第2話 やりたいことが見つからない

 僕は朝から悩んでいた。昨日のハテンコー先生の言葉がずっと心に引っかかっていたのだ

「やりたいことをやるために高校に行く」

 言われてみればその通りかもしれない。けれど、僕はそんなことを考えたことがなかった。シュウサイは勉強をするため、ヤンチャは野球をするため、オテンバは素敵な女子高生ライフをエンジョイするために、高校に行く。僕には、そういうものがなにもなかった。

 塾の先生からは

「ヘイボンくん、君はもっとがんばらないとダメだぞ。今の実力だと並野高校がやっとだな。もしかしたら、馬鹿高校までしか届かないかもしれないぞ」

と言われている。

 並野高校は、僕が暮らす町でも、成績は並み、大学進学率も並みの公立高校。平凡な僕にはぴったりかもしれなかった。そして、馬鹿高校は、悪の巣窟との噂。高校と名のつく学校の最低ラインというのが、もっぱらの評判だ。

 勉強は何のためにするのか。それは成績を上げるためだ。成績が上がれば、それだけ有名な高校に入ることができる。周りの友だちも、できるだけ有名校に入りたいと言っている。じゃあ、なんで、有名校に入りたいのか、偏差値が高い学校に入りたいのか。そういうことは、考えたことがない。とにかく、有名な学校に行けばいい、偏差値の高い高校に行けばいい。そう信じて今日までやってきたわけだ。だから、

「やりたいことをやるために高校に行く」

なんて言われて、僕はひどく混乱していた。

「なぜ高校に行くのか」

そんなシンプルな問いにさえ、答えられない僕自身にひどく落胆していた。まもなく初夏を迎える学校までの並木道。空を見上げれば、真っ青な空がやけにまぶしい。それなのに、僕の心には、深い霧がかかっているようだった。

 重い足取りで教室に入ったけれど、クラスの風景はいつもと変わらなかった。だれも昨日の話など気にしていないのだろうか。それが、なんだか悲しい。僕と同じ悩みを抱えた人などいないのだろうか。

「おい、ヘイボン。今日は遅いじゃないか。野球しに行こうぜ。なんだよ、浮かない顔して」

 ヤンチャが左手にはめたグローブにボールを放り込みながら言った。

「そんなことないさ。いいよ、先に行ってて。準備したら行くからさ」

僕がそう答えると、ヤンチャは「おう」とボールを握った右手を挙げてにっこり笑い、教室を出ていった。考えても仕方のないことだ。外でキャッチボールでもすれば、気分も紛れるだろう。急いでカバンをロッカーにしまうと、グローブを持って廊下で出た。

 廊下では、ハテンコー先生がなにやら女子生徒の一団に囲まれていた。どうやら、最近人気のお笑い芸人のモノマネをしているようだ。周りで女子たちがゲラゲラ笑っている。朝から何をやっているのだろうか。あの人には悩みとかないんだろうな。ハテンコー先生の言葉に悩まされている僕としては、その能天気な姿がなんとも鼻についたわけだ。僕は少しだけ強く教室の扉を閉めると、廊下を駆け出した。キマジメのやつが

「おい、そこ。廊下を走るな!」

と声を上げたけれど、気づかないフリをして階段を駆け下りた。


 ヤンチャとのキャッチボールをしても、僕の心のモヤモヤは晴れないままでいた。ヤンチャは、

「オレさ。昨日、ちょっとだけ勉強してみたんだ。なんかよ。これも野球の練習か、なんて考えたらさ、ちょっとがんばれちゃうんだよな」

とかっこよく言った。そのあと、ニヤリと笑って「ま、30分ぐらいだけどな」と付け加えたけれど。

 そういうこともあるのかもしれない。僕は、勉強をさせられている。できれば、やりたくないと心の底から思っている。だから、家で自分から勉強なんてすることはない。母親に叱られて、ようやく重い腰を上げるのだ。

「なあ、ヤンチャ。ヤンチャはどこの高校行くんだ?」

僕はボールを投げ返しながら言った。ボールを受け取ったヤンチャは、考える素振りも見せずに、ボールを投げ返して話を続けた。

「そんなの。オレが行けるのなんて馬鹿高校くらいだぜ。ま、先生からは、あそこでも難しいって言われてるけどな。でも、あそこの野球部さ、強いらしいからさ。オレも甲子園とか出ちゃうかもな」

たしかに馬鹿高校は野球では県内でも有名な学校だった。僕の行きたい並野高校には、何か有名なものはあるのだろうか。調べたこともなかったな。

「おい、ヘイボン。お前はどこに行くんだ?」

ヤンチャは僕からのボールをグローブで受け止めながら聞いてきた。

「うん、一応、並野高校を第一志望に考えてるんだ」

僕はグローブを構えて、こう言った。すると、ヤンチャは、力強いボールを投げ返しながら、聞いてきた。

「お前、頭いいんだな。で、なんで並野高校に行きたいんだ?」

ヤンチャの言葉にはっとした僕のグローブを彼の投げたボールが勢いよく弾いた。ボールは、グラウンドをコロコロと転がっていく。

「あっ、ごめん」

と言って、僕はボールを拾いに駆け出した。ちょうどタイミングよく始業を伝えるチャイムが鳴り響き、周りの人間は僕とは逆方向に駆け出していった。ボールを拾って振り返ると、ヤンチャが手招きしながら

