第2話

 その建物の玄関を開けると、病院の待合室みたいに長椅子が並べられている。向きを変えれば、教会みたいに見えるかもしれない。奥には木製の重厚な両開きの扉があり、そこが学園長室だ。待合室には先客がいて、俺に気づくと片手を上げて挨拶してきた。

「よう、少年A」

「ああ、少年B。久しぶりだな」

 俺は少年Bの向かいの椅子に座った。

「そうだな。しかし俺たち二人が呼び出されるって、なんかでかい仕事か?」

「いや、どうだろうな」

 俺の方はなんとなく見当がついていた。少年Bの方はどうかわからないが。

「なんだ、心当たりありか? ……そういやおまえ、女の匂いがするな。しかもえらくいい女の」

 俺は思わず飛び上がった。

「ええっ!? だ、抱きしめてもいないのにか!?」

「……いや、カマかけだよ。おまえちょろいな」

 俺は赤くなって、椅子に座り直した。

「そうか、我らがエースにもついに女ができたか。色惚けしてると、エースの称号は俺がいただいちまうぞ?」

「色惚けって……」

「童貞がはまるとなかなか抜けられないぜ?」

 少年Bが笑って言ったが、俺は返事をしなかった。

「ち、もう冷静になりやがった。可愛くないやつ」

 その時、扉が開いて副学園長の禿げ頭が出てきた。

「少年A。入りなさい」

 俺は無言で学園長室に入った。

「座りたまえ」

 学園長の言葉に従って、俺はまた無言で応接セットのソファーに座った。このソファーはやたらと柔らかすぎて座り心地がよくない。

「恋人ができたそうだな」

「はい」

 やっぱりなと俺は思った。朝からずっと監視がついていたんだろう。

「我々はきみたちの恋愛を推奨する。なぜならそれは、きみたちの性能を大いに向上させる可能性があるからだ。現在の少年Bが、少年Gから一飛びに上がったことは知っているだろう」

「はい」

「同じことを、我々はきみに期待する。ああ、一応言っておくが、高校生らしい節度のある交際を心がけるように。以上だ」

 俺は無言で学園長室を出た。

「少年B。入りなさい」

 再び副学園長が出てきた。すれ違いざま、少年Bがささやいた。

「なんだった?」

「ご想像のとおりだ」

「じゃ俺もかな」

 俺は長椅子に腰かけて、少年Bが出てくるのを待った。

 俺と同様、少年Bもすぐに出てきた。

「ったく……あれ、なんでまだいるんだ?」

 少年Bが驚いたように言ったが、確かにこんなことをするのは今回が初めてだ。

「……その……少年Bに、相談したいことがあるんだが……」

「は? 俺に相談? おまえが?」

「ああ……」

 少年Bはしばらく難しい顔をしていたが、やがてにやっと笑った。

「いいぜ。ここじゃなんだから駅のモスでいいか?」

「そうしよう」

 俺たちは連れ立ってモスバーガーに向かった。建物を出ると、またカチンと頭の中のスイッチが切り替わった。

 モスでは二人ともアイスコーヒーを頼み、代金は俺が払った。飲みものが席に届けられるまで、俺たちは無言でいた。やがて店員がきてアイスコーヒーを置いていくと、少年Bが口火を切った。

