31.「これも『仕事』だって言うのか?」

「おい!」

「山東君、一体、後ろに……」


 高村はおそるおそる、扉のガラス窓に視線を向ける。予想はできる。だが。


「あれは」


 一瞬、山東は何かを言いかけて、首を横に振った。


「あれは、少なくとも、まともな、人間じゃ、ない」


 がぢゃーん。


 ガラスが、割れた。くぅ、と山東の喉から、反射的に、悲鳴が漏れる。


「山東君!」

「先輩!」


 高村は慌てて山東の腕を掴み、その場から引きずり出した。


「痛!」


 雨で濡れているせいか、ガラスの破片が皮膚や服からなかなか払うことができない。脱いで下さい、と垣内は言った。


「できるだけ、そっと。……来ます」


 何が、と言われた通り、山東のシャツを脱がせながら、高村は問いかけた。

 ばん! と大きな音がして、扉は前のめりに、倒れた。錆びた蝶番が二つとも、衝撃ではじけ飛んだのだ。


「みぃつけた」


 少女は壊れた扉をぐっ、と踏みつける。きゃはははは、と不自然に明るい笑い声が、辺りに広がった。


「高村さん、どいて下さい! あれの目標は、まだ、俺だ……」


 あ、と思う間も無く、山東は駆け出した。まだ、肌の上には細かい破片が残ったままだった。


「ふふ。いーいかんじ」


 楽しそうに声を上げ、少女はその場にかがみ込んだ。そして大きなガラスの破片を拾い上げると、ぐっ、とその手に掴んだ。

 う、と高村はうめいた。そんなこと、したら。

 だが少女は、何でも無い様に破片を握りしめ、山東を追い、走り出す。

 髪を振り乱し、スカートをひるがえし、屋上の縁にとん、と足を付き、ジャンプし、笑いながら山東に跳び蹴りを加える。

 ここが屋上であることなど、まるで考えてもいない様だった。

 ちっ、と山東も落ちていたガラスの破片を投げるが、軽くかわされる。

 高村は呆然として、その様子を眺めることしか、できなかった。あれが村雨なのか。

 彼は自分の見ているものが、信じられなかった。彼の知っている村雨は、動きも言葉も穏やかな少女でしかなかった。

 今まで見てきたそれは、全くの嘘だったというのだろうか。やっぱり自分の目は、信じるに値しないものだ、というのだろうか。

 不安が、一気に彼の中に鈍く広がって行く。


「うわ!」


 山東が叫ぶ。

 二人はいつしか取っ組み合いになっていた。どう見ても、山東の方が、力は強そうに見える。筋肉もある。背もある。重量は言わずもがなだ。


 だが。


 ぐっ、と両手で二人は押し合った。ただ、それだけだった。

 それだけで、彼女は、山東をその場に、押し倒してしまったのだ。

 山東に「女だから」という隙があったとは、高村には思えない。彼は言っていた。「少なくともまともな人間じゃない」と。ただの少女と、思っているはずが、ない。山東は本気を出していたはずだ。


「くぅっ!」


 山東の声が苦痛に漏れる。背中や首の後ろに細かく残った破片が、転がった衝撃で、彼の皮膚を切り裂いているのだろう。


「おい、止めさせろよ!」


 やはりその場から動かない垣内に、高村は再び掴みかかる。


「おい、これも『仕事』だ、って言うのか?」


 強く、両肩を揺さぶる。だが垣内は高村から目を逸らし、口をつぐみ続ける。

 くそ、と高村は組み合う二人の方へと顔を向けた。


「村雨さん!」


 高村は思わず、叫んだ。

 ぴく、とほんの少し、彼女の動きが、止まった。

 そうだ。高村は思う。

 何だかんだ言っても、彼女は村雨なんだ。認めろ、村雨乃美江なんだ。呼びかけて、答えてくれるかも、しれない。

 高村は垣内から手を離し、飛び出す。


「やめろ!」


 垣内の声が飛ぶ。慌てて高村の手を、引く。


「彼女は『R』だ、あんたじゃ」

「何が『R』か何か知らないけれど―――あれは、村雨さんなんだろう? 止めなくちゃ、オレは止めたいんだ、止めさせたいんだぁ!」

「高村…… 先生」


 垣内は、掴んだ手をくい、と後ろに引いた。うわ、と声を立て、高村はその場に尻餅をつく。

 そして垣内は、バリトンの声を張り上げた。


「―――やめろ! 乃美江!」


 ぴたり、とその声に、少女の動きは止まった。ゆっくりと振り返り、垣内の方を見る。


「もういい」


 垣内の声が、うめく様に、その場に流れた。


「もういいんだ…… 止めよう」


 ざああああ。


 やけに雨の音がうるさい、と高村は思った。

 まっすぐ、突き刺す様に激しい雨が、四人の上に、降り注いでいる。

 だが少女は、大きく首を横に振った。


「じょーだんじゃ、ないわ」


 彼女はその雨に負けない声を張り上げる。その声は確かに村雨のものなのだ。


「あんた勝手に殺せって命令であたしを出させておいて、今度はまた勝手にあたしに引っ込めって訳? じょーだんじゃ、ないわ」

「もう俺は、お前に、『仕事』をさせたくないんだ」

「そぉ。それはあんたの勝手よね」


 彼女はしゃん、と頭を起こす。長い髪の毛から、ぽたぽた、とひっきりなしに水滴が流れる。


「でもあたしは続けたいわ。少なくとも、今、こいつに関しては、あたしは続けたいわ。あたしは知ってる。いつもこいつら三人は、『図書室のヌシ』を、バカにしてた」

「そんなことは!」


 山東は即座に言い返す。


「ウソ。みょーな目で見てた。特にあのひと。遠野サマ。あたし、だいっきらい!」

「村雨さん」

「そーよ、だから、これでもかとばかりに、ばらばらにしてやったわ」


 あははははは、と彼女は笑った。そしてくい、と破片を山東の鼻先に突きつける。


「あたしは知ってる。あんたらが図書室で、あたしの大事な場所で、べらべらとしゃべってた時のこと。その時遠野サマはあたしを指して言ったよ。あの子、なんか、気持ちわるいって。こっそり指してかもしれないけどさあ、ちーさなちーさな声かもしれなかったけどさあ、聞こえなかったフリをしてたかもしれなかったけどさあ、よぉくあたしには、聞こえてたよ」

「それは」


 言ったのは、本当なのかもしれない。高村は思う。そして山東が覚えていないのも、本当だろう。それは彼にとって、小さな小さなことだから。

 そして、された側は、ずっと。


「それで…… あいつらを?」


 うめく様な声で、山東は問いかけた。


「そうよ!」

「『仕事』だ!」


 彼女と垣内の声はだぶった。


「あくまで『仕事』、『仕事』なんだ! それだけだ。俺がこいつを動かしてた。山東先輩、あなたが憎むなら、俺だ! 俺だけでいい! 乃美江お前も――― 先輩から退け!」

「いやよ!」


 だがその手はそれ以上、動こうとはしなかった。

 高村は感じた。明らかに、彼女の身体と心に、何処かズレが生じている。


 なら。


「村雨さん!」


 高村は彼らの前に走り出た。


「何だよ、あんたは」

「村雨さん、やめてくれ」

「あんたも! あんたも殺されたいのかい!? うっ!」


 がちゃん、と音を立てて、ガラスの破片が落ちた。


「乃美江!」


 彼女は頭を押さえていた。

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