あの頃はハテンコー先生がいた。

くればやし ひろあき

第1話 なんのために進学するの?

 葉山典行、36歳。国語教師。家族構成は不明。だれが呼んだかハテンコー。ウチのクラスの担任である。我らがアイドル、ヒメ先生こと白鳥姫子先生が、いわゆる産休というヤツで、代わりにやってきたのがこのハテンコー先生だ。いわゆる臨時の教師。

 それにしても、ヒメちゃんご懐妊のニュースには、学校中が震撼した。なにせ大学を出たてのヒメちゃんは、僕ら男子生徒のあこがれの的。結婚してたことも知らなかった。まぁ「できちゃった婚」の噂もあるが、そういう噂の火消しに先生たちも大忙しだ。やっぱり、「できちゃった婚」は、聖職であらせられる先生様には、ご都合が悪いらしい。

 そんなわけで、美人のヒメ先生の後任が、この冴えない容姿のハテンコー先生だから、教室中から落胆の声が上がったほどだ。

 だが、ハテンコー先生がやってきて2週間が過ぎたころには、そんなハテンコー株も高値で安定を始めていた。


 ハテンコー先生は、とにかく変わっている。「先生がそんなこと言っていいの?」と言うことを平気で言う。その毒舌がどうやらPTAのおばさんたちを刺激するらしく、学校を転々としているらしい。これも噂である。そんなわけで校長先生やら教育委員会やらの評判はすこぶる悪いらしいのだが、僕たち子どもの評価は上々である。

 なにせ、僕らのまわりの大人と言えば、言うことはだいたい同じだ。やれ「将来のために勉強しろ」だの「そんなことじゃ大人になって苦労するぞ」だの、そんなことしか言わない。将来への不安を煽って、勉強をさせようとする。人生の負け組になっては大変だからと、僕らもそれなりにがんばるわけだ。

 それにしても、大人ってやつは扱いに困る。先生たちは「自分たちで考えてみろ」とか言うくせに、自分で考えたら「勝手なことをするな」と言う。


 この前なんて、

「ヒメ先生のお別れ会をするから、君たちで何をしたいか考えなさい」

と、学年主任のキマジメが言う。この先生は、校長先生の覚えはめでたいようで、出世コースをまっしぐらに歩んでいるとか。母親連中の間では、まじめな先生として評判がいいわけだが、中学生の僕らには、なんともつまらない大人の代名詞に見えて仕方がない。

 ヒメ先生とのお別れ会。

 できれば、楽しい会にしたい。僕らは知恵を絞った。ところが、この中学生の若い脳みそで考えたアイデアは、昭和生まれのキマジメには受け入れがたいようだった。楽器をもってきてバンド演奏をしたいと言えば、「そんな楽器は学校に持ってきてはいけない」と言う。学校生活に必要ないものは、持ってきてはいけないというルールが適用されたわけで、こういうとき大人って融通が利かない。「音楽をかけてカラオケをしたい」と言えば、「他のクラスの迷惑になるから許可できない」と言われる。今度は他者への配慮ってやつだ。「じゃあ、男子がお化粧して女装してファッションショーなんてどう」と言えば、「お別れ会にふさわしくない」という返事。もはや、「何を提案しても無駄じゃないか」というあきらめムードが教室を支配し始め、結局はキマジメの「別れの手紙を読む」「音楽の授業で練習している合唱曲を歌う」というつまらないベタな提案を受け入れざるを得ない状況にされてしまったのだった。

 まあ一応ヒメ先生は涙を流して喜んでくれたし、それなりに感動した雰囲気も漂った。だが、あのキマジメの「してやったり」な顔を見ると、なんだか心にひっかかるものがあった。


 ウチの母親だって似たようなものだ。昨日なんてゲームばかりしている僕に「勝手にしなさい」なんて言うものだから、ここぞとばかりにゲームばかりやっていたら、また叱られた。「勝手にしなさい」と言うから勝手にしたまで。

