14.叶うこともない漠然とした夢

 コン、と一つだけノックの音がした。

 失礼します、と見事な会釈が高村の視界に入る。確か。高村は記憶の中からその名前を思い出す。垣内だ。生徒会の。


「ああ垣内君、南雲さんだったら、まだ化学室の片づけの方、やってますよ」

「片づけ」


 垣内は首を軽く傾げ、不思議そうな顔をした。 


「珍しいですね。南雲先生がこの時間まで……」

「なあに、この高村君の後始末ですよ」


 ははは、と森岡は高村を指さした。しかし顔はまるで笑っていなかった。高村は肩を少しだけすくめた。

 六時限目は、彼の初の実習授業だったが、それには化学実験が含まれていた。

 実験の授業というのは、講義の授業と違って、理解させること自体はそう難しいものではない。ただ、化学の実験だけに、手順の徹底と、安全に関しては、強く生徒に指導しなくてはならない。


 ……はずだったのだが。


「手順を間違えた生徒が一グループ居ましてねえ。ちょっと軽い爆発、起こしまして」

「……ああ、あれですか」


 垣内はぽん、と手を叩いた。どうやら、その音は彼の居たクラスまで響いたらしい。


「毎年あれって、一人は爆発させる奴が居るって言いますけど、ちょうど当たったんですね」


 くく、と垣内は笑う。それは先日生徒会の用件で南雲に見せた表情とは違っているように、高村には感じられる。


「でも、だったら、高村先生、どうして南雲先生のお手伝いに行かれないんですか?」

「……その南雲先生から、明日はそんなこと起こらないように、完璧な指導案書いておけ、というご命令なんだよ!」


 疲れもあり、思わず彼の口調も乱暴なものになってしまう。おっと、と垣内は肩をすくめ、軽くのけぞった。


「まあまあこらこら、生徒相手に癇癪起こすんじゃありませんよ。ほらほら、お茶でも入れましょうか。お昼は一人で寂しかったですよ」


 森岡はつと立ち上がった。


「お昼?」


 垣内は怪訝そうに首を傾げた。


「ふふん、この先生は、お昼に禁止されている屋上で食事をしてるんですよ」


「屋上…… ですか」

「君は出たことありますか? 垣内君」

「一度だけありますが。だけど自分は高所恐怖症なんで、それから後は。何であそこには『立入禁止』って書いてないんでしょうね」

「何故でしょうね」


 森岡はそう言いながら、高村の前に茶を置いた。ありがとうございます、と彼は少し恐縮しながらそれをもらった。


「どうせ南雲さんもそう簡単に来ないし、垣内君、君もどうですか、緑茶」

「はい、いただきます」


 どうやら垣内はこの部屋自体に慣れている様で、脇にあったパイプ椅子を自分で持ちだし、南雲の席の隣に広げる。

 その拍子に、垣内のポケットから、かたん、と小さな音を立てて、何かが転がり落ちた。


「……落ちたよ」


 高村はひょい、とそれをつまみあげる。それは小さな、ガラスの青いびんだった。


「あ、ありがとうございます」

「綺麗なびんだね」

「少女趣味って言われるかもしれませんが」

「いやいや、綺麗なものはいいものですよ」


 森岡の鶴の一声に、やや照れた表情を見せながら、垣内はそそくさと、びんをポケットにしまった。


「『立入禁止』ですがね」


 TVのスイッチを入れながら森岡はつぶやく。


「何故か、そう書いてロープを張った方が、その上に行こうという輩が多いからですよ」

「って?」


 思わず高村は問い返す。


「ほら高村君、小さな頃、思ったことは無いですか? 非常ベルを押したくなったこと」

「……ありますね」


 うんうん、と彼はうなづく。


「先生それは、まずいでしょう」


 垣内が即座に言葉をはさんだ。


「おや、垣内君、君は小さな頃とか、思ったこと無いですか? 私は今でも時々思いますが……」


 くす、と珍しく森岡は笑った。


「それは……でも、禁じられてます。でしょう? それに、そう思ってしまったら、もうそれは危険の第一歩と」

「ええ。そうなんですよねえ。今じゃ本当、皆が皆、そう言うんですよ。だから、つまらないんですよ」

「つまらない、って……森岡先生」


 垣内の表情が、あからさまに変わる。


「昔むかしは、そういうことを考える子供が大半でしたよ。まあ場合によりますが、やってみて、悪かったらしかられて、ケガをしたら痛いのが判って。……まあ、屋上から落ちたらたまったものではないですが。高村君は…… そうですね、その最後の世代かもしれませんねえ」


