第5話
五月の終わり、藍凛と下校して別れた直後に、支給品の携帯電話が鳴った。頭の中のスイッチが切り替わる。通常モードから殺戮モードへ。ゆうべまで感じていた恐怖心はきれいさっぱり消えた。
「はい」
『少年A』
「はい」
『学園長室にきなさい』
「はい」
それで電話は切れた。はい、が三回。いつもどおり。
俺はアパートから駅へと向かう先を変えた。
待合室には誰もいなかった。学園長室に入る。
「少年A。仕事だ」
「はい」
俺がソファーに座るとすぐに学園長が言った。副学園長がA4のプリンター用紙を俺の前の応接テーブルに置く。俺は紙を取り上げることなく文書に目を走らせる。裏面にはなにも印刷されていない。いつも片面印刷。シンプル。
紙の左上に主要標的の写真。名前も肩書も略歴もない。俺が知る必要はないと言うこと。まあ、殺す人間のことをあれこれ考えても仕方がない。
重要なのは次の項目。護衛が二人。やはり名前はないが、経歴は書いてある。二人とも元陸上自衛隊員。それぞれレンジャーと空挺団。精鋭だ。手強い相手。だがもう俺は恐れない。確実に仕事を遂行することだけを考える。俺自身の死は考慮に入れない。洗脳プログラム様々だ。
問題はどこで仕掛けるかと言うことだけ。今日、マンションを七時頃出発し、八時からの高級ホテルでの会食に出席。ホテルでは学生服だと浮く。スーツを着ていくことになるが、それでは俺が少年であると言う特性を生かせない。
「質問してもいいですか」
「うむ」
学園長が鷹揚にうなずく。
「七時頃まで標的がマンションにいると言うのは、どの程度確度の高い情報ですか」
学園長は副学園長にうなずいた。
「ついさっき届いた情報だ。標的はマンションの自室に女、コールガールを呼んでいる。標的がマンションにいるのは確実だ」
だったら先に言えばいいものを。
「他に質問は?」
「ありません」
「では行け」
俺は無言で立ち上がる。副学園長がA4用紙を取ってシュレッダーにかける。そこに写った人間の結末を暗示するようだった。
俺はアパートに戻って、学生服を脱いだ。クローゼットにかけると、グレーの薄いパーカーを着る。その上から、別の学生服を取り出して着た。こっちの学生服のボタンには、でたらめな校章が打刻されている。俺の仕事着と言うわけだ。
ベッドの下からジェラルミンケースを取り出し、開ける。M1911を一丁抜き出し、一度マガジンを抜く。装填状態を確認して、M1911の薬室を覗き込む。装填済み。
ジェラルミンケースの蓋を閉めた。予備マガジンは持っていかないことにした。相手は三人。八発で終わらせられなければ、どのみち俺は死んでいるだろう。
学生服のズボンの後ろにM1911を突っ込んで、俺は出かけた。
パーカーのフードをかぶって、マンションの前で待った。しばらくすると住人が一人帰ってきて、ナンバー式のロックを解除して自動ドアが開けた。俺はその住人の後ろについてマンション内に入った。
エントランスホールにはソファーとテーブル。玄関全体が見渡せる位置のソファーに座る。学園長室のソファーよりよほど座り心地がいい。
足を組んで、スマートフォンを取り出し、ゲームをしているふりをする。俺はゲームと言うものをまったくやらない。だから、こんな感じだろうなと思って画面を触っているだけだ。
やがて、やたら派手な女たち三人がエレベーターに乗って下りてきた。おそらく標的が呼んだコールガールだろう。三人と言うことは、護衛にも買ってやったんだろうか。太っ腹だな。
どう言うわけか、三人のうちの一人が俺に向かってウィンクしてきた。どうしたらいいかわからず、俺は軽く手を振り返した。そうしたら、その女が俺に近づいてきた。俺は腰の拳銃に手を伸ばしかけた。
「ねえきみ、友達待ってるの?」
他の女二人は自動ドアの前で立っている。
「はい」
女は仲間二人の方を見た。
「はいだって、可愛い」