 ホント、大人ってわけがわからない。

 そんなわけで僕ら「子ども」は、大人って生き物に、得体の知れない嫌悪感をもっているわけだ。


 ところが、ハテンコー先生ときたら、そういうところに一本芯が通っている。なんというかブレない大人なのである。ただ、その芯がどっかズレてるんだよな。「他の大人はそういうふうには言わないんじゃないの?」という問題発言もあるわけで、そこがハテンコーと呼ばれる由縁でもある。ただ、どんな質問でも、わかりやすく答えてくれる。

 この前は、勉強が話題になった。

 「勉強なんて、大人になったらたいして役に立たんぞ。そんなの当たり前じゃん。因数分解?化学式?わからなくたって、オレの人生に大きな影響はなかったな」と言う。勉強なんて意味がないという教師って、やっぱり変わっている。だけど、ハテンコー先生は続けてこんなことを言う。

 「高校からは義務教育じゃない。行きたくなければ、行かなくたって構わないんだ。だけど、行かないって選択は、なかなか勇気がいる選択じゃないか」

言われて見ればそうだ。僕らは、あの真面目なシュウサイくんこと努井秀才を除けば、だいたい勉強は嫌いだ。授業は退屈だし勉強も嫌いだけれど、やっぱり成績は気になるもので、テストの前だけは渋々机に向かう。勉強はしたくないけれど、高校には行きたい。そういうのって、いわゆる矛盾してるってことだろうけど、みんなが行くのに自分だけ行かないってのはやっぱり気になるわけ。中学生だって、世間の目は気になるのだ。

 「いいか。自動車教習所で習う運転の仕方って知ってるか。運転する前に、ボンネット開けてエンジンを点検しなきゃいけない。そんなことをしてるヤツは、ほぼいない。交差点を曲がるときは、何メートルか手前から車を寄せる。何メートルかは、もう忘れたよ。車線を変えるときは、何秒前からウインカー出すとか、決まってるんだ」  

 すると、オテンバこと天馬絵里が手を挙げた。「ハテンコー先生さ。そういうの、運転してる人って、ちゃんと守ってんの?」

 オテンバは、今どきの若者らしく口の聞き方がなっていない。でも、当のハテンコー先生は意に介していないようで話を続けた。他の先生なら、「なんなの、その言葉遣いは」なんて言われてしまうところだが、どうやらハテンコー先生は、そういうことは気にならないようだ。

 「守ってるわけないだろ。っていうかさ、免許もらったら忘れちゃうわけよ。だけど、教習所に通ってるときは、とにかく覚える。運転免許をもらわないと、運転できないからな。もうみんな必死さ」

 オテンバも続ける。

 「なんか、そういうのっておかしくない?もっと役に立つことを教えればいいのに」

 すると、クラス1の問題児、矢井田智裕ことヤンチャが、

 「おう、だったらドリフトの仕方とか教えてくれたらいいのにな」

なんて馬鹿なことを言う。

 オテンバも僕と同じことを感じたようで、ため息をつきながら、

「ホント、ヤンチャってバカだよね。私が言ってんのは、役に立つ、う、ん、て、ん技術。わかる?たとえば、警察に捕まらないで路上駐車する方法とかさ」

「なんだよ、それ。オレのドリフトとたいして変わらねーじゃん」

 ハテンコー先生も乗ってきたようだ。

「まぁ、でもそうだな。自動車教習所じゃ信号は黄色で止まるように教わる」

「へぇ~っ。黄色は加速して突っ込むんじゃないのか」

ヤンチャは本当に馬鹿だ。

「ハハハ。それじゃヤンチャは免許が取れそうにないな。でも、実際はそんな車ばかりだから、黄色で止まったら、後ろから突っ込まれるかもしれない。後ろにトラックなんか走ってると、ちょっと止まるのにヒヤリとしたりするもんだ」

 気がつくと、教室中のだれもがハテンコー先生の話に耳を傾けている。ハテンコー先生が話し出すと、いつのまにかこういう空気になるから不思議だ。

 すると、じっと黙っていたシュウサイが口を開いた。

 「あの~、先生。話の腰を折って悪いのですが、ちょっとよろしいですか。その運転免許の話と勉強の話のどこが関係あるんですか。僕としては、勉強は役に立たないなんて言葉は聞き捨てならないわけでして…」

