38.本当に自分がするべきこと

「南雲は…… 彼女は、もともと『B』だった様です。現在も『B』を服用し続けていました。不思議なものですね。息子の様に、また、多くの『B』の子の様に、自分の『仕事』にどうしても耐えられなくて、死ぬ子も居れば、今度は殺す指示を与える側に回りたがる者も居る」

「だけど、全体的としては、今のこの国の教育は安定している。教育改革は、十三年経った今では、成功だ成功だ、と言われている。……だけど、そうかあ?」


 島村は急に大声を上げ、首を横に振った。今まで、高村が一度も見たことの無い、真剣な表情だった。


「俺はそうは思わない。絶対に、そう思わない。何が『R』だ『B』だ。そんな個性があったっていいじゃないか。少なくとも俺は好きだった。なのに、奴らは―――」


 島村は黙って、再び大きく首を横に振った。


「俺の彼女は『R』だった。こっそりとつきあっていた。自分の正体を気付いた俺に事情を喋ったけど、絶対に言うな、言ったら殺される、と必死な顔で俺に言った。そしてある日彼女は『転校』した。『B』の相方と一緒にな。……もう今、彼女が生きてるとは思えない。だけど俺は、あの頃、彼女のことが本当に好きだった。そういう子が好きな奴だって居る。居たっておかしくない。それを真っ向から否定して、道具にして、使い捨て? それが教育か、って言うんだよ!」

「落ち着いて下さい、島村君」

「はい、すみません…… 久しぶりに、興奮してしまいました」


 そう言いながら、島村は眼鏡を外し、汗をぬぐう。あれ、と高村は思う。よく見ると、その眼鏡には度が入っていなかった。


「仕方無いです。皆、似た様な経験をしています」

「皆?」


 まさか、と高村は百合の一つをつまみ上げ、森岡の方を見た。


「そう、折り紙愛好会連合とは、そのための草の根レジスタンス集団です。息子がやった方法はかなり古典的でしたが、有効でしたからね。この時代、便利は便利ですが、デジタルにばかり頼るのは、危険ですよ」


 そう言えば。高村は自分の携帯が島村に入り込まれていたことを思い出した。少し知識がある者なら、人の携帯に入り込むことはたやすい。


「その連合に、参加は自由ですか?」


 山東は真剣な目で問いかける。ええ、と森岡はうなづく。


「百歩譲って、日名がもし、全体にとってまずい分子だったとしても…… いや、その判断も俺には許せないけど…… それでも…… 遠野まで、そして俺や、高村さんまで消してしまおう、というのは、俺には絶対に解せない。絶対に許せない。森岡先生、俺にも、何か、やらせて下さい」


 そうですか、と森岡はうなづく。


「それは無論、山東君、君の自由です。こちらは、仲間が増えれば非常に嬉しいですがね。全国的展開はしているのですが、地道に秘密に行う草の根運動ですから、仲間はいつでも募集中です。……高村君は、どうですか?」

「俺は……」


 彼は迷う。しかも、カバンの中には、彼らが入手困難な『R』すらもある。

 しかし。

 森岡はそんな彼の様子に気付いているのかいないのか、ただ、穏やかな口調で付け加えた。


「迷うのは、当然です。我々のことを口外しなければ、別に仲間に入る入らないは問いません。君の気持ちに任せましょう」


 くっ、と高村は唇を噛んだ。



「高村さんは」


 帰り道、駅まで、と山東がついてきた。


「仲間になるかどうか、だったら、まだ保留にさせて欲しいんだ」

「ええ、判ってます。高村さんは直接誰かを…… という訳じゃない。巻き込まれただけなのに、ここまで関わってくれて」

「違うんだ」


 彼は山東の言葉を遮った。


「……そうじゃなくて……」


 彼は思う。

 この件に関わったのは、巻き込まれたからじゃない。

 六年前に失った、自分自身への信頼を取り戻すためだった。そのはずだった。

 なのに、この様に、何かが形になって、見えてきた途端、怖じ気づいている。


「山東君、俺は、怖いんだ」

「怖い? 怖いんですか? 高村さんは」


 意外、という口調で山東は問いかけた。


「だって君は、怖くない? だって、相手は下手すると」


 政府だよ、という言葉はやはり口から出てこない。


「そりゃあ、そういう意味では、怖いですよ」


 山東は軽く目を閉じると、さらりと言った。


「だけど、……知らないままの方が、俺はもっともっと、怖いですよ。あの時、少しでも知っていれば、例えば日名に、もう少し目立たない様に、とか忠告できていれば…… ボイコットなんてしようとした遠野を止めることができていたら……」