二人の女が笑っていた。
「彼女?」
「違います」
いきなりその女にキスされた。腸が煮えくり返って、ぶち殺しそうになった。だが、殺戮モードであっても好き勝手に人は殺せない。仕事の標的か、敵対する人間だけだ。
「大人になったらあたしと遊ぼうね?」
そう言って、仲間と一緒に出ていった。
俺は学生服の袖で唇をこすり続けた。なんだこのぬめぬめした感触。気持ち悪い。藍凛とのキスとは全然違う。早く藍凛とキスしてこんなものは忘れたかったが、そんな理由で藍凛とキスするのも失礼な気がした。俺はつばを吐きまくった。
しばらくして、七時近くにエレベーターが下りてきた。出てきたのは男が三人。標的を確認した。もちろん直視はしていない。周辺視野で見ただけ。
護衛二人が、俺をちらっと見た。だが、足を組んでスマホゲーをしている高校生には脅威を感じなかったようだ。標的とともに自動ドアに向かう。
その瞬間、俺は腰の後ろからM1911を抜いた。立ち上がらず、ソファーに座ったまま撃つ。弾丸は、レンジャーか空挺の頭を吹き飛ばした。
もう一人の元自衛官に銃を向ける。そいつは素早く振り向いて拳銃を引き抜いていた。シグ・ザウエルP220。自衛隊で言う九ミリ拳銃。誰でも馴染んだ武器を使いたいものだ。
だが、俺はもう機先を制している。間に合わない。四五口径弾がそいつの額を撃ち抜いた。
立ち上がり、俺は標的にM1911を向ける。ところが、標的は銃を持っていてすでに銃口が俺に向いている。おい。聞いていないぞ。
ヘッドショットを狙う時間はなく、俺は標的の胸に向けて立て続けに引金を引いた。俺の左肩に熱い塊がぶつかって、俺は後ろに倒れた。すぐに体を起こす。標的は倒れている。立ち上がり、近づいた。
心臓付近に三発当たっている。標的の手にあったのはコルト・パイソン。三五七マグナム弾。冗談じゃない。俺の左肩はどうなっているのか。
俺はさらに二発を標的の頭に撃ち込んだ。残弾数一。俺はM1911をズボンの後ろに突っ込んだ。俺はソファーの近くのスマートフォンを回収して、三つの死体を跨ぎ越えてマンションの外に出た。
多少騒ぎになっていた。だが、マンションの内部は外から見えにくい。もちろんそこから出てきた俺は注目を浴びたが、俺は素早く雑踏の中に紛れ込んだ。俺はどこの誰とも区別の付かない顔なし。整形万歳。
一ブロックほど離れたところで、携帯電話を取り出した。
「完了しました。ですが負傷しました。ピックアップをお願いします」
さすがに副学園長も嫌味は言わなかった。
『位置は把握している。三分待て』
俺は肩の傷口を押さえて待った。左腕はぴくりとも動かなかった。
なんてざまだ。油断していた。護衛にばかり気を取られていて、標的本人が武装している可能性をまったく考慮していなかった。情報ミスでもあるが、俺自身のミスだ。こんなのが少年Aだなんてお笑い草だ。
パトカーのサイレンが聞こえてきた頃、目の前に車が停まって、助手席から飛び出してきた男が俺の体を引っつかんで後部座席に放り込んだ。
俺は後部座席で横になった。助手席の男が注射器を差し出してきた。麻酔だろう。俺は首を振って断った。
左肩のマグナム弾は貫通していない。ひどく痛む。弾丸が体内に残っていると言うことは、弾丸のすべてのパワーが俺の左肩の中で炸裂したと言うこと。骨に当たっていたら、おそらく修復不可能な状態になっている。その時の俺の結末は決まっている。
藍凛。いつだって想うのは藍凛のこと。ひょっとしたら、俺は今夜廃棄処分されるかもしれない。注射を一本打たれてさようなら。死に方としては楽な方かもしれない。
でも、藍凛に会いたかった。せめて最後に一目だけでも、藍凛の姿を見たかった。藍凛のことを想いながら、俺の意識は途絶えた。
左肩の激痛で、俺は目を覚ました。
「気がついたか」
俺は、左肩の近くでなにか処置をしている医者の方を見た。
「弾種はわかるか?」
