第55話 がたおち
三久の部活の夏はいったんお休みだが、浪人生の俺にとっての夏はまだまだこれからだ。夏休みに入ると、予備校のほうも途端に騒がしくなってくる。夏期講習だけ受けに来たり、高二生を含む、夏から本格的に通い始める現役生が増えてくるのだ。
今日はその夏期講習日ということで、朝からロビーはそれなりに騒がしい。予備校としても稼ぎ時なので、岩井さんも忙しくしているようだ。
「――おはよ、滝本。なんだ、今日早いじゃん」
「乃野木さんこそ」
「ま、いっつも遅刻だから早めに入って自習でもね。アンタもでしょ?」
「……まあ、そんなとこ」
乃野木さんと並んで教室へ入る。中はまだ空調のスイッチが入っておらず、むわりとした空気が俺たちを出迎えた。
早く来ても、座る席はいつもと同じで変わらない。前二つは、俺と乃野木さんの特等席みたいになっている。
「そういえば滝本、この前の外部の全国模試なんだけどさ、結果どうだった? 私、今回初めて100位内に入ってさ」
「あ~……えっと、どうだったか――」
「見せろ」
「!? ちょっ……」
なぜ知っているのかわからないが、試験結果などをいつも閉まっている箇所のファスナーを開けて、乃野木さんがひょいと試験結果をひったくっていく。
「――はあ、あんたねえ……」
「……すいません」
「別に私はお母さんじゃないんだから、謝る必要はないんだけど。……アンタ、また成績悪い時に戻ってんじゃん」
そう。
ちょうど先月末に受けた模試の結果だが、ようやく戻したと思った成績が、再びメンタルを崩して絶不調だったときに逆戻りしてしまっていたのである。
「一応聞くけど、今の体調は?」
「元気です」
「メンタルは?」
「問題ありません」
「食事は? 食欲は?」
「ちゃんと食べてます。普通にあります」
体調はまったくの万全だった。春風のことも関係ない。にもかかわらず試験で思うような結果が出なかったのだ。
「んじゃ、三久ちゃんとは?」
「……」
「図星ね」
「……」
もちろん三久のせいというわけではない。三久とはいつも通り上手くいっている。いや、上手くいきすぎているといっていい。
だからこそ、今、俺は悩んでしまっていたのだ。
実は先日のバーベキューでの出来事の前後あたりからだろうか。気づくと、ずっと三久のことばかり考えるようになってしまったいた。
12年前の、たった一度の夏休みに一緒に遊んだだけにもかかわらず、ずっと俺のことを覚えていてくれて、大人になっても情けない姿を晒していた俺のことを見捨てることなく、そばで手を握って元気づけてくれた幼馴染の女の子のことを。
ほとんどの人たちが察しているはずなので白状する。
俺は三久のことが好きだ。
通り雨のバス停で成長した三久と再会した時も、一目見て可愛い女の子だなと思っていたが、昔のことを徐々に思い出し、再び付き合いを深めていくうちに、自分は三久に恋をしてしまったことに気づいたのだ。
きっかけはいくつもあって、それが積み重なって思いが溢れてしまった。
そこからというもの、いくら頑張って勉強しても集中できない。もちろん真面目に授業に出て、ノートをとり、ちょっと疑問に思ったことは聞いて、家に帰ればきちんと机に向かって問題集を解くなりしているのだが、頭の中を支配するのは数式でも英単語でも、歴史でもなく。
ただ、俺に向かって屈託のない笑顔を見せてくれる可愛い幼馴染の女の子と、ただひたすらイチャイチャしている想像だった。
もっと三久と一緒に居たい、もっと三久に触れていたい。もっと、もっと――。
夏休みに入ってから、ずっとそんなことばかり考えて、部屋の中で悶々とした日を過ごしていた。
そんなことをしていたら、それは成績だって下がってしまうだろう。
今日いつもより早く予備校に来たのだって、三久のことを意識し過ぎたせいだ。
一目顔を見てしまうと、体同士が触れ合ってしまうと、離れたくなくなる。もっともっとと三久のことを求めてしまいそうになる。
それを振り切るためにと思って、今日はいつもの日課である挨拶をせず。
(滝)「今日は早めにでるから」
というメッセージだけ残して、家から出てしまった。
