第64話 だいすき


 ※※


 ――ここはどこだろう。


 気が付くと、僕は木漏れ日の中にいた。


 遠くから聞こえるセミの声。湿った土や葉っぱの匂い。


 上を見上げると、木々の隙間の向こうに、白い雲と眩しいぐらいの青い空の世界が広がっている。


『いっ……』


 訳が分からず、しばらくの間辺りをぼーっと見回していると、おでこのあたりにずきんとした痛みが走った。


 ポケットに入れていたハンカチで痛みのあった場所を押さえてみると、血が結構ついていた。おまけに、膝と肘もすりむいているのに今さらながら気づく。ちょうど斜面辺りにいたので、多分、どこかから転げ落ちでもしたのかも。


 おばあちゃんの家に行くからとお母さんに着させられた白いシャツとズボン――ああ、やっぱり土だらけの泥だらけで真っ黒だ。


 最近お勉強も上手くいかなくて怒られてばかりのなのに、今度は服もダメにしちゃって――そんなことを考えていると、


『うわああああん! おにちゃんが、おにちゃんが落ちてしんだああああっ!!』


 大声で泣き叫びながら、僕に思い切り抱きついてくる子がいた。


 小学生になった僕よりも全然小さいけれど、僕なんかよりもずっと元気いっぱいのかわいい女の子。


 まあ、今は死んじゃったらしい僕の胸にすがりついて、ぐすぐすと泣きべそをかいているんだけど。


『死んでないよ。大丈夫。ほら、ちょっと擦りむいただけだし、血もそんなに出てない。ほら』


『……でも、ハンカチまっかっかだよ?』


『人間はこれぐらいの血じゃ死なないんだよ。もっと血がどばーって出ないとダメなんだって、僕のお兄ちゃんが言ってた」


『どばーって、どのくらい?』


『う~ん……おやつのコーラを全部ひっくり返しちゃうぐらいかな? そう考えればこんなのなんて全然でしょ?』


『……うん、コーラこぼしたらやばい。おかあさんにめちゃくちゃおこられる』


 そう言いつつ内心ちょっとビビってはいる僕だし、実は今すぐ泣き出したいくらいに擦りむいた傷が痛いけど、ここで僕が泣いたらダメだと思って、唇をぐっと噛んで、目から涙があふれるのをぐっとこらえた。


 なんでそうしたんだろう。それは僕にもわからない。いつもは泣き虫で、お父さんやお母さん、お兄ちゃんにちょっと怒られただけでも、部屋の隅でメソメソと泣いている僕なのに。


 でもなぜか、今は泣いちゃいけないと思った。


 せっかく泣き止みかけている女の子を、これ以上不安にさせたらいけない――そう思ったから。


 とはいえ、僕の我慢にも限度というものがある。いつの間にか涙は目の奥のほうに引っ込んでくれたけど、痛みまでは引いてくれなかったのだ。


『ほら、僕は大丈夫だから、今日はもうおうちに帰ろう』


『……ん~』


『どうしたの?』


『……ん~、ん~』


 だが、女の子は首をふるふると横に振って、ずっと僕の胸に顔をくっつけたままだ。もう泣き止んでるし、歩けないというほど疲れたわけでもないと思うけど。


『帰りたくないの?』


『……まだ、だっこ』


 そう言って、女の子は僕のことをぎゅっと抱きしめた。せっかく綺麗で可愛い服を着てたというのに、そんなのお構いなしとばかりに泥まみれになった僕へ、その小さな体を密着させてきた。


「うぐ……」


 ああもう、やっぱりダメだ。


 そんなふうに甘えられたら、僕はもう言うことを聞くしかないのだ。


 そうされるのが、嫌じゃなかったから。


『……もう、しょうがないなあ。じゃあ、ちょっとだけだよ』


『えへへ~』


 僕が抱きしめ返すと、女の子がはにかみながら、甘えた犬みたいに僕の胸に顔を擦り付けてきた。


 いつもしつこいぐらいにまとわりついてきて、本当はうっとうしいと思っていいはずなのに、気づくとこうして僕のそばにいる。


 それが、この場所に来てから毎日のように繰り返される、僕と彼女の日常――。


『ねえ、おにちゃん』


『なに?』


『わたしね、おにちゃんのこと――』



 ――ああ、そうか。



 彼女が次の言葉を発した瞬間、僕は……『俺』は気づいた。いや、正確に言うと思い出したのだ。


 彼女は最初から変わっていなかったのだ。今年の夏に再会した時からじゃない、多分、その前から――12年前の夏に俺と初めて会って、光のように過ぎ去っていったあの一か月半を過ごしてからずっと。


 三久は俺のことが。



『――だいすき』

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