 オテンバとヤンチャは少しだけイラッときたのだろう。二人とも、目つきが鋭くなった。

「なんだよ、シュウサイ。お前の言い方ってイチイチまじめぶってんだよな」

「いや…、ボクはそんなつもりは…」

すると、ハテンコー先生は、そんな彼らの空気を察したのか察していないのかわからないが、話に割り込んだ。

「おうおう、そうだな。その運転免許の勉強も、みんながやってる勉強も同じようなもんなのさ。世の中の試験なんてだいたい同じ。役に立つ立たないは問題じゃない」

「じゃあ、何が問題なんですか」

僕は思わず口を開いた。

「問題は試験のシステムにあるんだ。たくさんの人数からある程度優秀なのとか、一定の能力をもったのとかを抜き出したかったら、どうすればいいと思う?」

シュウサイがそっと手を挙げた。

「それはやはりテストを行って偏差値を出してですね。いわゆる大学のセンター試験みたいに…」

「そう。どれだけ点数が取れるか。それを計るのがもっとも簡単な方法だ。知識の蓄積が一番数字にしやすいからな。○か×、これが一番簡単。そうやって、一人ひとりに点数をつけて振るいにかけるのさ」

「じゃあ、その知識が役に立つかどうかは関係ないってこと?」

バカなヤンチャでも、どうやら理解できたようだ。

「そういうことだな。みんなだって、勉強しながら、こんなことやって意味あるのって思ったことないかい?」

ヤンチャが続ける。

「あ~、あるある。歴史とか、オレ全然わかんないんだよね。オレって過去とか振り返らないタイプだし。やっぱ未来だけを見つめて生きていたいわけよ」

「ヤンチャ…。歴史は勉強したほうがいいとは思うが…。お前にはとりあえず、いろいろその馬鹿さ加減を全力で振り返ってもらいたいね」

ハテンコー先生も、ちょっとだけ同情したような目をした。

「まぁ、でも確かに、全部が全部とは言わないが、覚えたって仕方がない知識はたくさんある。でもな、そういうのをどれだけ覚えたかをテストして点数をつけるのが、一番平等で簡単な方法なんだ。だから、勉強をする中身に意味なんて求めないことさ。高校に行きたいなら、それを覚えるしかないし、行きたくないなら覚えなくたってかまないんだ」

まぁ、つまり勉強はした方がいいってことなんだろう。というか、高校に行きたい僕らとしては、やるしかないわけだね。すると、オテンバは納得いかない顔して、こう言った。

「けどさ、なんかそんなんじゃ勉強する気が起きなくない?だって、高校って勉強しに行くところでしょ?やりたくない勉強して、高校行って、また勉強。そんなことのために役に立たない知識を詰め込むのって、私、ちょっと無理」

ハテンコー先生は、にっこり微笑んでこう言った。

「なんだオテンバ。お前もおバカさんだな」

オテンバもムキになって言い返す。

「何よ、バカって。生徒にバカなんて言っていいわけ?」

ハテンコー先生も負けてはいない。

「いや、バカはバカだ。なにも勉強できないことを言ってるわけじゃない。まあ、たしかにオテンバは勉強ができるほうじゃないがね」

「なによ、それ」

ますますオテンバはムキになる。

「お前さ~、やりたいこととかないわけ?なんか楽しいこととか、テンション上がること」

「そりゃあるよ。友だちとプリ撮ったりカラオケ行ったりさ。アタシ、こう見えても歌はうまいんだよね。あと、ネイルとかちょっと勉強してみたい」

ハテンコー先生は、オテンバの言葉をうれしそうに聴いていた。なんだか、あたたかい目をしている。

「じゃあさ、プリ撮ってカラオケ行って、ネイルの勉強するために高校に行けばいいんだ」

ハテンコー先生はいたってまじめに話をしているわけだが、言われた方のオテンバはきょとんとした。たしかに、プリクラ撮ってカラオケ行って、ネイルやる。そんな学校あるのだろうか。

