23.それから彼女は帰っていない
「何か君、本当に毎日毎日、忙しない実習になってきましたねえ」
「はあ」
高村には、そう答えることしかできなかった。
「……インク、ですか」
茶を前にしながら何かを折る森岡は、ふう、とため息をついた。はい、と高村はうなづく。
「……と言っておいたんですが、ちょっと気になって、オレ、後でその床を水で拭いてみたんです」
「水で。ほう。それでどうなりました?」
「ほうろうの流しが、……赤黒…… 色に。溶けきってしまうと真っ赤に……」
「赤黒色。ちょっとそれは、インクの色じゃ、ないような気がしますねえ」
「ええ。ですので、ちょっと、お借りしたい薬品があるんですが」
「ルミノール反応を見るんだったら、駄目ですよ」
即座に森岡は切り返した。だがその手の止まる様子は無い。
「森岡先生」
「それは、インクであるべきでしょう。だから駄目。……で、そのことは、南雲さんに言いましたか?」
「南雲先生がご覧になっている授業で、見つかったんですが」
んー、と森岡は口元をきゅっと閉じると、ようやく手を止め、顔を上げた。
「あんまり、先走るんじゃないですよ、高村君」
「先走る、って」
「物事は、なるようにしかならない、ということです」
それだけ言うと、森岡は視線をTVへと移した。この時間はローカルニュースの様である。
「……全くもって、平和なニュースが多くて、いいですねえ」
「え?」
不意のつぶやきに、高村はどう反応すべきか迷った。
「昔、私がまだ子供や学生の頃なんてねえ、残酷な事件が多かったもんですよ」
「はあ」
「それも、中等に行く位の子供達が、意味も無く、人を殺したり。またそれを、TVの方も、これでもかこれでもかとばかりに報道したものです。動機とか、背景とか」
「そうだったんですか?」
「昔は、ね。まあ、政府の長期展望の教育改革も功を奏して、今はそういうこともほとんど聞かないから、いいじゃないですかね。いい世の中になったってことでしょう」
はあ、と高村はうなづいてみせる。だがどうしても、その口調からは、その逆の意味しか感じられなかった。
「おや、高村君、君の端末、鳴ってませんか?」
あ、と彼はズボンのポケットに手を突っ込む。
「よく判りましたね」
「いや、画面が揺れるんですよ」
ああそうか、と彼は思う。音は立てない設定にしてあるのだ。
「はい?」
『……高村さん、高村さん、遠野が…… 本当ですか?』
「え?」
その声は。
「山東君、……か?」
森岡の視線がちら、と高村の方を向いた。
『……今朝、あいつの家を見に行ったら、いきなり鍵がかかってて』
「まさか、また、引っ越した、とか」
『そうですよ。見た訳じゃないけれど、隣の人が、昨夜遅く、何か、引っ越し業者が来たとか何とか……』
何だそれは。
高村もさすがにぞっとするものを感じた。遠野に関しては、昨日、学校に両親が怒鳴り込んで来ていたはずなのだ。つまり、「両親の引っ越し」に遠野がついて行った訳ではない。
『高村さん、そっちで何か、判ることはありますか?』
「オレには……」
ちら、と森岡の方を見る。
「……後で会おう。また連絡する」
呼び止める相手の声を半分無視する形になって、彼は通話を切った。
「……すみません、今日、今から帰ってもいいですか? 急用なんです」
「急用」
「……はい」
「別にいいですけど、ちゃんと指導案は書いておいて下さいよ。南雲さんはどうも忙しそうで、君の相手はまるでできそうにない様ですから」
ありがとうございます、と彼は頭をさげ、それから一分も経たないうちに、化学準備室から飛び出していた。
*
電話で指定された駅で、山東は既に待っていた。改札で高村を見つけると、大きく手を振り、こっちだ、と合図を送る。
「電話ではらちがあかないことなのか?」
そのまま早足で歩き出す山東に、高村は問いかける。ええ、と相手はうなづいた。