 どういうことだろう、と高村は茶をすすりながら考える。垣内はやめて下さいよ、と目を伏せる。


「そういうことは…… 禁止は、禁止です。どうにも、ならないでしょう」

「そうですね。それが安全でしょう。まあ特に君は高所恐怖症だというし、あまり危ないことはしない方がいいですね」


 森岡はそう話を締めくくる。論点をすり替えたな、と高村は気付いた。

 時々こうやって、森岡は昔を懐かしむ様な発言をする。

 もっともそれは仕方が無いことかもしれない。改革が始まった頃、高村は小学三年だったが、森岡は現役の教師だったのだ。


「でも、屋上で食事して、楽しいですか?」


 それでも垣内は、話題を屋上から離さない。


「……ああ、まあ、楽しい話相手が居るし」

「それは誰です?」

「言う必要がある?」


 高村は思わず言い返した。

 言ってしまったら、何となく、このやや切れ者らしい生徒会役員に、村雨が罰せられそうな気がする。何となく、それは嫌だった。

 彼女にはきっと、あの屋上の日溜まりにしか、気を抜く場所が無いのだろう。高村は彼女からその場所を奪わせたくはなかった。


「……生徒会役員として……」

「あー、じゃあ別に、取り締まる必要なんて無いよ。ほら、風が気持ちいいし、雲の流れは綺麗だし」


 ややわざとらしい程に、高村は両手を広げてみせた。


「何ですか高村くん、君のお話相手とは、雲とか風ですか」

「悪いですかね? 昔から『ハイジ』もやってきたことじゃないですか」


 にやり、と高村は笑う。


「『ハイジ』……?」

「んー? 垣内君、君、知らない? 児童文学の名作だよ。理系のオレが知ってるのに、文系の君が知らないの?」

「……今度調べてみます」


 垣内は少しばかり、悔しそうな顔をする。やや大人げないとは思ったが、高村は何となく爽快な気分がした。


「……でも文学に詳しいなら、化学じゃなくて、国語の教師にでもなれば良いでしょうに」


 お、と高村は相手に反撃の意を感じる。垣内は垣内でまた、何処か引っかかるものがあったらしい。

 森岡は黙ってTVの画面を眺め、手はまた何か紙を折り始めていた。口論したかったら勝手にしなさい、という態度だった。


「得意なのは理系だったから、そっちに行かされたんだよ。文系は好きだったけど、役には立たないってね。もし役に立ちそうだったら、中等もきっと、この学校に通ってたな。近い方だし」

「そうですか」


 垣内は納得したようにうなづく。


「だいたい何だよ。人にそういうこと聞いていて、そっちは自分の将来の夢とかは、無い訳?」


 垣内は高村の口調が好戦的になったことに、一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに気を取り直し、切り返す。


「将来の夢、ですか?」

「そうだよ。将来の夢。成績いいんだろ、垣内君」

「ええ、まあ成績は、それなりにいいですよ。あれは努力で何とかなりますからね」

「それで生徒会もやっていて」

「はい」

「大学もちゃんとそれなりに良い所へ進学するつもりなんだろ?」

「いいえ」


 垣内は即答する。え、とその答えに高村は詰まった。そう来られるとは思ってもいなかったのだ。

 すると垣内はにやり、と笑った。


「驚きます? 先生。俺がそう言うと」

「……ああ、正直」

「無論、俺にだって、漠然とした夢はありますよ」

「漠然とした…… 夢?」

「ええ。あります。だけど、それは本当に曖昧で、漠然としたもので、人にどうこう言わせたくもないし、叶うこともないものですから」


 さらり、と彼は言った。薄ら寒いものが、高村の中をよぎる。


 この感じは。


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