「なにそれ。そんな学校とかあるわけないじゃん。超ウケる。ホント、わけわかんない」

「ウケるのは、お前の言葉遣いと頭の中身だ。いいか、ようするにオテンバは高校行って、素敵な女子高生ライフが送りたいわけだろ?友だちとプリクラ撮ったりカラオケ行きたいわけだろ?じゃあ、それをするために高校に行けって言ってんの。校内でプリクラ撮れるわけないだろ」

なんだかしゅんとするオテンバ。

「おい、ヤンチャ。お前はなにがやりたいんだ?」

突然,話を振られて、びっくりするヤンチャ。

「ん~、オレは…、そうだな。野球やりたいな。ウチの学校って野球部ないじゃん。でも、オレ、野球だけは好きでさ。一応これでも少年野球のチームに入ってるんだよな」

「じゃあ、お前は野球をするために高校へ行くんだな」

 僕は、はっとした。いったい僕は何をしたいのだろう。テンションがあがることなんてあるだろうか。習い事とか続けてきたこともないし。今日も学校が終わったらすぐに塾だ。習い事が勉強だけって、ちょっぴり寂しい気もする。それにしても、やりたいことをやるために勉強するなんて考えたこともなかったな。

「高校に勉強しに行く?いいか、そんな考えは捨てろ。勉強なんてつまんないと思ってるヤツは多い。で、つまんないと思ってるのに、勉強するために高校に行こうとなんて考えたらゾッとするだろ?だから、考え方を変えるわけだ」

ここで話に割り込んだのは、三度の飯より勉強好きのシュウサイだ。ハテンコー先生との相性は最悪なように見える。彼は、眼鏡の端をクイッと持ち上げて言った。少しだけ声が上ずらせて言った。

「先生。お言葉を返すようですが、僕は勉強が好きですよ。知らないことをどんどん頭に入れていくのは楽しいですよ。わかりますか?」

「ハハハ。オレにはわからんよ。だって、勉強嫌いだもん。だけどな、君みたいに勉強が楽しいってヤツは、高校に行って思いっきり勉強しろ。そして、大学に行け。勉強が好きなヤツは、勉強をするために高校に行って、大学行くんだな。いっぱい勉強して、今度は新しいものを生み出せ。そういう力がお前にはある。それはだれでもできることじゃない。それって才能だからな」

シュウサイも珍しく照れくさそうな顔を見せて、

「いやいや…、まあ、先生もよくわかっていらっしゃる」

などと言う。言葉遣いはいちいち癇に障るところもあるが、案外かわいいやつなのかもしれない。

「でな、勉強が好きじゃないってヤツは、なにか自分が大好きなことをやるために高校行くって考えてみろ。つまりさ、オテンバはプリ撮ってカラオケ行くために勉強する。ヤンチャは野球やるために勉強する。どうだ、できるだろ?」

「野球をやるために勉強か…。まあ、たしかに野球がやれるなら、家でもちょっと勉強してみるかな」

「つまりこうさ。勉強した中身に価値があるかどうかは人それぞれだ。だけど、自分が好きなことをやるために勉強するのなら、勉強することには価値があるだろ?」

 そういうハテンコー先生の瞳はキラキラとしていた。こういう輝きをもった先生って、僕は初めてだ。

 それにしても、ヤンチャが自分から勉強しようかな、なんて言うのは珍しいことだ。まあ、つまりこうやってハテンコー先生の口車にまんまとみんな乗せられてしまうわけだ。で、ハテンコー先生の場合、「勉強することに意味がない」とか「信号は黄色でも突っ込め」とか、そういう発言の一部だけがクローズアップされてしまう。校長先生から目をつけられてしまうわけだ。

 そんなわけで、この物語はヘイボンこと僕、本田平次が見たり聞いたりしたハテンコー先生の物語である。僕らとハテンコー先生とのやり取りにお付き合いいただければ幸いである。

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