……なんて俺はバカなことをしているのだろう。
「……ねえ、滝本」
「なに――って、痛っ!?」
「今アンタのこと殴ったけど、別にいいよね?」
事後承認制の暴力なんて生まれて初めて受けたが、今の俺のダメさ加減を見ていれば、乃野木さんも一発や二発、ぶん殴りたくなるだろう。
「ったくもう、揃いも揃って……なんで私、こんな奴の面倒なんて見ようって思ったんだか……」
「ごめん」
「いいよ。元全国一位さんだからって、安易に近づいちゃったお節介な私にも責任あるし。まあ、最後まで面倒はみるしかないでしょ。……で、どうするの? このままずっともやもやしたままシーズンに突入すんの? それで試験は上手くいくの?」
「それは……」
絶対に良くない。今の状態で頑張っても、三久への気持ちはつのる一方で時間が経てば落ち着くような問題ではない。
答えを出すから待って欲しい、と言っておきながら、言い出しっぺがもう我慢できなくなっている。なんて情けないんだろう。
三久は俺のことを気遣って、全部わかっているうえで待っていてくれているというのに。
「こうなった以上仕方ない……ねえ滝本、アンタさ、やっぱりこの夏休みの間に三久ちゃんに告って、ちゃんとした恋人同士になっちゃいなよ」
「ええっ!?」
乃野木さんはこう言うが、少し前に三久には答えを先延ばしするようお願いしたばかりだ。そんな舌の根の乾かぬうちに、
――やっぱり我慢できませんでした、付き合ってください。
なんて言っていいものだろうか。
「だって、アンタ三久ちゃんのこと大好きなんでしょ? あの可愛い笑顔を自分だけのものにしちゃいたいんでしょ? どうなの? 蹴るよ?」
「それはやめて……はい、そうです。大好きです」
「なら、夏休み全部潰しちゃう覚悟で、三久ちゃんとひたすらイチャイチャするのも手だよ。勉強のことはいったん全部忘れて、その熱が引くまで三久ちゃんと心ゆくまでしたいことなんでもすりゃいいじゃない」
それは、ある意味メリハリがあって、一理あるかもしれないが。
「でも、それでもしずっと気持ちが引かなかったら……?」
「その時はしゃあない。もう一年棒に振っちまえ。もしくは三久ちゃんと一緒に大学受験しちゃえ」
やけになったのか、乃野木さんがすごいことを言い始めた。
「まあ、それは言い過ぎかもしれないけどさ。でも、私から見ても、三久ちゃんはそうするだけの価値があると思う。試験はいつでも受けられるし、お金はバイトでもなんでもすればいい。借りるって手もあるしね。でも、女子高生の三久ちゃんとの夏は今含めて後三回しかないんだよ?」
三久も再来年は受験なので、そのことを考えると実質後二回だ。三久が俺と同レベルの偏差値の高い大学を希望するなら、俺以上に頑張らないと合格は難しい。
それこそ、こんなことにかまけている暇はない。
「前にも言ったと思うけど、アンタには他の何より三久ちゃんが必要だと思う。だから、三久ちゃんの友達としても、アンタの、まあ、友達? としても、さっさと幸せになれよバカヤローってこと」
「乃野木さん」
「ということで、お姉さんからの話は以上。じゃ、私は喋り過ぎて喉渇いたから、コンビニ行ってくるわ」
「あ……ちょっと待って乃野木さん」
「あ? なに?」
そんなに怖い顔をしないで欲しい。
「いや、なんかずごい説得力あるな思って……乃野木さんは、こういう経験って、やっぱりあるの?」
訊くと、乃野木さんは帽子をとって言う。
「この顔でさ、ないと思う?」
「……すいません、愚問でした」
「ん」
普段は目深に帽子をかぶって隠しているが、そういえば乃野木さんも相当な美人だった。
現実的に考えれば、ないほうがおかしいというものか。カナ姉も、乃野木さんも、そして本来は三久だって……。
「ともかく、私は言ったからね。いい惚気話、期待してるから」
そう言って乃野木さんは教室から出ていき、一人その場に残される俺。
「三久に告白……確かに、できることならしたいけど」
今後の予定しているイベントで果たしてそのような状況になってくれるだろうか。
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