第3話 忘れちゃダメ(1)

 この出来事の数日前。


 無心にピアノを弾いていた手を止め、エルファンスは壁の柱時計に目をやった。時代を経た木目の美しい時計は夕日に照らされてほんのりと赤く染まっている。


 彼は静かに立ち上がると、長い廊下を歩き階段を下りて地下の武器庫に降りていった。石造りの無機質な部屋は薄暗く静かだ。


 その部屋の奥に体格の良い長い黒髪の少年が後ろ向きで座っている。手元の灯りに刀をかざしており、余程夢中になっているのか、青年の来訪にもまるで気付く様子はなかった。

 

 コホン、とエルファンスはひとつ咳払いをした。


 「あ、エル」


 黒髪の少年は手を止めて振り返ると無邪気な笑顔をエルファンスに向けた。


 小さな金色の瞳につぶれた鼻、せり出した額と頬骨、くっきりと太い眉。そんな顔をくしゃりとさせる笑みは、不細工だがどこか愛嬌のある動物を連想させる。


 「トゥービィ、お前何やってんだこんなとこで」


 静かに、ゆっくりとエルファンスは問いかけた。


 「んー? 何って、刀の手入れ……」


 その言葉が終わらないうちに、黒髪の頭にエルファンスの拳が炸裂した。ごっ、と鈍い音がして打たれた少年の体が大きく揺れた。


 「そーじゃねえ! 話があるから来いって言ってたろうが!」

 「ご、ごめんエル。うっかり忘れてた」


 言うだけ言ってエルファンスは足早に部屋を出る。少年は鈍痛を感じる頭頂部をさすりながら、その後ろ姿を慌てて追いかけた。

 

 トゥービィの部屋の赤いベルベットの椅子に2人は向かい合って座っている。その表情は硬い。


 「いいかトゥービィ。お前今いくつだ」

 「えーと、13歳」


 黒髪の少年が指折り数えながら答える。


 「……ていうことはどういうことか分かるな?」


 トゥービィは真剣な顔で頷き答えた。


 「次は14歳だ」


 途端にエルファンスは少年の膝に片足を乗り上げ、美しい黒髪を引っ掴み耳元で怒鳴りつける。


 「もうすぐ『王子の宿題』ですエル様、って言おうとしてたんだよな? ああ?」

 「痛、いたたたた。……そう、その通りです、その通りだってば!」


 引き摺られそうになりながら必死の形相で髪を押さえるトゥービィ。


「気ィ抜いてる場合じゃないぞ。元老院は何か企んでる。下手すりゃ王位継承権はパーだ」


 エルファンスの言葉に、黒髪の少年は驚きを隠さずに目を大きく見開いた。


「そんな! 形式的なものだから大丈夫だって、聞いた……」


 その言葉が終わる前にエルの拳がトゥービィの頭頂部をぐりぐりと痛め付ける。


「油断してんじゃねえ。元老院の奴らは確実にお前の失敗を狙ってる。それが嫌なら言う事を聞け、ってな腹だ。お前いつまでもあいつらの言いなりで良いのかよ⁉」


 トゥービィはふるふると頭を横に振る。


「俺はもうあいつらのコマにされるのは絶対に嫌だ!」

「よし、その意気だ。そうと決まれば行くぞ。そろそろ『宿題』が発表になる頃だ」


『宿題』というのは通称『王子の宿題』のことだ。正式名称は『王位継承権認定基準課題』という。


 この国には少し変わった決まりがある。

 たとえ正式な第一王子だとしても、定められた基準を満たさなければ王位継承権を得ることができない。

 その可否を決めるのが、元老院から出された認定基準となる課題。つまり『王子の宿題』なのだ。


 遠い昔に無能な国王が悪政を行い、民衆の怒りを買って失脚させられた事があるという。この奇妙な決まり事はその時から始まったと言われている。 


 この課題をクリアできず王位継承権を得られなかった場合、継承権は他に『宿題』を成し遂げた人物のものになる。

 現国王のサーディル王はこの数年重い病に侵されている。それ故王家の親族、代々続く名家の者などの中には次の王の座を虎視眈々と狙っている者が少なくないのだ。

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