第2話 現世にて
イライラしていた。
とにかく、苛立ちだ。普段は気が晴れるようなことを考えて紛らわすことができるが、今の頭の中は苛立ちが支配している。
考える。ここで目の前に座っている中年の男に殴りかかってやりたい。とにかく鬱憤を晴らしたい。そんな気分だった。
電車に揺られる中で、大坂
ただ、自分のこの名案を実行するわけにはいかない。分かってる。そんなことをしたら大事だ。
車掌に捕まって、警察に連絡がいく。そうしたら、家族にも友達にも迷惑がかかるし、学校だって良くて停学。悪くて退学だ。
もしかしたら、この中年の男に反撃されて、自分が痛い思いをすることになる可能性だってある。
とにかく、悪い結果しか思い浮かばない。そんなことは分かってる。
だが、とにかくイライラしている。
親友の大野もよく言っていた。
「葵は優しいし真面目なんだけど、おせっかいなところがあるよね」
おせっかい云々のところは置いておくとして、そう、「真面目」だ。
「真面目」というフレーズは自分のイメージにピッタリじゃないか。葵はそう自負していた。
中学から成績だって悪くなかったし、高校も地元の進学校だ。
1年2年と過ごしてきて勉強にも友達付き合いにもそれなりに力を入れてきた。学校を休んだことは風邪をひいて寝込んだ1年の冬の2日だけ。
人はそれぞれ他者から見た印象というかイメージというものがあると思う。
あの人は「おふざけキャラ」とか「かっこいい」とか「恋愛体質」とか様々だが、自分のイメージとしてはやはり「真面目」になるだろう。
自分を偽って作り上げたキャラクターじゃない。普通に過ごしてきてある日、幼馴染の
「葵って、真面目だよね。ほんと」
この言葉を聞いてから、ああ俺って真面目なんだなって気づいた。ほかにも「真面目」な奴はいくらでもいたし、自分より成績がいい生徒はたくさんいたけど、友達から「真面目」という、イメージを持たれることに意味があると思う。
そんな、真面目な自分が下校中の電車でいきなり理由もなく人を殴るわけには行かない。
ただ、悶々と苛立ちを抱えて、空きもしない電車のシートの前で立っている。
電車が家の最寄り駅に着く。ああ、今日も座れなかった。学校は、人が多い都市部に近く、登校も下校も座れることはほとんどない。
電車を降りて改札を抜ける。駅から家までは自転車で15分ほどだ。ただ、億劫なのは帰りは登り坂が多いこと。
朝の急いでいるときは坂道を下って速く駅に着く。けど、疲れて帰ってくる下校の時にはその坂道が嫌になる。
普段から通っているはずの坂道がいつもより憎らしく思える。これもまた、イライラが増す要因だ。
「葵はどこの大学に行くのか決まってる?」
今日の昼休み生徒会長の
あぁ…。また、イライラだ。
そう、葵がここまで苛立っているのは、椎名から言われたこの一言が引き金になっている。椎名に苛立っているわけではなかった。
(あいつは俺よりも「真面目」で俺よりも人望があって、俺よりも将来の展望がしっかりしている。だから、生徒会選挙で俺よりも多い表を集めて、生徒会長を務めている。副生徒会長という役職にしがみついている俺とは違う。)
(将来のこととかわかんねーよ。)
葵はそう吐き捨てた。
椎名は受ける大学を決めてあるようだ。当然だ。あいつは学校の先生になるっていうご立派な夢がある。
この近くで教員免許が取れる大学は2つしかない。偏差値が高いほうの大学を受けるに決まってる。椎名ならあっさり受かるだろう。
きっと合格通知を生徒会室に持ってきて、どうだい?っと見せびらかすんだ。
そんな未来が何となく予想できた。椎名はそういうやつだ。自信家で真面目、いや「大真面目」かな。
そして自分の功績を他人に認めさせる術を知ってる。不思議と椎名が自慢げに話をしていても嫌な印象を持つ人は少ない…と思う。
ただ、今日の俺はだめだった。
いつものように将来のことを話そうと思った椎名が、話のきっかけとして標的に選んだのが葵だった。
ただ、普段の葵はそんなことでここまでイライラすることはない。今日、あの時、あの部屋、あの面子のなかで将来のことを話したくなかった。
あの話題が昨日とか明日だったら、また気分も変わって受け流すことができたかもしれない。
葵は、自分の将来について考えたことがほとんどなかった。
今が楽しければそれでいい。そういう風に考えていたわけではないけれど、ただ何となく日々を過ごしていたことは認めている。
毎日、同じ時間に目が覚めて、同じ自転車にのって同じ坂を下って同じ電車の同じ車両に乗る。学校について、親友の大野とオンラインゲームの話をして、幼馴染の
たまに生徒会の集まりで椎名の話を聞き流して、帰路に就く。
空かない電車のシートを見つめて帰ってくる
そんな日々がいつまでも続くわけじゃないってふと思ってしまったのが今日だった。
高校生活には限りがある。そりゃ、留年とかすれば1年くらいは伸ばせるかもしれないけど。
葵の学校は進学校で留年する者は聞いたことがない。不良なんてものもいないし、ただただ普通の日々が続いていくだけだ。
おそらく、日ごろから溜まってきた将来への不安とか焦りが少しづつ積もってたんだと葵は思う。
高校3年生になって、葵の周りの生徒は少なからず将来のことを考えている様子だった。
親友の大野。幼馴染の
大野は料理人。
また、葵の両親からも、大学に行くかどうかという質問をもらったばっかりだった。
(行くとは答えたけどさ。)
何となく。葵は大学に行くと両親に告げていた。今日の生徒会室でも同じように答えている。
