第71話 ふぃあんせ
エドワードからの伝言の後、隣にいた乃野木さんのおかげもあって、なんとか午後の授業には参加した俺だったが、結局、内容のほうはあまり頭に入ってこなかった。
『今すぐ帰ってきなさい』
伝えられたのはエドワードからの口からだが、頭の中で繰り返し響くのは父の声ばかり。
夏が始まる少し前に家を追い出されてから、ずっと聞いていないはずの声が、なぜか、まるで昨夜にでも聞いたように耳の奥に響くような気がした。
チャイムが鳴り、一斉にクラスの皆が教室を出て行く。どうやら今日の授業が終わったらしい。
「……滝本、ねえ、滝本ってば」
「あ……うん」
乃野木さんに体をゆすられて、俺はようやく荷物をまとめ始めた。
いけない、ずっとぼーっとしていた。
「……滝本、アンタ、」
「いや、大丈夫だよ、大丈夫だから」
エドワードが下で待ってくれているので、早く行かなければならない。こうなった以上は、話を聞かなければ。
でないと、俺はまた父さんに叱られてしまう。
帰らなきゃ、父さんにそう言われたら、俺は従うしかな――
――……あれ? なんで俺今、なんて――。
「――おにちゃん!」
と、俺が教室を出ようとしたところで背中から思い切り抱き着かれた。
この声と、そして背中に感じるいつもの感触とぬくもりは。
「三久、なんで――」
「さっきノノさんから連絡もらって……こっそり上がってきちゃった」
どうやら乃野木さんが休憩中などに色々と手を回したらしい。そういえば、岩井さんも俺に何か話していた気がする。その時は聞こえなかったけど。
「おにちゃん、いったん落ち着こ。大丈夫……大丈夫だから……私はここにいるから」
「あ――」
三久に抱きしめられたままゆっくりと呼吸を繰り返すと、次第に、こんがらがっていた思考と狭まっていた視野が徐々に元通りになっていく。
俺のことを見て心配する表情を浮かべている三久を、俺はようやくに認識することができた。
「……三久」
「なに?」
「俺も、三久のこと抱きしめていい?」
「いいよ。恋人なんだから、当然だよ」
乃野木さんが隣にいるのも構わず、俺は三久のことを抱きしめ返す。
ほんの僅かに汗のにおいが混じった甘い制汗剤の香り。もう何度も嗅いだいつもの三久の匂いに、さざ波が立っていた心が徐々に穏やかになっていった。
「……ふう」
「落ち着いた?」
「うん、ごめん。俺またダメになりそうだった」
「本当、世話のかかる彼氏だよ、おにちゃんは。でも、間に合ってよかった」
少し前まで乃野木さんに対してなんて余計なことを――と一瞬でも思ってしまった自分を殴りたい。
もう自分でもはっきり吹っ切れたと思っていた。俺には三久がいて、みんながいるから、昔のことはきっぱり忘れることができていたのだ、と。春風を拒絶したとこで、そう思い込んでいたのだ。
「そういえば、一階のロビーにいた金髪、アレ、どうなってる?」
「ああ、そう言えばいたね。なんかあの人、春風ちゃんの知り合いっぽいみたいで、なんか会うなり二人で話してたみたいだけど」
「……なんか私、まーた面倒なヤツに巻き込まれたぞコレ」
乃野木さんが苦い顔でそう言うが、こうなった以上は三人で行くしかないだろう。
……まあ、なんとなくエドワードが春風のなんなのかは、おおよそ予想がついてしまうが。
三久の手をつないだまま、エレベーターで一階に降りると、なにやら応接室辺りに人だかりができていた。岩井さんや、その他の職員さんに、周りには野次馬らしき予備校生たちも。
その騒ぎの中心にいるのは、もちろん。
「ちょっと待ってよ、フウ。いきなり殴ることなんてないじゃないか」
「……いつ私がアンタにその名で呼ぶことを許した?」
「ええ? そんな、僕は君の
視線の先にいたのは、妹の春風とエドワード。
エドワードは春風に胸倉をつかまれていて、すでに一発ぶたれたのか、右頬がほんのり赤く腫れており、鼻からわずかに鼻血も垂らしている。
春風がこちらに来た当初に話してくれていた『金髪碧眼の少年』が、きっとエドワードのことだったのだろう。
彼は初めから滝本家とつながっていたのだ。だからこそ、エドワードは俺のことを知っていたし、父の伝言を俺に伝えることを命令されたのだ。
「春風、何やってるんだ、やめろ」
「兄さんは邪魔しないで。私がちゃんとやるって言ってんのに、コイツ、私の許可なく勝手なことを――」
「許可なく? それは違うよフウ。君がいつまでもお義父さんの言いつけを守らなかったから、その手伝いをしてこいって僕が頼まれたんじゃないか。じゃなきゃ、僕だって、こんなクソみたいな田舎町に来たいだなんて思わな――」
「アンタそれっ、言うなって……!」
春風がエドワードの口を慌てて遮ろうとするが、すでに色々と聞こえてしまっている。
「春風、やっぱりお前……」
「…………うん」
滝本家にどんな事情があったにせよ、やはり、春風が俺のもとに来たのは、気まぐれでもなんでもなかったのだ。
「そうよ、兄さん。私がアナタのところに来たのは、お父さんからの命令よ。――事故で重傷を負ってしまった悠希の代わりに、兄さんを連れ戻して来いってね」
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