第6話
暗がりの中で、俺はベッドに横たわっていた。目は見開いたまま。そして、涙がとめどなく流れた。
俺は罪を犯した。絶対に赦されることのない罪。地獄の業火に何百年焼かれようと、贖うことはできない。俺たちの死後に、そんなものがあればの話だけど。
ドアがノックされた。
「彰? 真っ暗だけど、いるの? 彰?」
懐かしい声。何時間か前に聞いたはずなのに、もう何年も聞いていなかった気がする。藍凛の声。
俺は、最後の最後に藍凛にメールを送った。残念ながら、スマートフォンは壊れていなかった。送った文面は、もう一度だけ会って話がしたい。それだけ。それ以上は、もう指先が言うことを聞かなかった。メールを送信したあと、スマートフォンは俺の手から転がり落ちた。何度か着信があった。藍凛だろう。床に落ちたスマートフォンを拾うことは、もう俺にはできなかった。
俺は罪を犯した。藍凛のことを、俺が助かるための道具として呼び出した。モノとして扱った。絶対に赦されることはないだろう。
藍凛が手探りで灯りのスイッチを見つけて入れた。
「彰? ……彰、どうしたの!?」
藍凛が俺の枕元に駆け寄ってきた。
「藍凛、ごめん。呼び出したりして」
「なにがあったの?」
俺は目だけを藍凛の方に向けた。もう、首も動かない。藍凛はただ俺を心配してくれていた。それに引き換え、俺は。
「藍凛が帰ったあと、また頭痛と胸痛がして。ものすごく痛くて、気を失うこともできなかった」
「えっ……そんな……」
藍凛が絶句した。
「今はもう痛くない。治ったのか、ただ感じなくなったのか、もう俺にはわからない」
「救急車……」
「無駄だよ。二回検査して、二回とも異常なし。俺の病気は、病院じゃ治せない」
「じゃあ、どうしたら……」
「藍凛。俺はもうすぐ死ぬんだ」
「……」
もう、洗脳プログラムは俺の頭の中を消しにかかっている。学園島での三年間の記憶が薄れ始めている。あの恐怖と絶望の三年間が消えるのはありがたいけど、じきに高校生活の記憶も消えてしまうだろう。そして、藍凛のことも忘れてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
「最後のお願いだ。どうか、俺が死ぬまでそばにいてほしい。こんなことを頼める資格はないってわかってるけど。でも、俺は、最後まで藍凛の顔を見ながら死にたい」
「……」
藍凛はしばらく黙っていた。俺は藍凛の審判を待った。いつかのように。
「彰。どうしてあたしの方を向かないの? まさか、体が動かないの?」
「うん。もうほとんど動かない。もうじき話すこともできなくなるかもしれない」
体が動かないのは幸いだった。もし動けるようだったら、俺は俺が助かるために藍凛を強姦していたかもしれない。そんなことができなくなっていて、本当によかった。
藍凛が俺の額に手のひらを当てた。
「……なにこれ。氷みたいに冷たい。こんなのおかしい」
藍凛が俺の手を握った。
「ここも」
シャツを引っ張り出して、俺の腹に触った。
「ここも」
俺は藍凛に触られても、ほとんどなにも感じなかった。
「……」
藍凛が決然として立ち上がった。そして、いきなり衣服を脱ぎ始めた。
「な……なにしてるんだ、藍凛!?」
藍凛は無言でシャツを脱ぎ、スカートも脱いだ。そして、ためらいなく下着も脱ぎ捨てた。
俺は少しの間、呆然と藍凛の裸身を見つめた。美しかった。本当にスタイルがよかった。そこで俺は、あわてて目を閉じた。
「藍凛、いったいなんの……」
「あたしが彰のこと温めてあげる」
「は?」
「知らないの? 凍えた人を温めるには人肌が一番いいの」
「……いや、それは嘘だってなにかで読んだ……」
学術書かなにかで。
「いいから」
藍凛が俺のシャツのボタンを外し始めた。
「待ってくれ! 俺は、こんなことをさせるために藍凛を呼んだんじゃない!」
嘘だった。俺は体が動けば、無理矢理にでも藍凛を抱こうとしただろう。
「……彰、重い……」
藍凛は俺の上半身を無理矢理起こした。そしてシャツを引っ張って脱がせた。俺の上体をベッドに横たわらせると、藍凛は俺の腰の方に移動した。そして、ベルトを引っ張ってがちゃがちゃやり始めた。
「ちょっ! 待って、藍凛! そ、そっちはいいから!」