「山東君」

「それが正しいか正しくないかは置いておいても、少なくとも二人を、失うことは無かったかもしれない。もう俺は、あんな風に、知り合いを失いたくないんです。ねえ高村さん、俺は教師になりますよ」


 顔を上げ、山東は言い切った。


「もともとその選択肢も俺の中にはありましたし。何ができるか判らないけれど、草の根レジスタンス、俺なりに、何かしてみようと思うんです」


 と言って、高村さんをいきなり勧誘する訳じゃあないですけどね、と彼は笑った。



 駅でじゃあ、と山東と別れた時、高村の胸の中には、ぽっかりと穴が空いた様な気がした。

 これで、終わりにしようと思えばできる。彼は思った。

 彼らともう会わない、連絡もしない、そう決めてしまえば、この件からは、もう、すっかり……

 だけど。



 眠れない。眠りたいのに、眠れない。

 高村は、ベッドの中で何度も寝返りを打った。身体は、疲れている。まぶたも重い。なのに。

 手を伸ばす。

 指先につるりとした小さな瓶が触れる。

 爪の半分にも足りない小さな錠剤を、手の中に一つ二つと転がす。台所に立つのすらもどかしい。二粒を震える手で口の中へ放り込む。微かな苦みが口の中をよぎる。飲み込む。喉仏のあたりで引っかかる感触。噛み潰せば良かった。そう思っても後の祭りだ。彼はのろのろと身体を起こす。這うようにして台所へ向かう。


 ああ面倒だ。


 ステンレスの流しの端に手を掛け、彼は重い身体を引き上げる。水切りかごの中から、ガラスのコップを取り出す。蛇口をひねる。勢い良く溢れた水が流しに飛び散る。はねる。顔を濡らす。冷たい。

 ふう、と息をつくと、彼はコップを置き、濡れた手のままベッドへと戻る。

 今はもうただ、眠りたかった。何も考えずに、眠りたかった。

 軽く目を閉じる。喉の詰まりが溶けて行くにつれて、身体から力が抜けて行く様な気がする。

 そう、それで何も問題ない。そのままやってくる波の中に、身体を任せてしまえばいいだけだ。それだけだ。


 ―――でも。


 自分の中で、別の自分が問いかける。


 ―――昨日は一つで済んだじゃないか。


 とろとろとした意識の中、明らかな事実が突きつけられる。


 ―――昨日は一つ。今日は二つ。明日は三つか?

 ―――一つ二つ三つ四つ五つ……


 数え始める自分の声に、彼は止めろ、とつぶやく。

 明日は呑まない。呑まないで眠るんだ!

 口には出さない、音にはしないその悲鳴は、彼の身体中に響きわたる。


 ―――できるならね。


 冷ややかな声が身体中に満ちる。


 ―――そして忘れてしまえばいいんだ。全て。全て。

 ―――あの時あったことも、この間のことも、これからのことも、全部無かったことにすればいいんだ。

 ―――そうすればオマエは楽になれるよ。

 ―――楽になって、もう何も心配することなく、毎日毎日楽しく夢をむさぼることができるのさ。


 あああ、と彼はうめきながら寝返りを打つ。


 ―――できないのかよ? 


 あはははは、と耳の中に笑い声が響く。


 ―――そうだよな、オマエはずっとそうだった。

 ―――知ってるくせに。知ってたくせに。

 ―――気付かないフリしてるだけだろ。認めたくないだけだろ。

 ―――答えなんてもうずっと前に出てるのにさ。


 やめろ!

 声にならない声で、彼は自分自身に叫ぶ。

 それができたら、どんなに楽なのか、一番良く知っているのは自分だというのに。

 本当に自分がするべきことは、もうずっと前から判っていたはずなのに。


 ―――判るだろ? 今なら、あいつ等の気持ちが。


 ああ判るよ。今なら。

 彼はつぶやく。


 ―――どちらがいい?


 問いかけは続く。


 ―――楽なまま、眠れない日々を送るのと、危険だけど確実な眠りを約束されるのと。


 ああ……

 彼は唇を動かす。

 眠りに落ちて行く寸前の、薄く開いた視界に、赤い瓶と青い瓶が入ってくる。

 冷たい雨が。冷たい滴が。

 オレは……

 唇が、動く。


 やがて部屋の中には、穏やかな寝息だけが、満ちていった。

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