「三五七マグナム弾でした」
「骨には当たっていない。それなら貫通するはずだが」
「はい。弱装弾だったのかもしれません」
「ありえるな」
まあ、どうでもいい。それならこの傷は治ると言うこと。俺は廃棄処分にされない。生きて明日、藍凛に会える。
「弾丸を摘出する」
「はい」
医者は俺の傷口にピンセットみたいなものをねじ込んだ。とんでもない痛み。そこで俺は、通常モードに切り替えられていることに気づいた。殺戮モードだと、この激痛を伴う治療を敵対行動とみなして医者を殺しかねない。
意外と短い時間で弾丸は取り出された。腕のいい医者らしい。
「もう一度消毒して縫合する」
「はい」
消毒も縫合もかなり痛かったけど、弾丸摘出と比べたらなんでもない。包帯を巻いてもらって、服を着ると三角巾で左腕を吊った。
「二週間もあれば治る。しばらくは引きつるような感じが残るだろうが、そのうち消える」
医者は抗生物質と痛み止めをくれた。
「抗生物質は飲み忘れるな。化膿すると面倒なことになる。痛み止めは頓服だ」
「はい。ありがとうございました」
正面玄関から出るように言われて、俺は廊下の案内表示に従ってそっちへ歩いていった。
待合室に学園長と副学園長がいて驚いた。
「大丈夫か、少年A」
学園長に声をかけられてもっと驚いた。学園長に体のことを心配されるなんて。
「はい。二週間で治るそうです」
俺は驚きから立ち直れないまま、返事をした。
「すまなかった、少年A。我々のミスだ」
副学園長に謝られて、俺はもう倒れるかと思った。
「今さらだが、調べ直した。標的はガンマニアだった。よくグアムに行って、射撃訓練をしていたらしい」
「そうですか。でも、これは俺のミスです。標的を脅威と見ていませんでした」
「いや、事前に知っていれば、きみは異なる作戦を立てただろう。担当の情報員は更迭した。二度とこんなことが起こらないように努力する」
更迭か。おそらく殺されたんだろう。へまをすれば死ぬのは俺たちと同じ。
「車を待たせてある。それに乗って帰りたまえ。ああ、もちろんアルバイトも当分は休みだ。ゆっくり体を治してくれ。以上だ」
最後のセリフはいつもと同じ。俺は無言で待合室をあとにした。
待っていた車は、俺をピックアップしてくれた車だった。近づくと、助手席の人間が出てきてドアを開けてくれた。それくらいは問題なくできるんだけど。乗り込むと、ドアを閉めてくれた。なんなんだこのVIP待遇。
しばらく無言で車に乗っていたけど、助手席の男が声をかけてきた。
「悪かったな、少年A。俺たちも監視にはついていたんだが、援護できなかった」
今日はやたらと謝られるな。
「いえ、あの場所では無理でしょう。エントランスホールの真正面にいたならともかく」
「まあそうなんだが……そう言えば、彼女とはうまくいってるのか?」
それで、この二人がいつも俺を監視している人間だとわかった。
「いつも見ていればわかると思いますけど」
「なにからなにまで覗き見しているわけじゃない。いや、悪かった。余計なことを聞いたな」
「まあ、明日も彼女と会うことができてほっとしています」
そこで、ふと聞いてみたくなった。
「あなたたちには、恋人はいますか?」
「俺? ああ、付き合ってる女はいるよ」
「俺はいない」
運転席の男は無愛想に答えた。
「結婚とかは考えてますか?」
助手席の男は考え込んだ。
「まあ、一応はな。ただ、こんな仕事だからな。学園がうまいカバーを用意してくれるといいんだが」
「会社員の身分の一つくらい、簡単に偽装してくれると思いますよ」
俺たちのように人間一つ丸々作り上げるくらいだ。わけないだろう。
そのあとは、無言でアパートまで走った。
「お疲れさま。じゃあ、傷を大事にな」
「はい、ありがとうございました」
ほぼ常時自分を監視している人間だとわかっても、あまりあの二人を憎めなかった。運転手の方はほとんど口を開かなかったけど。