「よくない。こっちもすごく冷たいんだから」
俺のズボンとパンツが引きずり下ろされた。
「あーっ!」
「変な声出さないで!」
そう言うと、藍凛は俺の左側に横たわり、俺の体をしっかりと抱きしめた。足を俺の足に絡みつかせた。
「あ、右腕も温めないとね……冷たっ」
藍凛は俺の右腕を持ち上げて、藍凛の背中に回すようにした。
「藍凛……」
「黙って。なにか変化があったら教えて」
「……」
俺は黙った。そしてまた、涙を流した。
「……どうして泣いてるの?」
「……だって……こんなの、藍凛を強姦しているのとなにも違わない……」
「全然違う。どっちかって言うとあたしが彰をおそってる感じじゃない? 無理矢理服を脱がせたし」
「違う……違うんだ……」
俺は藍凛に懺悔した。赦されるとは思っていない。
「俺は本当に、無理矢理にでも藍凛を抱こうとしていたんだ……五人の強姦魔や北条とか言うやつとなにも変わらない……そうしなかったのは、ただ体が動かなかったから、それだけなんだ……」
藍凛が抱きしめる力を強めた……ような気がした。
「なんだ、そんなこと」
つまらなそうに藍凛は言った。
「え……」
「そんなの絶対強姦になんかならない。だって、あたしは彰に抱いてほしいって思ってるから。さっきこの部屋に入ってきた時、無理矢理服を脱がされて、いきなりベッドに押し倒されてたって変わらない。あたしはそれを望んでるの。そんなの、強姦になりようがないじゃない?」
「……」
俺は唖然として、言葉もなかった。
「ねえ、まだ体が動かない? 動いたら、あたしのこと押し倒してくれるの?」
「……藍凛。声が震えてる」
「なっ! そ、そんなことないもん!」
俺は笑った。涙は止まっていた。そして、スマートフォンでメールを送信してからまったく動かなくなっていた左手に、感覚が戻ってきているのに気がついた。
「ちょっ! 彰くすぐったい! ……えっ? 彰?」
「うん」
藍凛が体を浮かせてくれて、俺は左腕を抜き出した。左肩の傷はひどく痛んだけど、問題なく動く。痛みを感じるのは、俺が生きている証。
「治ったの……?」
「そうみたいだ」
ズキッと頭が痛んで、俺は左手で頭を押さえた。
「彰、また頭が痛いの!?」
「うん……でもこれは大丈夫だ。感覚が戻ってきて、まだ残っていた頭痛を感じているだけだ。これはすぐに治る。もう心配ない」
「あ、あたしそっち側に行く!」
藍凛が俺の体の右側に移って、さっきと同じように抱きしめてくれた。俺は、左腕を藍凛の背中に回して抱きしめた。
「あ……」
藍凛は俺の胸の上に、ぽろぽろと涙をこぼした。
「よかった……彰……よかった……」
「ありがとう。藍凛のおかげだ」
俺は、泣き続けている藍凛の頭を左手でなでた。
そして俺は生き返った。頭痛も胸痛も二度と起こらないと確信した。ベッドから起き上がり、身体の各部の状態を確認した。なにも問題はない。
記憶の欠損は元には戻らないだろうけど、俺は藍凛のことを覚えている。それさえ残っていれば、あとはどうでもいい。
「ねえ、彰」
「ん?」
「抱いてくれる?」
藍凛の声は、やっぱり少し震えていた。藍凛にはまだ早い。
「……三ヶ月」
「え?」
「約束しただろ、三ヶ月って。俺はそれまで、藍凛を抱かない」
「……意気地なし」
どっちが、と思ったけど、俺はなにも言わなかった。
ふと気がついて、床に転がったままのスマートフォンを取り上げた。電源ボタンを押して、時刻を見た。午前零時をすぎている。
ざあっと音を立てて血の気が引いた。
「あ、藍凛! どうしよう! 無断外泊とか! お、お父さんとお母さん!」
「え、今さら? うちの親はまだ帰ってきてなかったから、そのまま出てきたの。どうせ親はあたしがいるかどうかなんて気づかないし。朝も親の方が早いから、そのあと帰れば大丈夫。だから、今晩はここに泊めてね?」
いたずらっぽく笑って、藍凛が言った。
「え、あ、そう……わかった……き、着替えとか持ってきてないよね?」
「ない。彰がメールしてきたあと、何回電話かけても出ないから、急いできたの」
「あっ、うん、ごめん……確か洗濯したきれいなジャージがどこかにあるはず……あれ、どこだっけ……」
「彰はパジャマ着ないの?」
「うん、俺はだいたいパンツ一枚だから……」
