第42話 おねがい


 家の外で深呼吸をし、頬の火照りと呼吸を落ち着けたところで、俺は春風と話をするべく二階へと上がった。


 思えば、こうして自分から春風のところに話をしに行くのは初めてかもしれない。会話することはあっても、それは大抵春風のほうからだ。しかも、機嫌がすこぶる悪い時の。


「……春風、ちょっといいかな」


 意を決して、春風のいる部屋のドアをノックする。外から確認したとき、窓から光が漏れていたので、まだ起きているはずだ。


「春風?」


 もう一度ノックするが、返事はない。もしかして電気をつけたまま寝てしまったのだろうか。まあ、今日ここに来たばかりだから、さすがの春風も疲れたか。

 

 であれば、今日のところはあきらめて、明日、またしっかりと時間のある時にでも――。


「――私はそっちじゃないわよ、兄さん」


「え……」


 春風の声が俺の部屋から聞こえてきた。確認すると、春風のためにあてがった部屋は、もぬけの殻で、荷物すら置いていない。


「……なに? 私、今日は疲れたからもう寝たいんだけど」


 部屋に戻ると、すでに俺の布団に潜り込んで横になっている春風が出迎えた。やはり全部俺の部屋に持ち込んだようで、洋服や下着などが部屋中に散乱している。


「春風、寝るなら向こうの部屋で……」


「嫌よ。あの女の匂いがべったりついた部屋なんかに、私、泊まりたくない」


 あの女。三久のことか。確かに三久が寝泊まりはしていたが、一週間程度で匂いがべったりだなんて、そんなことがあるのか。春風が匂いに敏感だなんて、俺は知らないが。


「でも、ここはあの部屋以上に俺の匂いがべったりだぞ」


「兄さんのほうがまだマシだから、こうしてるだけよ」


 そう言って、春風は亀のように頭まですっぽり布団をかぶってしまった。


 どうやら、今日のところは俺が向こうの部屋で寝るしかないようだ。


「ってか、兄さんあの女とどういう関係? 幼馴染だって言ってたけど、ただの幼馴染が、二階の空き部屋なんて使わせないわよね」


「それだけお隣さんとは付き合いがいいってことだよ。東京の実家とここでは、わけが違うんだから」


 そう、全く違う。近所とほとんど交流せず、自分たちのことばかり優先だった滝本家と、新庄家うちと早谷家では。


 7歳のころ、俺が初めて訪れたときも。そして、浪人生になってここで生活を始めた時も、早谷家は、お節介焼きの三久をはじめとして、三枝さんも、慎太郎さんも、いつも俺のことを気にかけてくれている。それこそ、こちらが恐縮してしまうほどに。


「ふうん……その様子だと、随分ここのことが気に入っているみたいね?」


「ああ。そして、もうこれ以上お前に波風を立てられたくないとも思っている」


 姿勢を正して、俺は春風に向かって頭を下げ、言った。


「春風……実家に帰ってくれないか」


「…………」


 春風は布団から顔を出さないが、だからといって聞こえていないとは言わせない。


 俺はそのまま続ける。


「俺、ようやくここでなんとかやっていけそうなんだ。最初は慣れないこともあってボロボロだったけど、勉強にも集中できてるし、模試の順位も元に戻りつつある。正直、調子いいんだよ、今の俺は」


 そして、メンタルに関しては、今が一番安定している。


 それはすべて、祖母や三久、加奈多さん、三枝さん慎太郎さん、由野さん御門さん、乃野木さんなど、こちらで新たに知り合いとなった人たちのおかげだ。


 心の底から言えるか、という感じではまだないかもしれないけど。


「それでも、生きてて楽しいかも……って、そう思えるようになってきたんだ。今、すごくいいところだと思ってる。だから、」


 しっかりと息を整えて、俺は春風に決定的な一言を告げた。


「はっきり言うよ、春風。今のお前は、俺にも、おばあちゃんにも、三久にも、迷惑でしかない。明日にでも荷物をまとめて、出て行ってほしい。俺自身の心の平穏のために」


 これが今の俺の嘘偽りのない正直な気持ちで、言葉だった。


 春風は俺の妹で、家族だ。切っても切れない関係なのは理解しているし、本当ならこういう事を言いたくはない。


 でも、それ以上に、今はここでの生活のことが大事だ。春風がいることによって、今の俺に関わっている全ての人に迷惑をかけるのだけは避けたい。


「……俺が言いたいのはそれだけだよ。ごめんな、春風。疲れてるところにこんな話して。じゃあ、お休み」


 ピクリとも動かない春風にそう言って、俺は静かに自分の部屋から出た。


 廊下に出て、初めて足ががたがたと震えていることに気づいた。実の妹とちょっと真剣な話をしただけなのに、なんて情けないのだろう。


 だが、それでも初めて自分の気持ちを、しっかりと滝本の人間に伝えることができた。会うだけで昔のことを思い出して、体が竦んでしまう相手に対して、だ。


 その勇気を与えてくれたのは、もちろん、三久のおかげだ。


(滝)「三久、起きてる?」


 ややあって、三久からも返事が。


(三)「うん」

(三)「大丈夫」

(三)「どうしたの?」

(滝)「俺、ちゃんと言ったから。妹に」

(滝)「帰ってくれって。俺たちの邪魔をしないでくれって」

(滝)「初めてでびびったけど、でも、ちゃんと言えた」

(三)「そっか」

(三)「えらいね。よくがんばった」

(三)「おにちゃん、かっこいい」

(滝)「ありがとう」

(滝)「ごめんなこんな時間に。でも、どうしても伝えたくて」

(三)「気にしないで」

(三)「私も、こうしておにちゃんと話せてうれしいから」

(三)「これからも、こんなふうに、夜、こうして話せたらいいな」

(滝)「じゃあ、明日からもそうしようか」

(三)「うん、そうしよう」

(滝)「了解。じゃあ、今日はおやすみ」

(三)「うん。また明日の朝ね」


「……三久、ありがとうな。本当に」


 アプリに表示された三久のアイコンをなぞりながら、俺はそう呟いたのだった。

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