俺は階段を上がって、アパートの部屋に入った。
三角巾を外して学生服を脱ごうとしたら、意外と難しいことがわかった。左腕を動かそうとしても傷が痛んで動かせない。色々工夫して右袖を引っこ抜いて、それから左袖を抜いた。シャツも同様。ズボンは特に苦労しなかった。
電気を消して、ベッドに横になった。左肩の傷は鈍く痛んだけど、大したことはない。それより、明日も藍凛と会える喜びの方が、ずっと大きい。だけど、俺が怪我したことで、藍凛を悲しませてしまうかもしれない。それだけが、つらかった。
悪夢は見なかった。
いつものように藍凛を待っていると、藍凛がすごい勢いで走ってきた。
「どうしたの、彰!!」
「おはよう、藍凛。ゆうべ肩を骨折しちゃって」
「どうして!?」
「アパートの階段から転げ落ちてさ。間抜けだよな」
「あ、頭とかは!?」
「みんな検査してもらったから大丈夫」
「痛い……?」
藍凛が心配そうに俺を見ていた。
「いや、そんなでも。三角巾で吊ってると全然平気。服の脱ぎ着がしにくいくらいかな」
「あたし、彰のアパートに行こうか?」
「えっ?」
「彰の看病する」
「いや、看病してもらうようなことはないなあ」
「じゃあ、服の脱ぎ着とか」
「いやっ、そ、それは自分でするからいい!」
さすがにそれは恥ずかしい。
「そう? 大丈夫なのね?」
「うん」
「よかった」
やっと藍凛がいつもの笑顔を見せてくれた。
いきなり、俺は倒れた。とんでもない頭痛と胸痛。今までに感じたものの比じゃない。意識が薄れる。藍凛が救急車と言っている。無駄だと言おうとしたけど、それは言葉にならずに気を失っていた。
気がつくと、病院のベッドで横になっていた。起き上がろうとしたら、
「彰、駄目!」
と言われて押し返された。
「藍凛」
「大丈夫?」
藍凛が涙目で言った。頬には涙の筋が残っている。
「藍凛、ごめん……」
「いいの。大丈夫なの?」
そう言われて、俺は体の具合を確認した。頭痛も胸痛も感じない。
「大丈夫みたいだ」
「じゃあ、お医者さん呼んでくる」
藍凛は涙を拭くと、ナースセンターに向かって走っていった。病院では走らない方がいいと思うけど。
藍凛はすぐに戻ってきて、しばらくすると医者がやってきた。俺が気絶している間に行った検査について色々説明していたけど、結果はすべて同じ。異常なし。肩の骨折が原因かもしれないと言われた。
肩の骨折。それで、ここが学園の息がかかった病院だと言うことがわかった。たぶんゆうべ弾丸摘出をした病院だろう。学園が介入してきたと言うことは、俺に最終段階が近づいていると言うこと。恋愛の推奨と性能の向上。戯言が戯言でなくなる。生きるか死ぬか。
藍凛に帰ろうと言った。藍凛はうなずいた。
藍凛が呼んでくれたタクシーを待ちながら腕時計を見て驚いた。
「えっ、俺二時間も気絶してたの?」
藍凛がうなずいた。
「二時間も待っててくれたの?」
また藍凛がうなずいた。
「……ごめん」
「いいの」
タクシーがきて、学校に行くように言おうとしたら、藍凛がさえぎって俺のアパートに行くよう運転手に伝えた。
「でも、まだ間に合う授業もあるよ」
「駄目」
それからは無言でアパートまで行った。
俺のアパートの前で藍凛も降りた。
「部屋に上がってもいい?」
「うん」
部屋に入ると、藍凛が学生服の上着を脱ぐのを手伝ってくれた。人に手伝ってもらうと、全然楽だった。三角巾で左腕を吊り直して、俺は藍凛の前にこの間買っておいた座布団を敷いた。俺の分はない。座布団に座ると、藍凛が言った。
「彰。話があるの」
そうだろうなと俺は思った。悪い予感しかしなかったけど。
「彰の体に、今なにが起こってるの? 本当のことを教えて」
「……」
俺は考えた。洗脳プログラムのバグだろうとは思っている。でも、そんなことを藍凛には言えない。それに、本当のところはまだ俺にもわからない。