その時なにか嫌な予感がして、俺は藍凛の方を振り向いた。藍凛はベッドに寝そべって、にやーっと笑みを浮かべて俺を見ていた。全裸で。
「藍凛……とりあえず、下着だけでも着ていて……」
「え、どうして?」
「どうしてって……」
「ついさっきまでたっぷり見たり触ったりしてたのに?」
「た、たっぷりなんか見てない! ちょっとだけだ! そ、それに俺からは触ってない!」
「でも、あたしの胸の形とか、しっかり覚えたでしょ?」
藍凛、またなにか変なモードに入ってるな……早く切り替わってくれ……。いや、俺たちの頭の中のスイッチみたいにはいかないか。
「あの……大事な話があるんだ。寝る前に。だから、服を着てほしい」
俺は真面目に言った。
「大事な話?」
「うん」
藍凛が少し考え込んだ。
「……それ、シャワー浴びてからじゃ駄目? 下着を着る前に、汗を流したいの」
「いや、いいよ」
「じゃあ、使わせてもらうね」
藍凛が立ち上がったので、俺はあわてて背を向けて、たんすの中を探し始めた。ようやくジャージを見つけた時、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。
俺は脱衣所兼洗面台のある部屋の扉を開けた。
「藍凛、ジャージここに置いておくから」
「うん、ありがとう」
しばらく俺はじっと待った。緊張する。藍凛も、俺に告白する時はこうだったんだろうか。
「彰、上がった。彰もシャワー浴びてきて」
「いや、俺は別に……」
「駄目。シャワー浴びてこなかったら話聞かない」
「……わかった」
俺は傷を濡らさないようにしながら手早くシャワーを浴びて戻った。
「早いね。ちゃんと体とか洗った?」
「うん」
藍凛はベッドの上に座っていて、自分の前をぽんぽんと叩いた。
「ここに座って」
俺は藍凛に言われるまま、ベッドに上がった。
「それで、大事な話って?」
俺は一瞬目を閉じて、それから藍凛の目をまっすぐ見つめて言った。
「藍凛。俺と、もう一度付き合ってほしい」
藍凛はきょとんとしていた。それからくすくす笑った。
「彰……なにを言うかと思ったら……」
笑われようが怒られようがかまわない。俺は、藍凛の返事を待った。
「彰。別れてもいないのに、どうしたらもう一度付き合うなんてできるの?」
「えっ」
でも、藍凛はあの時……。
「あたしは別れるなんて言ってない。彰の病気が治るまで、しばらく会わないようにしようって、それだけ。もう彰の病気は治ったんだから、離れてる理由なんてなにもない」
「えっ?」
そうだったっけ?
「……でも、嬉しい」
藍凛は俺に抱きついてきた。
「ほんとはあたしの片想いだったのに。彰から、二度も告白してもらえるなんて。夢みたい」
「最初から片想いじゃなかったよ」
同じボディウォッシュとシャンプーを使ってるのに、なんで藍凛はこんなにいい匂いがするんだろう。
「あたし、一年の間中ずっと彰に片想いしてたんだから。毎朝毎朝、朝練を見ている彰の横顔を見て。あたしに気づいてくれないかなーって、たまに勇気を出して近づいても、あたしのことなんか全然眼中になくて。悲しかったな」
「え……ごめん」
本当に全然気づかなかった。
「いいの。あたし、そんな彰だから好きになったの」
俺はどうしても我慢できなくなって、藍凛の顔を上向けてキスした。
「ん……どうしたの?」
「ごめん。急にしたくなっちゃって」
「謝らなくてもいいのに」
今度は藍凛からされた。
「ねえ。したくなってきた?」
なにを言っているのかはすぐにわかった。
「しない」
「ほんとに頑固なんだから……じゃあ、寝る?」
「そうだね」
俺はタオルケットを引っ張り出して床に敷いた。枕にするタウンページを探す。
「……なにしてるの?」
「いや、タウンページが見つからなくて」
「そうじゃなくて。そこで寝るつもりなの?」
「うん」
「体が痛くて眠れないでしょ」
「いや、大丈夫」
実際、学園島では地面の上で一晩寝たりもさせられた。
「いいから、ベッドにきて。一緒に寝よう?」
「でも……」
「さっきまでなにしてたと思ってるの?」
まあ、それはそうなんだけど。俺は灯りを消して、ベッドに入った。藍凛がなにかもぞもぞやっている。
「……なにしてるの?」
「ジャージ脱いでるの」
「なんで!?」