小料理屋を営んでいる両親にとって葵は後継ぎという立案もなかったわけではないようだが、まったく料理に関心を持たなかった葵をみて、両親の二代目育成計画は自然消滅していった。
とにもかくにも、葵は将来のことを考えなければならないというプレッシャーと周囲の友達に置いて行かれているという負い目と焦りを感じつつも何から手をつけたら良いのか分からず、無力な自分に対してもイライラしていた。
「ただいま」
そうこう考えているうちに、葵は自宅に到着し、店の扉を開けて、そう口にした。
「小料理 あおい」
それがうちの店の名前だ。もともとは別の名前だったと父の
葵が生まれて名前が決まってから改名したとだけ覚えている。
(わざわざ息子の名前にしなくてもいいのに。)
これで葵が二代目を継ぐとなった暁には、自分と同じ名前の店の店主になるところだ。それは少し嫌だ。
「ああ、葵。ちょっと冷凍庫から野菜を取ってきてくれ」
「健ちゃん。息子を顎で使おうってかい?」
最初に声をかけてきたのが、父の健人。体格がよく、白い割烹着は長年の料理人生活で汚れている。
次に声をかけてきたのは常連の大野のおじさん。親友の大野の父親だ。
常連だった大野のおじさんが、歳が同じという理由で、息子を連れてきたというのが葵と大野の出会いだ。
大野が料理人の目指すきっかけとなったのが、うちの両親だったりする。
「おじさん。こんばんは。」
葵は、大野のおじさんに軽く挨拶をして、店の奥に引っ込んだ。
表側が店の入り口でその奥が居間になっている。一応裏口もあるが、普段から鍵がかかってて外側からは入れない。
「あら。おかえり。お父さんなんて言ってたの?」
居間に入ると母の
「野菜だってさ。」
葵はそう言って、冷凍庫から頼まれたものをもって厨房に持っていく。持っていくものはいつも決まっている。「野菜」と広義で言われてもそれくらいは理解できる。
父はそれらを渡されると、さささと調理し始めた。葵はそれを横目に居間に戻ろうとする。
大坂家では店で出す料理を食べることは禁じられているため、今作っている料理はお客のものになる。ここにいても夕飯にはありつけない。
「おう。あー。葵。そういえば、昨日言った大学の事な。お前が行く気なら、応援するぞ。」
葵が居間に戻る前に、父がそう葵の背中に声をかけた。
「あー、うん。」
苛立っているなかで、父から言われた言葉でより一層苛立ちが強まった。
なんとか堪えて、そう答えた。早く自室に籠りたい気分だ。
「なんだい。葵くん。大学に行くのかい?いいねぇ。何かやりたいことが見つかったのかい?頑張りな。」
大野のおじさんも父の言葉に乗っかって語り掛けてきた。
さきほどまでなんとか堪えてたものがこみあげてくる。
何を頑張るんだよ。そう言いかけたが、葵はぐっとこらえた。押しとどめて、押し殺した。大きな声を出して走り出したい気分だ。
「ちょっと、コンビニ行ってくる」
葵は大野のおじさんへの返答はせず、居間を通って廊下に抜ける。
その先にある裏口の内鍵を開けて外に出る。あの空間に留まりたくなかった。とにかく、あの場所から離れて気持ちを落ち着かせないと、どうにかなりそうだ。
自転車にまたがって、足に力を入れて思いっきりこぎ始めた。夕方を少し過ぎたころで薄暗くなってきたが、坂を上ったところに家が建っているため、まだ明るい。
ポケットからイヤホンを取り出してスマートフォンに繋げる。お気に入りの「アンダーウイング」のGBMだ。
少しずつ音量を上げていく。ちょうど周りの音が聞こえなくなるくらいの音量にする。
そうすると、自分が周囲とは別の空間にいる気分になれる。葵がよくやるストレス解消の方法だった。
スマートフォンをポケットにしまって坂を下る。行先は決まっていなかった。
とりあえず、自転車で30分くらいふらふらしよう。なんなら、本当にコンビニに行ってもよかったが、コンビニは坂をもう少し上がったところにある。
疲れている葵は楽な下り坂を選んで走り出した。
葵が選んで通る道は住宅が並ぶ地域でも車の通りが少なく、道幅が広い道だ。
こっちのほうが車に遭遇して避けることも少ない。
この道を使う地元の人間も多くない。知っている人間はスピードを速めてこの道を通り抜けた先の大通りを目指す。
自転車を走らせているが、バランスを取っているだけで自然と前に進むことができる。体重を前方にかけてスピードを上げる。
しばらく進むと大通りにぶつかるが、まだブレーキをかけるタイミングにしては早すぎる。
走り始めてまだ、5分も経っていなかったためか、まだイライラが収まらない。
葵は学校で椎名から投げかけられた質問や店での言葉たちを思い出す。
「ああ、もう!」
葵はぎゅっと目を強く瞑る。
パッと目を開けた瞬間、ふと視界の端に大きな物体があるのを確認した。
そちらのほうに目を向ける間もなく、大きな物体は葵に近づいてきた。
大きな物体の正体は、車だった。
葵は車が自分の体を突き飛ばし、大きな衝撃を受けるまでの刹那、様々なことを思い出す。
今が、夕方過ぎで太陽が沈み始めているということ。坂を下ったことで、まだ明るかった家の周りとは違って周りが暗くなっていること。イヤホンをしていて周りの音が聞こえないこと。体重を前に傾けてスピードを上げていたこと。この道は車の通りが少なく、それを知っている地元の人間はスピードを上げて車を走らせていること。
車と衝突し葵の体は宙に投げ出された。
その時にドン!という音を立てていたが、その音が葵の耳に届くことはなかった。
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