「正直言って、俺にもわからない。今日のところは、肩の骨折が原因じゃないかって医者は言ってたけど」
「それはあたしも聞いてた。でもそんなわけない。頭痛と胸の痛み。四月に始まって、どんどんひどくなってる。それも、あたしと一緒にいる時だけ。それとも、あたしがいない時になったことがあるの?」
「……いや、ないよ」
俺は諦めて答えた。
「でも、藍凛と一緒にいて、平気だった日の方が全然多いんだけど」
「あたしと一緒にいる時に、彰が倒れるって言うことが問題なの」
藍凛は厳しい顔つきで言った。
「彰。あたしたち、しばらく会わないようにしよう」
心臓が氷の塊になったような気がした。
「……それは、俺と別れるって言うこと?」
「違う。彰の具合がよくなるまで、離れていようってこと」
藍凛の言葉は、俺の氷の心臓をがりがりと削っていく。
「……それ、どうやったらわかるんだ?」
「彰がもう大丈夫だって思った時」
「それなら、俺はもう大丈夫だ」
「嘘。それは彰だってわかってる」
どうして藍凛は、そんなに俺のことがわかるんだろう。
「……俺、藍凛が俺を捨てたら殺すかもって言ったよな」
「覚えてる。彰のこと捨てるわけじゃないけど、彰になら殺されたってかまわない」
「……そんなこと、できるわけがないだろう!」
俺は怒鳴った。
「俺は、藍凛と一緒にいる時だけ本物の人間でいられた。藍凛と一緒にいる時だけ、心から笑うことができた。俺には、藍凛しかいない。他になにもない。お願いだ。俺のそばにいてくれ、藍凛」
俺はみっともなく懇願した。藍凛を離さないためなら、土下座でもなんでもしただろう。でも、そんなことをしても無駄だった。
「……彰。ごめんね。でも、今はあたしたち一緒にいちゃいけないの」
藍凛は立ち上がった。そのままドアに向かう。俺にはもう、それを引き止めることはできない。
「さよなら、彰。明日からは教室で会っても声をかけてこないでね」
涙のしずくを一つ残して、藍凛は出ていった。俺の氷の心臓は砕け散った。
長い間そのまま床に座っていた。藍凛が座っていた座布団を見つめていた。なにも考えていなかった。ただ、ひどい喪失感を感じていた。
窓の外が暗くなってきて、俺は顔を上げた。何時間こうしていたんだろうか。立ち上がり、ベッドに腰かけた。
藍凛。なにがあろうと、俺の心にあるのは藍凛のことだけ。遠くを見る藍凛の横顔。藍凛の笑顔。藍凛の恥ずかしそうな顔。藍凛の怒った顔。藍凛の泣き顔。藍凛の涙。
突然――いつだってそうだけど――とてつもない頭痛と胸痛が俺をおそった。今朝のなんて生ぬるい。今度のは、激痛のあまり気を失うこともできない。俺はベッドの上でのたうち回った。
これがそうかと俺は悟った。死ぬ。このままだと間違いなく死ぬ。俺はなんとかスマートフォンを手に取って、寺島に電話した。
『よう、岡野。ダブルデートの件ならまだ女と日程調整できてねえんだ。どうした?』
「……寺島……どうも……例のやつがきたらしいんだ……」
『そうか。まだ意識は保てそうか? できれば結論だけ言うより、少し説明した方がいいんだが』
打って変わって、寺島が真剣な声で言った。
「気絶したくてもできない……大丈夫だ……」
『わかった。じゃあ今おまえになにが起こっているか、説明してやる。想像がついてるだろうが、それは洗脳プログラムのバグだ。いや、そもそも仕様がおかしかったんだ。俺たちの頭の中のプログラムが、恐怖心なんかを消せることは知ってるか?』
「ああ……昨日の仕事の時、殺戮モードになったらきれいさっぱり消してくれた……」
『そうだ。人を殺すのに邪魔な感情は、洗脳プログラムが消しちまう。ところが、俺たちの恋愛感情だけは別だ。それだけは、プログラムの仕様にない。だから、洗脳プログラムが誤作動を起こしているんだ』
「え……? 一体なんの……」
恋愛感情? なんのことだ?
