第48話 しんきょう
「遥くん、準備できた? そろそろ出発するよ~」
「あ、はい」
朝食を終えた後、部屋に戻って勉強をしていると、慎太郎さんが外のほうから手を振って呼びかけてきた。
グラサン、少し派手目のアロハシャツ、首からはカメラをかけて、大きなバッグを肩に下げている。慎太郎さんの私服姿――結構久しぶりに見た気がするが、それはいいとして、娘の応援に市民プールに行くだけのなのに、随分な荷物だ。
あと、カメラのほうは中で撮影できないはずなので、置いていったほうがいいと思う。まあ、そこは三枝さんに任せておくことに。
「春風、今いいか?」
「なに? 兄さん」
「俺、今から早谷家の人たちと出かけるから」
「わかってるわよ。じゃあ、大人しくお留守番、してるわね」
「留守番……」
確か今日はカナ姉と町の観光に連れまわされると言っていたはずだが。
「大丈夫。心配しなくてもあの人にはさっき連絡したし、ちょっと気分が悪いだけで、休めば治るから。……じゃあ、行ってらっしゃい」
「あ、ああ」
朝食は普通に食べていたが、その後は部屋に籠りっぱなしで、ドアも鍵をかけてしまっているので、何をやっているのかもわからない。
「遥くーん! まだかい?」
「! すいません、今行きます。……春風、もし体調が悪いんだったら、俺でもカナ姉でもいいから電話してきてもいいから」
それだけ言って、俺は玄関を出た。春風からは何の反応もなかったが……それより、今は三久の応援のことを考えよう。
こんなふうに誰かの応援にいくのは、俺にとっても初めてだ。活躍してもしなくてもいいが、何事もなく無事に終わってくれればいいと思う。
「遥くん、三久が出てきたら一緒に声をかけようか。僕はともかく、君に声をかけてもらったほうが、三久も喜ぶと思うから」
「声かけ、ですか……」
しっかり見守るつもりだったが、声援となると少し話は変わってくる。
そう言う時、いったいどう声をかければいいのだろう。ベタに頑張れとか……いや、それだと他の人たちと一緒だろうから、かき消されてしまう。
皆は特に気にしていないようだが、俺は声もものすごく小さい。喉がかすれるほど大声を出したという記憶は、それこそ12年前のあの時にさかのぼる。
あの時は、なんて叫んでただろうか。
「ちょっとお父さん、自分が三久に言いたいからって遥くんを巻き込まないの。別に声なんかかけなくても、三久ならきっと見つけてくれるわよ。ねえ?」
「そういえばそうですね。まあ、気がのったら声も出してみようと思います」
俺が大会に出るわけじゃないのに、なんだか俺のほうが緊張している。
頑張れ、三久――心の中で幼馴染への声援を呟きつつ、慎太郎さんの運転するミニバンは会場の市民プールへと出発した。
※※
「――行ったかな」
兄さんをのせた車が小さくなって完全に見えなくなったのを確認してから、私は兄さんが普段使いしている机に突っ伏した。
子供のころからずっと使っている学習机。私が産まれたときにはすでに置かれていたから、もう15年になるだろうか。
ここには、兄さんの匂いがたっぷりと染みついている。第一志望の学校に合格できずに流した涙も、長兄の悠希に痛めつけられて流した鼻血や涎も。
どれだけピカピカに磨いてもそこだけわずかに黒ずんで残った染みの部分を、私はじっくりと指でなぞる。
「――こんなもの、さっさと捨ててしまえばいいのに」
まだ使えるから捨てないのか。
それとも、まだ捨てられないから使っているのか。
果たして、兄さんの気持ちは今、どっちにあるのだろう。
「早谷三久、ね」
兄さんをがっちり守るように隣にいた女の子のことを、私は思い出す。
12年前というと私が二歳の時だが、私は全て覚えている。一か月半の夏休みの間だけ新庄家に兄さんがお世話になった時から、ずっと隣に住んでいた、所謂幼馴染。
兄さんがその時、彼女とどんな夏を過ごしたのかは、私は知らない。兄さんは黙ったままだし、
だが、こうして久しぶりに兄さんに再会し、そして、兄さんのことを『おにちゃん』だなんてふざけた呼び方をする早谷三久に喧嘩を売られたことで。
そして、その後、これまで私の言いなりだった兄さんが、強い口調で私のことを拒絶したことで理解した。
ああ、なるほど……そういうことね、と。
「――ふう、」
兄さんの匂いを十分に堪能した後、私は起き上がり、おもむろに電話を手にとった。
【大塚 7:56】
【大塚 8:14】
【大塚 8:32】
【大塚 9:02】
朝から何度もかかってきている不在通知をタップして、こちらも兄さんのためにお節介を焼いているもう一人の幼馴染のお姉さんに私は折り返し電話をかける。
本当に、ここの人たちは反吐が出るくらいにお人よしの集まりだ。
『――どした? メッセージ見たけど、今日は気分が悪いんじゃなかったのか?』
「そうだったんだけど、気が変わったの。今から来てよ。観光、連れてってくれるんでしょ?」
『ったく、このわがまま娘……いいよ、じゃあ30分ぐらいでそっち着くから、趣味悪い服でも着て待ってなさい』
「趣味悪いは余計よ。じゃ、よろしく」
今日は朝から色々あって機嫌が悪いから、せいぜい思い切り振り回してやろう。私にだって、そのぐらいの権利はあるはずだ。
乱暴にスマホをその辺に投げた後、私は、兄さんが使っている布団の上に顔から倒れ込んだ。
大きく息を吸い込む。かすかに兄さんの汗の匂いがする。
「さて、これからどうやって遊んでやろうかな……っと」
これからのことを頭の中で巡らせながら、私は再び兄さんの布団にもぐりこんで瞼を閉じた。
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