第70話 きんぱつ


「え、俺……?」


 あまりにも予想外だったので、ついそう呟いてしまった。


 もう一度彼の姿を確認してみるが、もちろん、俺にあんな知り合いはいないし、一目見た記憶すらない。あれだけ目立つなら、必ず覚えているはずだ。


「えーっと、ごめんね。生徒個人のことについては、何も答えられないんだ。僕のことなら教えられるけどね」


「ああ、大丈夫です。――ちょうど今見つけたところなので」


 にやり、とした顔でこちらを向かれる。


 しまった。受付カウンターから離れていたので油断していたが、どうやら呟きを聞かれてしまったらしい。すごい地獄耳だ。


 青い瞳はばっちりこちらをロックオンしているので、逃げ切れそうもない。


「乃野木さん、一緒にいてもらっていい?」


「それはいいけど……でも、いいの?」


 話を聞いてもいいのか、という意味だ。


 おそらく俺にとってあまりいい話ではないだろう。だが、もしそうなったら、どのみち乃野木さんには相談することになりそうだし、それに、誰かがいてもらったほうが心強い。


「お願い」


「ん、おっけ」


 お願いしてもらって、俺たちは、笑顔を張り付けてこちらに近付いてくる金髪の少年を待ち構えた。


「どうも、こんにちは。私も名前とここの予備校に通ってることぐらいしか聞かされてなくて……そちらのほうは彼女さん?」


「私はコイツの友だち。その前に、まずそっちが名乗るのが礼儀でしょ?」


「これは失礼。私はエドワード・アカツキと言います。アカツキは、太陽が昇る前のほうじゃなく、赤い月。こう見えても日本生まれの日本育ちです。外国語はだいたい喋れますが」


 だいたい、ということは英語もそうだし、他の国の言語も主要なところはほとんど、というところか。


「まあ、たまに外国人っぽく日本語覚えたてのような口調をすることもありますけどね。例えば、そうですね……『ようやくミツケマシタヨ! 私のダイジなTシャツ!』みたいなね」


「ん?」


 そのフレーズ、どこかで聞いたような。


 確か、少し前に三久と一緒に裏山を散歩してて、そこで三久の着てきた水着を見ようとって時に邪魔が入って、その時に聞こえたような。


「人違いだったらすいませんが、エドワードさん、もしかして、滝の時の――」


「! ああ、わかります。覚えていますよ! もしかして、あの時のイチャイチャカップルさんがそうだったのですか? ちょうど知人の別荘が海の近くにあって、付近を探検してたのですが……ああ、大丈夫、何も僕は見ていませんよ。ダイジョーブダイジョーブ」


 どこかで会うことがあればお礼を言おうと思っていたが、まさかこんな形で再会するとは。


 第一印象としては、さわやかな見た目もあってとても話しやすいが……これが本当に初めましてだったら、仲良くなれたかもしれないのに。


「ところで、俺に何の用ですか? もちろん、こんな世間話をするためにわざわざ予備校まで来る必要はないですもんね?」


「まあ、そうですね。……では、次の授業ももうすぐ始まるようですし、その前にまずこちら側の要求だけ伝えておきましょうか」


 エドワードは、それまでのさわやかな笑顔を張り付けたまま、俺に向かって静かにこう伝えてきた。


「あなたのお父さん、悠仁さんからの伝言です――『今すぐ荷物をまとめてこちらに帰ってきなさい』だそうです」


「父さん、が……?」


 帰ってこい? 俺に? 今すぐ?


 俺のことなんかいらないんじゃなかったのか。兄と妹だけでいい……俺なんか家族じゃないじゃなかったのか。


 なんで。どうして。


「……! …………!」


 隣の乃野木さんが俺の肩をゆすってなにか言っているが、何も聞こえない。


 彼からの伝えられた父の言葉を聞いた瞬間、俺の耳には、弁当箱が床に落ちた音のみが響いていたのだった。

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