22.お久しぶりの少女

 どういうことだろう。

 島村があっさりと言った言葉は、翌日まで彼の中に後を引いた。

 しかしそれを授業の時には、顔に出さないのがプロである。彼はそのプロにはなろうとしていた。


「……と言う訳で、グループごとに、作業を開始。今度は誰も爆発させるんじゃないぞっ!」


 よく響く声で、彼は先週実験の失敗を起こしたクラスで、二度目の授業を始めていた。この日の実験には爆発やケガの心配は少ないはずである。彼はゆったりと、化学実験室の机の間を回っていた。

 ああ平和だなあ、と彼は生徒達の様子を見ながら思う。こんな実習授業の時にそう感じてしまうのも変だが、それ以外のところで、何やら色々起こりすぎるのだ。

 できればもうこの先、週末まで、何も起こって欲しくはない、と彼は切実に感じた。

 その時。


「……やだ、何これ……」

「ちょっと待ってよ、ねえ……」


 窓際の席から、ざわざわとした声が聞こえてきた。

 高村はやや急ぎ足でその声のグループの方へ向かった。

 彼女達は椅子を降り、皆で机の下をのぞき込んでいた。


「どうしたんだ?」

「あ、高村先生、ちょっと、ここ、見て下さいよー」


 その中の一人が、机の下を指す。


「さっき消しゴム落としたから、拾おうとしたら」


 どれどれ、と彼も身をかがめた。化学室の机は、グループごとの器具庫も兼ねているので、下に転がった消しゴムは、それこそ床に頬をつける位の姿勢で手を伸ばさないと、取ることができない。

 高村もまた、その様にして、下をのぞき込み――― あぁ? と声を立てた。


「何か、黒いものがべとべとして、気持ち悪いんですよー」

「黒いもの…… 先週、こんなの、あったか?」

「知りませーん」


 あったとしても、まず何か拾ったりしない限り、見つからないだろう。掃除の時にも何の報告も無かった。

 よいしょ、と立ち上がり、高村はそのグループに問いかける。その間に他のグループも、何ごとか、と周囲に近づいて来ていた。


「……別に何でもないみたいだ。たぶんインクか何かだよ。ワックスと混じってべとべとしてるんだろ。ちゃんと実験は続けて。時間内にグループの結果をレポートにすること!」


 はーい、と低い声が教室中に響いた。野次馬達は、のろのろと自分の席に戻ったが、当の席の生徒達はやはりいまいち落ち着きが無い。

 だが後ろで観察している南雲も、腕を組み、背を壁につけたまま、特にそれに関して注意することも無い。

 高村はそのまま、その時は授業を続けた。



「……お久しぶりです、高村先生!」


 昼休み、屋上に出向くと、村雨は満面の笑顔で高村を迎えた。可愛いじゃないか、と彼は思った。


「久しぶり…… 久しぶり、かなあ」


 よいしょ、とコンクリートの上に腰を下ろしながら、高村はつぶやく。


「久しぶりですよ。だって、週末はさんでるし、先生、昨日来ないし」

「ああ……」


 確かに昨日は、遠野の件でばたばたしていたので、昼の時間そのものがずれ込んでしまったのだ。


「それにしても、高村先生、今日元気無いですね、何か遅かったし……」

「何っか、ねえ」


 ふう、とコンビニで朝買ってきたおにぎりをごろごろ、と転がす。


「授業やっていた方が気が楽って実習ってありかな、って感じだよ」

「そんなに、それ以外のことも、色々あるんですか?」


 村雨は眼鏡の下の目を丸くする。


「あるって言うか…… ほら、君と同じ学年の、遠野さん、知ってる?」

「知ってるも何も、有名人ですから……」

「うん、何か彼女のこととか、化学実験室で、妙な染みがあったこととか」

「妙な染み?」


 村雨は首をかしげる。


「たぶんインクか何かを一気にこぼしたんだと思うよ。だけどあの机も隙間が狭いから、きっとこぼしたまま、拭けなかったんだな。ただそれを見て、五年生、少し騒いでしまって」

「確かに、あそこの机って、掃除には向いてませんね」

「うん。オレもそう思う。だけどまあ、別に動かす様に作られている訳じゃあないから、いいんだろうな。きっと校舎の解体でもした時には、下に凄い量のほこりが出てくるんじゃないかなあ?」


 こんな風に、と彼は手で雲の様な形を作った。


「……それで、遠野さん、結局、転校したんですか?」

「転校…… らしいね。オレにはさっぱり判らないけど。君等はどう聞いてるの?」

「私達は、もう。急に自主退学した、とか転校した、とか聞く分ですよ」

「そういうこと、良くあるのかなあ」

「良くって言うか…… でも一年に一人は、聞きますね。だいたい」

「ふうん」


 やっぱりあるのか、と高村は思った。

 彼もまた、思い出していた。

 週末、山東と会った後から、寝付きが悪くなっている。

 そんな、眠りにつくまでの長い時間に、ずっと忘れていた記憶が戻ってくるのを感じていた。

 確かに、自分が中等に居た頃も、そういうことはあった。確実にあった。ただ、小学校の頃程、頻繁ではないから、当時は疑問にも思わなかっただけなのだ。


「……あのさ、村雨さんは小学校の時、あちこちに回された方?」

「私ですか?」


 そうですね、と彼女は空を見上げ、何度かうなづいた。


「そう…… でしたね。人並みには、何回か、学校変わりましたよ。でもそれなりに、最終的には、落ち着きましたけど」

「人並みに、ね」

「先生は、違うんですか?」

「オレ等の頃くらいまでは、そういうのは無かったから。だからそう、転校は、確かにあの頃は多かったな」

「それで、理系に?」

「最終的にはね。君はもう、文系以外の何ものでもない、って感じだけどね」

「そうですね。確かに、それ以外何も無いし……」


 ふふ、と彼女はまた空を眺める。


「そう言えば、先生、実習終わったら、また大学ですか?」


 唐突に彼女は話題を変えた。


「あ、ああ」

「機会があったら、私、遊びに行ってもいいですか?」

「それはいいけど…… でも君、オレ化学だよ」


 彼女と化学の接点が、彼には思い浮かばなかった。

 ふふふ、と彼女は笑う。


「ほら、何となく、縁が無いところだから、興味があるんです。私と化学って、似合わないでしょう? 知り合いでもなくちゃ、絶対入ることなんかできそうにない場所じゃないですか」


 縁の無いところ、ね。あまり説得力のある理由とは思えなかったが。似合わないというのは納得が行くのだが。


「いいよ。でもちゃんと、オレが実習終わったらね」

「ありがとうございます。あ、じゃあ私の端末の番号……」


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