「この駅、オレは降りたことは無かったけど、もしかして」
「ええ、遠野の家の最寄りです」
だろうな、と高村は思った。
横を歩こうとしても、すぐにやや斜め前になってしまう男は、一分一秒が惜しいに違いない。
寝不足の身体には、この男の早足はややきついが、仕方ないだろう。高村は観念した。
山東は歩みを速めながらも、話をすることは忘れない。いや、それが目的の様でもあった。はっきりとした彼の言葉はしっかりと高村の耳には届けられた。
「金曜日、あの時別れてから、俺は友達に急に呼び出されて、一度学校方面に戻ったんです」
「学校?」
「大学の方です。メールで、ノートを渡すから急いで来て欲しい、って来たんです。ほら、この件で数コマさぼっているから、覚えはあったんですよ」
うんうん、と高村はうなづく。道はやがて、住宅街に入って行く。同じ様な家が、同じ様な間を空けて建てられている街。
「……少し気をつけないと、すぐに迷ってしまうんですよ」
山東はつぶやく。やっぱりな、と高村も思う。
「それで?」
「そう、それで一応出かけてみたんです。だけどそれは嘘でした。もっとも、発信源が端末ナンバー以外だったから、多少怪しいとは思ったんです。ただ、学内のPCから、という可能性もあったので、一応出向いたんです。実際、俺の頼んだ相手の端末は通じなかったし」
偶然かもしれませんがね、と山東は付け足した。
「一時間ばかり、指定された、学校近くの本屋で時間を潰していたんですが、やって来る気配がまるで無いし、本屋も閉店だ、ということで引き返しました。そうしたら、いい加減時間も遅くなっていたので、俺もそのまま帰って」
こっちです、と山東は看板をチェックしてから角を曲がる。
「そうしたら、気付かなかったんですが、留守電が入っていて。あいつからでした」
「遠野さん?」
「ええ。あいつも自宅からでした。後で電話が欲しい、ということで。さすがに夜も遅くなっていたんで、連絡したんです。だけど出なくて。仕方なく、留守電にメッセージだけ入れておいて」
「で、その日はそれだけで」
「ええ」
山東はうなづいた。
「……で、翌日、もう一度、今度は家の方に電話したんですよ。……そう、ここです」
彼は一軒の家の前で立ち止まった。
「ここが遠野の家です」
はあ、と高村は二階建てのその家を見上げた。こぢんまりとした、綺麗な家だった。ただ、決して隣の家と見分けがつくというものでもなかった。
正直、その付近一帯の家は、ほとんど全部が、同じ様な形、同じ様な色、同じ様なサイズのものだったのだ。違いがあると言えば、広くも無い庭に止められた車、門構えや柵の形、その周囲の植物、そういったものくらいである。
「……確かに、これじゃあ迷うな」
「でしょう?」
そして今、その目の前の家は、同じ顔をした周囲のそれとは違い、灯りが一つも点っていなかった。窓によっては、雨戸のシャッターが降りているところもあった。
「今朝からです」
「今朝」
「土曜日、俺は朝、電話したんです。そうしたら、あいつのお袋さんに、不思議そうに逆に問われました。俺のところに行ったんじゃなかったのか、って」
怪訝そうな顔で見る高村に、山東は付け足す。
「ああ、一応、三人で公認の仲、でしたから。しょっちゅうお互いの家を行き来して、泊まったりもしてましたし」
「それはまあ、いいけど……」
高村は苦笑する。
「でも俺のところには、無論来ていません」
「と言うと」
「何でも、俺に呼び出されて、あの後、出ていったそうなんです。日名のこともあったんで、お袋さんも仕方ない、と思ったそうで……」
「金曜日」
「ええ」
「でも、それから彼女は帰っていない、と」
「そういうことです」
ぞく、と高村の背に、一瞬悪寒が走った。
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