「おい、急がないと、またキマジメにうるさいこと言われるぜ」

と言った。質問したことなどもうすっかり忘れてしまったようだった。僕はその質問に答えずに済んだことに安堵して、ヤンチャの背中を追いかけた。ちょっとだけヤンチャの背中が大きく見えたのは、気のせいだろうか。


 教室に入ろうと扉に手をかけた僕を

「おい、ヘイボン」

と呼ぶ声があった。振り返ると、廊下でハテンコー先生が手招きしている。だが、その手招きの仕方がちょっとおかしい。両手をグルグル回して、まるで糸を手繰り寄せるにして手招きしている。何を考えているのだろうか。たぶんなにも考えちゃいないんだろうけど。

「よう、ヘイボン。なんか、あったか?」

先生は、それがいかにも何でもないような質問のように、軽い感じで尋ねてきた。

「いや…。なんにもないです」

と口早に言うと、僕は先生に背中を向けた。

「まあ、待て待て。扉は静かに閉めていけよ。ガンって閉めて、扉に挟まって大けがってのも、学校じゃよくあるんだぜ。気分がのらなくても扉に当たっちゃダメだぜ」

そうか、ハテンコー先生は見ていたのか。なんだか恥ずかしいところを見られた気分だった。女の子に囲まれて調子にのっているとばかり思っていた。

「あのさ、先生。昨日の話、覚えてる?」

僕は恐る恐る尋ねた。

「昨日の話か…。オレ、昨日なに話したっけ?」

やっぱり、この人は何も考えちゃいないんだろうな。

「じゃあ、いいです」

そう言うと、まだ何か話したそうにしている先生を残して、僕は教室の扉に手をかけた。


 僕に続いて、ハテンコー先生が教室に入ってきた。先生の姿を見て、みんなも少しずつ席に着き始めた。ヤンチャが、

「あ、ハテンコーさん、オレ、トイレ行ってくるわ」

と言うと、

「ヤンチャ、うんこしたら手を洗えよ」

と先生は声をかけた。

「もう、先生。朝から汚いんだけど」

とオテンバが言う。ヤンチャは、焦った顔をして大げさに手を振りながら

「いや、うんこじゃねえよ。おしっこ!」

と叫んだ。

「じゃあ、手洗いは軽くでいい」

と、またわけのわかんないことをこの人は言った。

「なんなの先生。おしっこなら手洗いは軽くでいいって、どういう理屈?」

オテンバは腰に手を当てると、呆れた表情を見せた。いや、クラスみんながハテンコー先生の発言に呆れていた。すると、先生は何かを思いついたように、教室の後ろの黒板に駆けていった。

「おい、オレは今、すごくいいことを思いついたぞ。みんな聞いてくれ」

そういうと、ハテンコー先生は、チョークを握ってなにやら書き始めた。先生はうれしそうに振り返った。その顔は、いかにも素晴らしいことをしましたという自信に満ちていた。だが、黒板に書かれた文字を見て、みんなギョッとした。

後ろの黒板には、白いペンキで『今日の目標』と書かれている。その下に、

「うんこをしたら手を洗う」

と書かれていた。たまりかねたシュウサイが口を開いた。

「いくらなんでも先生。教室に『うんこ』はまずいのではないでしょうか?」

ハテンコー先生は、ちょっとおもしろくなさそうな表情を見せた。もっとウケると思ったのだろう。

「じゃあ、シュウサイはどんな目標ならいいと思うんだ?フンとかクソならいいのか?」

この人は、本当に何を考えているんだろう…。シュウサイは慈悲深い表情で、この哀れな三十代に声をかけた。

「先生…、そういう問題じゃあないです。やはりですね。目標というのは普通、『忘れ物をしない』とか『授業をまじめに受けよう』とか、普通はそういうのでしょう?」

オテンバが続けて言う。

「そうそう。『あいさつをしよう』とか、よく生徒会でもやってるじゃん」

 二人の言葉に、クラスメイトたちも「うんうん」とうなずいている。先生はつまらなそうな顔をすると、口を尖らせて「チェ~っ」と言った。悔しいときに「ちぇっ」と言うのはマンガか小説の世界である。だいの大人がまじめな顔をしてそんなことを言うものだから、みんな笑ってしまった。

 すると、ヤンチャがトイレから帰ったきた。

「おい、なんだよ。なんか楽しそうだな。また、ハテンコーさんがおもしろいこと言ったのか?」

と言った。

「おい、ヤンチャ。それで手を洗ってきたのか?」

僕がそう尋ねると、

「あっ、いけねぇ。忘れてた」

と言って、また教室を飛び出していった。それを聞いて、またみんな笑い声をあげた。ハテンコー先生がうれしそうに、

「ほらな。手を洗わないヤツがいるんだから。『うんこをしたら手を洗おう』も、あながち悪い目標じゃないだろ?」

と言って胸を張った。それを聞いたオテンバが

「そんなのさ。手を洗い忘れるなんてヤンチャだけだよ。ホントにガサツ!私たちは絶対手とか…」

と言ったのだが、その言葉を遮るように、教室の扉がガラガラと音を立てた。顔を出したのはキマジメだった。

「お前たち。もう始業時間だぞ。いつまでしゃべってるんだ!もう葉山先生、いいかげんにしてくださいよ。まったく」

と早口にまくしたてた。

教室を出ていくキマジメの目が一瞬、黒板の方向で止まった。黒板にはまだ

「うんこをしたら手を洗おう」

と書かれていた。このあと、校長先生に大目玉を喰らうハテンコー先生のことを思うと、少しだけ気の毒になった。

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