『意味がわからないか。そうだろうな。いいか、もうしばらく我慢して聞け。この洗脳プログラムの作成者、つまり学園長はただの一度も人を好きになったことがない。人を愛したことがない。だから、俺たちが人を好きになるなんて想像することもできなかった。そのせいで、俺たちの恋愛感情への対処法が、洗脳プログラムにはないんだ』
「……」
まだ話の途中だったけど、腸が煮えくり返ってきた。
『俺たちが本気で人に惚れると、洗脳プログラムの誤作動が始まる。時限爆弾のタイマーが作動するんだ。頭痛や胸痛はそのためだ。洗脳プログラムは、俺たちの恋愛感情を人殺しには邪魔な感情とみなして消去しようとする。ところがその方法が定められていないから、試行錯誤を始める。だが恋愛感情だけを選択的に消去する方法が見つからないから、ついには俺たちの頭の中全部をきれいさっぱり消しちまおうとする。洗脳プログラムの器ごとな。それが今のおまえの状態だ、岡野』
「……あの狂った学園長のせいで、俺たちはこんな目にあっているのか……!」
『まあ言ってみればなにもかもが学園長のせいだがな。それじゃあ、岡野がそいつを切り抜けるための方法を教える。いいか、今すぐ彼女に連絡してそこに呼び出せ』
「は……?」
なんで、藍凛を。
『惚れた女をそばに呼ぶんだ。それが助かるための絶対条件なんだ、岡野』
今まで聞いたことがない切迫した声で寺島は言った。
「意味がわからない……」
『とにかく言うとおりにしろ。死ぬぞ』
「俺は、藍凛を巻き込みたくない……それに、俺たちは別れたんだ……」
あれは、実質的にそう言うことだろう。寺島が絶句した。
『……ご愁傷さまと言うしかねえな。いや、とにかく連絡するんだ』
「そもそも、呼んでどうしたらいいんだ……」
『それについては個人差があるらしい。俺はこの誤作動が発生した最初の一人でな。誰もなにもわからなかったから、ああこりゃ死ぬなと思って最後のつもりで女を抱いた。そうしたら治っちまったのさ。まあ、お勧めの方法と言えなくもない』
「ふざ……けるな……!」
俺は学園長に抱いたものに匹敵するほどの怒りを寺島に感じた。藍凛を抱く? 俺が助かるために? そんなことが許されるはずがない。
『事実だ。時限爆弾を作動させるのが女なら、それを解除できるのもその女だけなんだ。なあ、岡野。この電話を切ってすぐに彼女を呼ぶんだ。おまえが助かる道はそれしかない。俺はこんな形でエースの称号を手に入れたくない。ダブルデートもまだだしな。彼女に電話するんだ。じゃあな』
電話は切れた。寺島の最後の言葉には、真摯さがあった。寺島は、たぶん本当のことを言っている。
俺は、手にしたスマートフォンをじっと見つめた。そして、それを床に叩きつけた。
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