「だって彰、いつも下着だけなんでしょ? それに合わせようと思って」
「いや、俺も今日はジャージ着て寝るから」
「いいから彰も脱いで。あのね、あたしすごいことに気がついたの」
「すごいこと?」
俺はTシャツとジャージをベッドの外に放り投げた。藍凛はさっき俺の体を温めてくれた時のように、俺の胸に頭を乗せて俺を抱きしめた。
「どう? こうして肌と肌を重ね合わせてると、なにか感じない?」
「なにか……」
いやまあ、色々と感じるけど。
「あのね、あたしさっき彰の体を温めてた時に、最初はあっためようあっためようってだけだったんだけど。彰が少し温かくなってきたら、それが変わったの。気持ちよかったり、すごく安心できたり。そう言うの、彰にはなかった?」
「ああ」
それなら、似たようなことを俺も感じていた。
「俺もすごく安心できた。藍凛が俺を救ってくれるのを感じた。嬉しかった。藍凛のおかげで、また藍凛に会えるようになるなんて夢みたいだと思った。あの……すごく気持ちよかった」
「うん……」
藍凛が頭をぐいぐい俺の胸に押し付けてきた。
「なに?」
「だって、お泊りなんてそんなにしょっちゅうできないだろうから……今夜、たくさん味わっていくの」
「そうだね」
俺は藍凛の頭をなでた。
「彰の手って、ちょっとごつごつしてるのに、すごく気持ちよくて優しいね」
「……そう」
それはきっと、殺人技術を身につける過程でそうなったものだろう。俺の手は血まみれ。だけど、藍凛と一緒にいる時だけは、忘れてもいいような気がした。藍凛がこの手を、優しいと言ってくれるなら。
朝、目を覚ますと藍凛はもう服を着ていた。
「おはよう、彰」
「藍凛、おはよう」
「……大丈夫?」
「うん。俺の病気は、完全に治った。藍凛のおかげで」
「……よかった」
藍凛がキスしてきた。この時になってようやく、俺は藍凛に強い欲望を感じた。だけど今の藍凛にはそんな気持ちはないようだったし、時間も時間だった。それに、約束の三ヶ月はまだ半分も残っている。
「彰。服着るの手伝ってあげる」
「え、いいよ」
「だって毎日はしてあげられないんだから、今日くらいさせて」
「……うん、わかった。ありがとう」
もうすぐ衣替えだから、上着一枚分楽になる。
「じゃあ、そろそろいい時間だから一度帰るね。またあとで」
「うん、またあとで」
七時前に待ち合わせ場所に着いて気がついた。たぶん、いつもどおりに藍凛が弁当を作ってくれていたら、七時には間に合わない。
やがてしょんぼりした藍凛がきた。
「ごめん、彰……あたし全然時計見てなかった……朝練見れないね……」
「いいよ。昨日食べられなかったし、藍凛の弁当が食べたいな」
「……そう?」
「うん」
藍凛の手を握ってあげたかったけど、左肩の傷が邪魔だった。そのかわり、藍凛が腕を組んできた。
「……いい?」
「いいよ」
俺も藍凛も笑った。藍凛は胸を押し付けてきたりはしなかった。
登校して教室の席に座っていると、男子生徒たちが近寄ってきた。
「岡野。昨日ぶっ倒れたとか聞いたけど大丈夫なのか?」
「腕どうかしたのか?」
「ああ、一昨日アパートの階段を転げ落ちて骨折しちゃって。それで昨日、学校くる途中で気を失って、藍凛が救急車呼んでくれたんだ」
「えっ? 階段落ちて失神て、それやばいんじゃないの?」
「いや、CTとかも受けて異常なかったから大丈夫。骨折の痛みが原因だろうって医者に言われた」
「三角巾だけでいいのか?」
「服の下はガチガチに包帯巻かれてるよ」
「あんまり佐本さんを心配させるなよ」
「……ああ、うん。そうだな」
正直ここまで心配されるとは思ってなかった。
「えっ、藍凛昨日ずっと岡野の部屋にいたの?」
藍凛の方には女子が集まっていた。まあ、昨日俺と一緒に丸々学校を休んだから、仕方ない。
「うん。お医者さんは大丈夫だって言ってたけど、心配だったから」
「……変なことされなかった?」
おい。なんでそうなる。
「変なこと?」
「だから……」
藍凛がよく意味がわからずに聞き返すと、女子が小声で説明していた。藍凛が真っ赤になった。
「されてないよ! だいたい彰、怪我してたんだし!」
「えー? でも右腕は動くわけじゃん?」
「キスくらいならいくらでもできるよね?」
「し、してない!」
