32.今年の最後の仕事
「何だよ…… いまさら…出てくるな… ―――やめろ!」
ぐいっ、と彼女は身体を逸らした。そして大きく頭を振る。バランスを崩し、後ろに倒れ込む。
はっ、と高村はその隙に、山東を引きずり出す。ありがとう、と山東は雨に濡れた顔をぬぐう。
彼女はその場でごろごろ、と頭を押さえて転がる。うめきとも叫びともつかない声が、うーうー、と激しく続く。
垣内は、彼女にゆっくりと、近づき、膝をついた。すると彼女は、彼の胸にぎゅっ、とすがりつく。
「……乃美江」
「助けて…… 助けて垣内…… 助けて……」
小さな声が漏れる。
だがその直後、がくん、とまた頭を後ろに倒し、やめろやめろ、と布を引き裂く様な声で、彼女は叫ぶ。
「そこに居るのは、高村せんせいじゃないの? ねえそうなの? 垣内あたしには見えない、そうなの? ねえ」「やめろ出るな、引っ込んでいろ!」
一人の口から、続けざまに違う人間の様な言葉がほとばしる。ばしばし、と自分の頬を彼女は叩く。
そして垣内の腕からもがき出て、そのまま階段室のコンクリートの壁に、自分を投げだし、大きく打ち付けた。
「かきうちーっ!!」
垣内は一度大きく空を仰ぐと、ポケットから赤い、小さなびんを取り出した。
高村は目を見張った。見覚えのある、びんだった。
ふたを開けると、垣内は中から白い錠剤を二つ取り出し、口に含んだ。
「何を」
呆然として見ている山東の肩を押さえ、高村は首を大きく振った。左腕と、身体全体で垣内は彼女を壁に押さえ込むと、ぐっ、と口づけた。
長い、と高村は思った。あの時と、同じだ。
彼女の喉が幾度か、動く。唇は離したが、しばらく二人はその姿勢のまま、動かずに居た。
やがて、はぁ…… という吐息が、雨の音に混じる。村雨は、ゆっくりとその場に崩れ落ちて行った。
垣内は力を失った彼女を、ぎゅ、と力一杯抱きしめた。
高村も山東も、その間、まるで身体が動かなかった。
この二人に何を言っていいのか、今からどうしたらいいのか、まるで頭が働かなかった。
延々と続く、雨の音が、耳にひたすらうるさくて。
耳に―――
『何してんだ! お前等とっとと隠れろ!』
「げげっ!」
高村は思わず左耳を押さえた。またあの声だ。
「ど、どうしたんです、高村さん」
「判らない。だけど、誰かが、『隠れろ』って…… くそ、本気で心臓が飛び跳ねるかと思った」
彫像の様に固まっていた二人もまた、その声に身体を震わせた。はっ、と垣内は目を細め、耳を澄ませる。
「階段を…… 上ってくる」
雨の音に混じって、確かに、その音は外れた扉の向こう側から近づいてきていた。
「高村先生、山東先輩、そっちへ隠れて!」
垣内は、先程高村が目を覚ました場所へ手を伸ばした。
階段室の裏、壊れた扉の辺りから見えない位置に、大の男二人はぐっ、と身を潜め。
明かり取りの窓から、そっと高村はやって来る人物を伺う。
「やっぱり」
ゆっくりと階段を上って来るのは、南雲だった。
ぼん、と音を立てて、南雲は壊れた扉を踏みつける。
「ずいぶん手間が掛かった様ね、垣内君」
二人は耳を澄ませた。普段より、彼女の口調は数段冷たい。
「二人…… いえ、三人ね。全く、最後とは言え、失態もいいところだわ」
「すみません」
高村はそっとのぞき見る。垣内は、村雨を南雲の視線から守るかの様に抱え込んでいた。
「まあいいわ。二人が三人になったところで構わないでしょ。最後の二人には、ちゃんと『自殺』に思われる理由もあるでしょうし」
「理由、ですか?」
「そうでしょ。実習で、自分にやはり適性が無いことが判って絶望して当てつけの様に校舎から投身自殺する実習生。ああ、でも、山東がやっかいね。彼の場合もう、基本的にはこの学校には関係無いんだし。友達が死んだから当てつけっていうのも何だし、同じ日って言うのも何だし」
高村は頭がかっと熱くなり、飛び出そうとする。慌てて山東がそれを背後からタックルし、駄目ですよ、と囁く。「伝説の生徒会長」は怒っていても、判断は適切だった。
「垣内には何か考えが、あるはずです」
それは判る。だがつい。高村は唇を噛みしめた。
「南雲先生」
「何?」
「処理のことは…… 何とかします。それより、来週分の『R』と『B』が欲しいんですが。明日はきっと、ごたごたするでしょうし……」
ああ、と南雲はどうでもよさそうな口調で返した。
「はい。来週分」
村雨を抱えていない方の手に、赤と青の小びんが渡される。
そうか、と高村はつぶやく。あの時落としたのは。化学準備室でのことを彼は思い出した。垣内はそれをしっかりと握りしめると、見事な会釈をした。
「ありがとうございます」
「ふふふ…… これであなた方の、今年の仕事も終わりね。ねえ、あなたはこの後、どうするつもり? 垣内君」
「この後、ですか?」
「確かあなた、まだ進路希望書、当局に提出していないでしょう」
「ええ。まだ決めかねています」
垣内は抑揚の無い声で、答えた。
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