目標とする学校を決めてがんばってんじゃないの?」

オテンバが口を開いた。ハテンコー先生とシュウサイだけの会話では息が詰まりそうだ。オテンバがいい意味で緩衝剤になってくれている。ハテンコー先生は、大げさに右手の人差し指でオテンバを指さした。

「そう、そこが問題なんだ。今、シュウサイが言ったよな。どこの学校に行ったって、オレはオレだって」

「僕は自分のことをオレだなんて言いませんよ」

と、眼鏡の端をクイッと持ち上げながら言った。いつもの嫌味なシュウサイを取り戻したようだ。

「昨日も言ったけど、やりたいことをするために、高校に行くんだぜ。で、シュウサイ、お前はなんで高校に行くんだった?」

「僕は、いっぱい勉強するためです。僕は勉強をいっぱいして、大学に行って…。将来、僕は大学で研究者になりたいんです」

教室のあちこちで「あいつ、すごいな」「やっぱシュウサイくんは言うことが違うね」というヒソヒソ声が聞こえてきた。研究者か…、たしかに僕には考えたこともない職業だな。そもそも僕にはなりたい職業なんてなかった。ちゃんとした会社に勤めてはいたいけど、「これがやりたい」と言えるものは何一つなかった。

「いいじゃないか。明確な目標があるってのは、素晴らしいことだ。なぁ、ヘイボン」

急に当てられて、僕は椅子からずり落ちそうになった。僕を見つめるハテンコー先生の目が、なんだか温かく感じたのは気のせいだろうか。

「で、お前の大学に行って研究者になるって目標に優秀高校はぴったりなのか?」

ユウシュウは少しだけ考えてから、

「それは…、そうですよ。だって、県内で一番偏差値の高い学校ですよ。大学に行って研究者になるには、ぴったりじゃないですか?」

たしかに、シュウサイの言う通りだ。偏差値の高い学校に行けば、いい大学に行ける。これは常識ではないのか。

「お前、勉強できるだけで、ホント頭悪いヤツだな。アホだ、アホ」

ユウシュウは今、生まれて初めてアホと言われたのだろう。わけがわからない、という顔をしている。ヤンチャが小声で、

「オレなんて、勉強ができないうえにアホだからな。オレのが上だな」

とわけのわからないことをつぶやいてきた。僕は、軽く愛想笑いを返してやった。

「だからさ~、偏差値が高いからいい大学に行けるわけじゃないだろ。偏差値なんてな、受ける人間がどれだけ勉強できるかって、ただの目安だろ。そこに行ったら、お前の力が伸びるなんて保証はどこにもないわけよ」

ユウシュウは黙りこんでしまった。

「研究者になりたいんだろ。お前、何の研究者になりたいんだよ?」

みんなの視線が一斉にシュウサイに向いた。

「ウチュウ…」

みんなの頭の中に、一瞬「?」がたくさん浮かんだ。ハテンコー先生だけが、すぐに納得のいった顔をした。

「宇宙な、宇宙。お星さまの宇宙な。いいじゃん、お前なら将来NASAとか行って活躍すると思うぜ」

ハテンコー先生の話は、人を上げたり下げたりと忙しい。責められているのか、励まされているのかわからなくなる。

「たとえばさ。優秀高校には、天文学に詳しい先生とかいるのかよ、大学受験に特化したコースとかあるのかよ?第二志望の…、え~っと何だっけ?」

「良好学園です」

「そう、あとなんだ、お前が行きたくないって言ってた学校。お前なぁ、そういうこと口にすんなよ。がんばってそこに行こうとしてるヤツだっているんだからな」

「すいません…。並野高校です」

シュウサイは少しバツの悪そうな顔をした。「その2校はどうなんだよ。大学とか、天文学とかよ」

「いや…、詳しく調べたことはないです」

「お前、今から3年間も暮らす高校のこと、なんも調べてないのか。いいか、高校ってのは選べるんだぜ。それを偏差値だけで選んでんのか、やっぱ、お前アホ」

ハテンコー先生は、ニセモノのラッパーのようなポーズで「やっぱ、お前アホ」のところだけ、カタコトになった。シュウサイの肩はますます小さくなっていくように見えた。

「塾の先生も、母も…、優秀高校へ行けって…。それで、僕は…」

「まぁ、いいよ。お前にはお前の環境があるからさ、それを責めるつもりはないよ。でもよ、シュウサイ。お前の人生はお前で決めろ。オレの話も、塾の先生の話も、母ちゃんの話もよ、全部アドバイスなんだよ、所詮は。最後、決めるのはお前だろ?」