まあキスはしたし、それ以上のこともしたと言えなくもないけど。しかし俺には抱いてとか言うのに、学校だとえらい恥ずかしがり屋だな。
「……したの?」
「え?」
男子に聞かれて振り向いた。
「キスとか」
「してない! 三角巾外したらどれだけ痛いと思ってるんだ!」
俺は叫んだ。よく考えたら、俺もこう言う話にはあまり耐性がなかった。
久しぶりに藍凛と二人でからかわれた。
昼休みにゆっくり藍凛の弁当を食べたあと、藍凛に断って一人で廊下に出て電話をした。
『よう、岡野。無事生き延びたようだな』
「寺島のおかげだよ。ありがとう」
『礼なんぞいらねえ。で、抱いたのか?』
昨夜寺島に感じた怒りを思い出したけど、別に寺島はふざけていたわけじゃない。
「いや。記憶がいくらか消えたけど、彼女が俺の体を温めてくれたら乗り越えられたよ」
『記憶が飛んだのか?』
「学園島での記憶が少し」
『……そうか。それはまたやばいところまでいったな』
「そうなのか? まあ、消えても全然かまわない記憶だけど」
『そりゃそうだ。ところで名誉の負傷をしたって?』
「不名誉な負傷だよ。しかしそんなこと、誰に聞いたんだ?」
『コネだよ。つて。高校に入ってから、人脈作りに精を出してたのさ』
「すごいな」
どうやったらそんなことができるのかわからない。
『状況を聞いた。それで仕事を遂行して帰還したんだから、御の字だろう』
「少なくとも寺島と序列が入れ替わると思ってたんだけど」
『それでも岡野の方が有用ってことだろうさ』
「有用な実験動物か……」
『腐るなよ。ああ、しばらくダブルデートは延期だな。怪我が治ってからでなけりゃ彼女も嫌がるだろうしな』
「そうだな」
『じゃあな』
スマートフォンをしまって、藍凛のところに戻った。
「友達?」
「うん。今度藍凛に紹介したいんだ。俺の怪我が治ったら。そいつも彼女を連れてくるって」
「どんな人?」
「そうだな……頼りがいのあるやつかな。藍凛と付き合い始めた時にも相談したんだ」
「なんて言われたの?」
「一緒にいる時間を作れって。それで、藍凛と俺の好みをすり合わせろって。あとは知らねえって言われた」
俺は笑った。
「いい人だね」
藍凛も微笑んだ。
放課後、副学園長から電話がきて、昨日の病院に行くよう命じられた。歩くにはきつい距離だったので、駅まで行ってタクシーに乗った。
病院に着くと、医者と言うよりトレーナーみたいな人間が出てきた。実際、そのとおりの人間だった。コンビニとは段違いの種類のテストをやらされた。反射速度を測るテストもあったが、筋力テストもあった。左肩の傷にも容赦なく負荷をかけさせられて、案の定再出血した。弾丸摘出をした医者がきて、処置をして包帯を巻き直してくれた。無茶をするなと言われたが、そんなことはさっきの筋肉馬鹿に言ってほしい。
メンタルチェックも行われた。やたらと色んな質問をされたが、なんのためにこんなことをしているのかわからなかった。
翌日の放課後は、学園長室に呼び出された。
「限界突破おめでとう、少年A」
俺がソファーに座ると、学園長が大仰に手を広げて言った。
「限界突破? ですか?」
副学園長が嫌な顔をしていた。俺がお伺いを立ててから質問すると言うルールを破ったのが気に入らないのだ。知るか。かろうじて敬語を使っているだけでもありがたいと思え。俺と藍凛が味わった苦痛を、学園長にも味わわせてやりたい。だがそんなことを考えても無駄なこと。この狂人は愛を知らない。俺たちの苦悩など絶対にわからない。
「そうだ。我々は今のきみの状態をそう呼んでいる。きみは洗脳プログラムが与えた試練を乗り越えた。そして、飛躍的な性能の向上を遂げた。きみはまさにナンバーワンだ、少年A」
なにが試練だ。あんたのプログラムミスで、俺は脳死寸前までいったんだろうが。
「これからの活躍を大いに期待している。以上だ」
「は?」
俺が思わず聞き返すと、副学園長が歯ぎしりをした。うるせえ禿げ。
「それだけですか?」
「うむ。以上だ」
俺は立ち上がって学園長室を出た。なんだいったい。くだらないことで呼び出しやがって。
頭の中のスイッチを切り替えられて落ち着くまで、俺は心の中で毒づき続けた。
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