第65話 あいたい


 ※※


「――――ここは」


 保健室のような薬品の匂いに俺が目を覚ますと、知らない場所が俺を出迎えた。


 真っ白な天井と、蛍光灯から発せられる白い光。眩しくて、俺は反射的に目を細くした。

 

 ベッドの上に寝かせられているから、どうやらいつの間にか気を失っていたようだ。


「あれ? でも、俺さっきまで山にいて……いや、あれは俺が子供の時だから、アレは夢か……」


 直前に見ていた記憶やら今の現在の景色やらで頭を混乱させていると、ひょっこりと、俺の視界に一人の少女の顔が映り込んできた。


「――あ、やっと起きた」


「春風」


 起き抜けだったことこともあり、始めのうちはぼんやりとした顔しか見えなかったが、いろいろと嫌な思い出の多い声だったのですぐに誰かわかった。


「兄さん、ここどこかわかる?」


「えっと……つっ……!」


 ずきん、と後頭部のあたりが痛んだ瞬間、俺は直前の記憶を思い出した。


 そうだ。俺はカナ姉から紹介されたカフェでアルバイトをしてて、迷惑客の忘れ物を返そうとしたときに――。


「そっか、俺、気を失って病院に運ばれたのか……」


「七針縫ったって。ぱっくり割れたせいで血はかなり出ちゃったみたいだけど、特に脳には異常ないから、日常生活にも勉強にも支障はないだろうってさ。よかったね、こんなしょうもない怪我で偏差値下がらなくてさ」


 そういえば頭にも包帯が巻かれている。服のほうはいつのまにか着替えさせられていたが、脇にある椅子の上に着ていた制服やエプロンが置かれていて、それはかなり血で汚れていた。


「で、どうする? 一応、時系列順に説明してあげよっか? 私もカナタから聞いただけなんだけど、兄さんもそっちのほうが混乱しなくていいでしょ?」


「……頼む」


 妹の春風にカナ姉から連絡が来たのは、俺が救急車で病院に運ばれた後だった。


 俺が自分の血を見て気を失った後、現場のほうはわりと騒然となったらしい。


 俺のことをずっと介抱してくれていたのは、気を失う直前、店長や三久に助けを求めていた由野さんで、自分の体が血だらけになるのも構わず、俺のことを必死に介抱してくれ、救急車にも乗り込んで隊員の人に状況を伝えてくれたようだ。


 その後は俺の傷の状態が軽いことを聞いたので、俺の血で汚れた体を洗うために、一時的に帰宅しているそうだ。


「そっか……せっかく俺たちの様子を見に来てくれたっていうのに」


 怪我のそれほどひどいことにならずに済んだのも、由野さんがすぐさま俺のもとに駆け寄って応急処置をしてくれたからで、そこは感謝してもしきれない。


「――で、その後カナタから連絡もらって、私がお婆ちゃんを連れて地元の病院まで様子を見に来たってワケ。あ、おばあちゃんは今ロビーのほうで入院やらの手続やってるから、終われば来てくれると思うよ」


 わりと冷静な春風はともかく、俺が病院に運ばれたとなれば祖母はかなり心配したはずだ。


 もちろん、心配をかけたのは祖母だけではない。由野さんもそうだし、カナ姉、それに三久だって――。


「! そういえば、カナ姉とか三久は――」


「あ、そういえば……カナタのほうは売店で飲み物とタバコ買ってくるって言って出て行っちゃったけど、あの子は……ちょっと探してくるから待っててくれる?」


「あ、ああ……」


 春風も出て行って、俺は一人病室に取り残された。


 いつもの三久なら俺のベッドのそばにいて誰よりも先に目を覚ますのを待ってるかと思っていたのだが。


「あれ……?」


 三久がいないことを実感して、途端に寂しさが押し寄せてきた。


 いつも犬みたいにじゃれついてきて、ベタベタと甘えてきて、俺から絶対に離れようとしなかった三久がいない。


 確かに春風や祖母と違って、三久は家族ではない。今は家族ぐるみで仲良くしているけど、所詮は他人だ。時間もそろそろ夜に差し掛かり、面会時間のこともあるから遠慮しているのかも。


 でも、今俺が誰よりも会いたいのは一人だけだ。春風や祖母、それにカナ姉や由野さんには申し訳ないが。


 三久に会いたい。


 会って、きちんと自分の口から問題ないことを伝えたい。そして、余計な心配をかけてしまったことを謝りたい。


 もちろん今である必要はない。おそらく今日は病院に泊まることになるだろうから、明日か明後日、ちゃんと退院してからのほうがいいかもしれない。


 それでも、俺は今、三久に会いたかった。


 10分、5分、いや1分、30秒だけでもいい。一目だけでも会って、いつものように三久のことを『抱っこ』してあげたい。


 甘えているのは俺の方だ。しょうがない、なんて年上ぶってはいるけれど、結局のところは、俺の方が三久のことを必要としていたのだ。


 勉強ばかりで友だちなんて誰一人おらず、どうせここでも退屈な時間を過ごすんだと思い込んでいた12年前の夏のときから、ずっと。


「三久」


 ぼそり、と俺は幼馴染の名前を呼んだ。昔、家の裏山でかくれんぼをして遊んでいた時、彼女のことを見失って半べそをかいていたみたいに。


 思いっきり俺のことを怒ってくれていい。どうしようもない人だと呆れて、ひっぱたいてくれても構わない。


 だから――。


「……おにちゃん」


「あ――」


 ベッドから身を乗り出して病室の入口の外に目をやった時、俺から微妙に見えないよう、ドアの陰に隠れるようにして立っている三久を、俺はようやく見つけたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る