シュウサイも、僕らも黙って耳を傾けていた。

「もう一回、お前が受けられそうな学校を全部調べてみろよ。んでさ、お前の目標にぴったり合う学校をピックアップしてみろ。大学行って、NASA行って宇宙に行くための学校だ。家から通える範囲で。そしたら、たくさん学校が見つかるはずだ」

たしかに、市内には50校近くの学校がある。シュウサイなら、ほとんどの学校に入学できるのではないだろうか。うらやましい限りだ。

「なぁ…、ヘイボン。ナサってなんだ。宇宙に行くのか、それに乗って」

ヤンチャがまた耳元でささやいた。僕は彼のノートの隅に「NASA」と書いてやった。ヤンチャは

「おい、どうやって読むんだよ」

と、また言った。その声が少しだけ大きくて周囲の視線を集めてしまった。それで、ヤンチャは、申し訳なさそうに僕の方から向きを変えた。

 「まぁ、確かにたくさんあるかもしれません。進学のためのコースとかある学校もあるし」

シュウサイは静かに口を開いた。ハテンコー先生は、優しい口調で語り始めた。

「いいか。高校はやりたいことをするために行く。だから、やりたいことができる学校を選ぶ。偏差値は、合否の目安だ。別に自分の実力に合ったところを受けなきゃいけないなんて決まりはどこにもない。そうだろ?」

オテンバが、ちょっとだけ神妙な口調で、言葉を挟んだ。

「そうだよね。私なんかさ、そんなに選べるほど学校ないけどさ。シュウサイくんの場合はいっぱいあるわけじゃん。その中から探したら、シュウサイくんにぴったりの学校があるんじゃない?」

オテンバがシュウサイの袖を引っ張りながら、言った。「なんだ、その上目使いは」と思ったが、僕はオテンバになんて興味はない。

 「で、お前のやりたいことにぴったりくる学校が、優秀高校だったら、もう迷わず勉強しろ。で、第2志望も、お前にぴったりの学校を選ぶんだ。偏差値なんてどうでもいいからな。もう受ける学校は全部、お前にぴったりの学校だ」

「ハテンコーさん。オレなんて選択肢が馬鹿高校しかないぜ」

と今度はヤンチャが口を挟んだ。どうして彼は、こうも空気が読めないのだろうか。だが、ハテンコー先生は、大げさに右手の親指を上げて、「グ~っ」というポーズを見せた。

「ヤンチャ、そんなことはないさ。通う範囲を広げれば、まだまだ選択肢は広がる。専門学校の中にだって、高校卒業資格がもらえる学校はいくらでもある。日本全国に目を向ければ、寮の学校だってあるしな」

「あぁ、そうか。オレ、馬鹿だからさ。周りから、馬鹿高校しか行くところないぞって言われてるんだよな。だから、他の選択なんて考えたこともなかったわ」

 「そうだな。まだ一学期だ。夏休みには十分時間があるんだからな。いっぱい高校を見に行って、高校の先生からも話を聞いて、三年間通う学校を決めるんだ。それに、いっぱい勉強しろ。成績が上がれば上がるほど、選択肢は増えるからな」

さらに、先生は続けた。

「いいか。やりたいことをするために高校に行く。高校は、自分にぴったりの学校を選ぶ。第1希望もスベリ止めも全部、ぴったりの学校だ。そしたら、どうなると思う?」

「どうなるの?」

オテンバが合いの手を入れる。

「受験に失敗がなくなる。不合格でも問題がない。どこの学校でも、お前にぴったりの学校なんだ。そこで、またがんばればいい。合格はゴールではなく、スタートラインだ。わかるかい?ヤンチャ、お前は第1志望でも第5志望でも、受かったところは野球部のある学校だ。お前はそこで野球をやるわけだ」

ヤンチャは、手を頭の後ろに組んで

「あ~、なるほどな。まぁ、たしかに野球がやれる学校なら、いいかな」

と呑気に口にした。僕は、それがなんだか悔しくて

「先生、たしかに自分にぴったりの学校に行くのは大事だってことはわかりました。だけど、自分になにがぴったりかなんて、わからない人もいるんじゃないですか」

と思わず口をついて出てしまった。だけど、口を開いてから少しだけ後悔した。みんなに「あいつは自分が何をしたいかわかっていないかわいそうヤツだ」って思われるんじゃないかと思ったからだ。だが、僕の予想に反して、多くのクラスメイトがうなづいていた。どうやら、みんな多かれ少なかれ、自分の進路に迷っているようだった。

「そうだな。中学生のときから、これがやりたいなんて決まってる人間の方が少ないかもしれないな。まぁ、その質問に答えるのは、次の機会にしよう」

そう言うと、チャイムが鳴り響いた。まもなく1限が始まる。1限はキマジメの数学だった。せっかく温まった教室の空気が、急に冷えていくのを感じた。

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