20.何かが起こった、という痕跡が欲しい。
少女はその場にゆっくりとひざをついた。少年もまたかがみ込み、少女をゆっくりと抱きしめた。
やがて少女は、少年の胸に勢い良く顔を埋めると、うめく様な声を立てて泣き出した。
その拍子に、少年のポケットから、何かが転がり落ちた。
小さなびんだった。赤いびんだった。
気がついた時、高村は家の前に居た。既に鍵が閉まっている扉をがんがん、と叩いていたのだ。
母親はこんな時間に、と叱ろうとした様だが、彼の尋常でない様子に、何も言うことができなかったらしい。
そしてその晩は、なかなか寝付けなかった。
いつまで経っても、あのびんの赤が、目に焼き付いて、離れなかった。
翌日、高村は放課後になってから、前期部へと寄って行った。
彼はまっすぐ、あの二階通路の下へ向かった。だがそこには、何も無かった。元はケーキのクリームの様に白かっただろう、一様に薄汚れた壁があるだけだった。
そんな馬鹿な、と彼は思った。
二階通路は数ヶ所あったので、他のものも調べてみた。だが何処も同じだった。そこには何も無かった。何かが起こった、という痕跡一つ無かった。
夢だったのだろうか。
だが、夢であるというなら、彼はその確実な保証が欲しかった。
「あれえ、高村先輩、どうしたのー?」
声に振り向くと、軽音楽部の後輩が数名、ふらりと外に出て来ていた。
「よお、……や、別に」
「変なの」
さっぱりきっぱりした後輩は、そのまま去って行こうとした。ちょっと待て、と高村は慌てて彼等を呼び止めた。
「何ですかあ、一体」
「先輩、後期部行って、やせましたあ? 何か顔色悪いっすよぉ」
「……そ、そうか? あの…… な、お前ら、どっかのクラスで、女子二人、死んだ、とか、いなくなった、とか…… 聞かないか?」
内心の動揺を隠して、高村は後輩達に問いかけた。
「死んだ?」
「いなくなった?」
何だそりゃ、と後輩達は顔を見合わせた。やがてそのうちの一人がああ、と眉をつり上げた。
「そういえば、うちのクラスの女子が一人、急に転校になったって聞きましたよー」
「転校だったら、そう言えば、うちの隣でもあったよなあ」
そうそう、転校なら、と彼らはうなづきあった。
「そっか…… あったのか」
「何ですか高村さん一体、唐突に」
「や、何でもない」
変なの、と今度こそ後輩達は、さっぱりきっぱりと彼らの先輩の元から去って行った。
聞くんじゃなかった、と高村は思った。これで、夢ではない確率が高まってしまった。
彼はその後、何度も何度も、同じ場所を繰り返し繰り返し、染みの一つでもないか、と見渡してみたが、そんなものは何処にもなかった。
ただ。
「……あれ?」
最初に調べた場所にあった、玉砂利の一つが。
「……白い…… 石だよな?」
時々混じっている、白い石の一つが、ひっくり返った拍子に、どす黒く汚れていたのに気付いた。
彼は慌ててそれを拾い上げ、近くの水道で軽く濡らしてみた。
赤みが、混じっていた。
彼はその石を洗い、玉砂利の中に投げ込んだ。一度投げ込んでしまえばそう簡単に見つからない。そのまま埋もれてしまえ、と彼は思った。
そしてそのまま彼は、家へ駆け戻った。まだ明るいうちから、ベッドに飛び込んだ。眠ろうとした。あれは夢だ。夢なんだ。そう思おうと、した。
だがなかなか、眠ることはできなかった。
眠れないまま、ふと手を見ると、石を洗った時の赤い染みが、手のひらのすじに入り込んで残っていた。
彼は慌てて飛び起きて、手を洗った。いつまでも、洗った。
取りに行ったギターケースは、ばらばらに分解して袋に詰め、燃えないゴミの日に出してしまった。記憶はケースと共に、ゴミの袋を閉めた時に閉じこめたはずだったのだ。
なのに。
*
「……そんなことが、あったんですか?」
長い長い、高村の話をじっと聞いた後、山東は目を大きく見開いた。
「判らない」
高村はコップの水をくっ、と飲み干した。
「今となっては、あれが夢だったのか本当だったのか、オレにはさっぱり判らないんだ。それが今度の君等の友達の居なくなったのと関係あるのかどうかも、さっぱり判らない。ただ、君等の話を聞いてるうちに、……何か、思い出してしまったんだ」
「日名の話から思い出されるというのも何ですが…… でも、突然の『転校』は、俺が中等に居た時も、確かにありましたね。一年に一度程度は……」
考えてみれば、と山東は唇を噛んだ。
「うん。だから、オレも正直、自分の見たものは夢か幻覚じゃないか、と思ってる。いや、思おうとしてきたんだ。思いたかったんだ」
それ以来、自分の見るもの、決めることに、何処か自信を無くしていたことも事実だった。
「でも仕方ないですよ、高村さん。そんなこと…… 俺だって、そんなもの、見たら、自分の目も記憶も、疑ってしまいます」
「君がそう言ってくれるんなら、ちょっと気が楽になるけど」
「俺程度で、いいんですかね、高村さん」
「充分」
実際、そうだった。存在そのものが、何処か安心させてくれる人物、というのは、確かに居るのだ。
またお会いしたいです、という山東と携帯のナンバーを交換し、高村はその日、部屋に戻った。
*
「おはようございます…… 一体どうしたんですか?」
先手必勝、と週明けの月曜日、高村は職員室に入るなり、何かを折り畳んでいる島村に問いかけた。明らかに職員室の様子がおかしかったのだ。
ざわついているだけではない。何しろあの教頭が慌ててあちこちを駆け回っている。そして、ここに来てから何故か一度も見たことが無い校長が、職員室にやって来ていた。
「おお、おはよー高村先生。いやぁね。嫌ぁなことが、起きた様なんだよ」
「嫌ぁなこと?」
「今、校長室に、遠野の両親が乗り込んで来てるんだ」
肩をすくめ、こそっ、と島村は高村に囁いた。まるで島村は、その様子を楽しんでいる様だった。
「遠野…… ってあの遠野ですか?」
「それしかいないね。あの名前は」
「でも嫌ぁなことって」
「だから、普通だったら、とうの昔に引っ越しているはずのご両親が、乗り込んできてしまってるんだよ」
は?
どうも島村の話は要領を得なかった。
「つまりなあ」
「島村先生!」
背後から、南雲が腰に手を当てて、鋭く声をかけた。
「また、変なことを高村先生に吹き込んでいるんじゃないでしょうね」
「別に変なことは言ってませんがね。まあ、南雲さんが怖いから止しておきましょ。はいはい」
不真面目だわ、と南雲はいつも以上に眉間をこわばらせ、自分の席へと向かった。
高村が遠野の「転校」を知らされたのは、その日の昼だった。
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