「こんなとこで少年AだのBだの言ってらんねえな。俺は寺島てらしま。おまえは?」

「岡野」

「岡野ね。で、相談って? まあ女のこったろうけど」

「……あの……その……」

 俺は顔が赤くなるのを自覚した。

「お、女の子との付き合い方を、教えてほしい……」

「あ? そんなのキスしてセックスして、他になんかあるか?」

 俺はますます赤くなった。

「あ、いや……そうじゃなくて……」

「……ああ、高校生らしい健全なお付き合いってやつか。岡野は学園長のほざいてる戯言信じてるのか?」

「そう言うわけでもないけど……」

「つまり、よっぽど大事にしたい女ができたってことか」

 俺はもううつむいた顔を上げることができなくなっていた。

「うわ、なにこの純情くん。なんか腹立つわ」

 寺島に相談したのは間違いだったかと思った。

「……そうだなあ。まあ俺に言えるのは、とにかく会う時間を作ってやれってことかな」

「会う時間?」

 俺は少し顔を上げた。

「ああ。一緒にいる時間だな。彼女は同じ学校か?」

「同じクラスだよ」

「だったら登下校、休み時間、昼休みってとこか」

 それはだいたいできているなと俺は思った。

「土日もな。あれしろこれしろって正解はねえ。岡野と彼女の好みをすり合わせていくんだな。あとは知らねえ」

 俺は、気づけば正面から寺島のことを見ていた。

「寺島」

「あ?」

 寺島はやたらと長くアイスコーヒーを吸っていた。

「ありがとう。寺島はいいやつだな」

 寺島がアイスコーヒーを吹き出してげほごほ言っていた。

「……ふざっけんな! そんなの男に言われても嬉しくもなんともねえ!」

「そうか。ごめん」

「まったく……ああそうだ。岡野は支給品以外の携帯電話持ってるか?」

「あるよ」

 自分で身分を偽装して入手したスマートフォンだけど、学園はとっくに気づいているかもしれない。

「じゃあ俺の連絡先を教えてやる。なんかあれば連絡しろ。くだらねえことだったら殴るからな。……ああ、そっちもNFC付いてるな。じゃ簡単だ」

 俺たちは連絡先を交換した。寺島……拓哉たくや

「じゃあ俺はコーヒーも飲んだし帰るぜ」

 俺はまだほとんど口をつけていなかった。

「うん。ありがとう、寺島」

「言うなっつってんだろ!」

 寺島はモスを出ていった。


 俺はアパートに帰った。今日は学園に呼び出されたので、アルバイトのシフトは自動的に変更になる。その分、土日に働くことになる。藍凛と会える時間が減るのは、思っていたよりもずっとこたえた。

 俺はため息をついて、ベッドの下のジェラルミンケースを引っ張り出した。この課業をおろそかにすることはできない。

 このジェラルミンケースには、特殊なシリンダー錠が取り付けられている。俺は鍵を取り出し、開けた。

 俺がケースの蓋を開けると、中にはコルト・M1911が二丁と、予備マガジンが四本収められている。俺は一丁目のM1911を手に取り、装着済みのマガジンを抜いて、スライドを引いて薬室に装填済みの弾丸を排出する。床に転がった弾丸は、すぐに回収してケースに戻す。

 それからは、銃の分解と整備。些細な引っ掛かりも見逃すことはできない。仕事中に動作不良が起きれば、俺は死ぬ。

 夜が更けるまで、俺は銃のメンテナンスを続けた。


 翌朝の七時前に、俺は待ち合わせの場所にいた。七時が近づくにつれて、俺は昨日のことは夢かなにかだったんじゃないかと思い始めた。あんな可愛い女の子が俺の彼女になってくれるだなんて、ありえない気がしてきた。

「おはよう、彰。ごめんね、待った?」

 とてつもなく可愛い女の子が、そこにいた。俺は自分が幻覚を見ているんじゃないかと疑った。

「? どうしたの、彰」

「あっ……お、おはよう藍凛。待ってないよ」

 なんとか言葉を返した。どうやらこれは現実で、俺の脳がおかしくなったわけじゃないらしい。もっとも俺の頭の中は相当いじくり回されていたから、本当に幻覚を見る日がきてもおかしくはない。だけど、今は違う。藍凛は、ここにいる。

「あの……弁当箱、持とうか?」

「いい。これは、あたしが持っていくの」

 藍凛が笑顔を浮かべる。その時突然、俺の胸にひどい痛みが走った。

「う……」

 恋愛の推奨……性能の向上……。

 頭痛がして、俺は足を止めた。

「彰? どうかした?」

 藍凛も足を止めて俺を振り返った。

「ちょっと彰、顔色が悪いよ。大丈夫?」

 藍凛が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。

「いや……ちょっと頭痛が……大丈夫、もう治ったよ」

「病院に行かなくていいの?」

「いや、本当によくなった。平気だよ」

 俺は笑ってみせた。実際に、胸の痛みも頭痛もなくなっていた。

「ん……また調子が悪くなったら、病院に連れていくからね」

「うん、わかった」

 それからは何事もなく学校に着いた。

 グラウンドの端に立つと、また奥の方で塩谷先輩が跳んでいるのが見えた。

「あ、あの走り高跳びしてる先輩すごいんだ。行ってみる?」

「行く」

 俺は藍凛の盾になるようにしてグラウンドを進んだ。

「塩谷先輩、おはようございます」

「あ、岡野くんおはよう。ね、あたし一七九センチ跳べるようになったんだよ。……あれ、その子誰?」

「同じクラスのあ……佐本です」

「佐本です、おはようございます」

 藍凛がぺこりと頭を下げた。なにか睨まれた気がする。

「うん、おはよう。あの……えっと……彼女?」

「はい」

 俺が答えると、藍凛がにっこり笑った。

「あっ彼女……彼女……彼女いたんだ……」

 塩谷先輩がぶつぶつ言っていた。いやまあ、俺でさえ意外に思っているけど。

「見学してもいいですか?」

「あっうん、いいけど……いいんだけど……あたしこの状況で跳べるかな……」

 俺たちは塩谷先輩の後ろに移動して、練習風景を眺めた。

 塩谷先輩のコンセントレーションが高まっていくのを感じる。助走に入った時、これは跳べるなと思った。

 塩谷先輩は美しいフォームでバーを越えていく。余裕だった。

「すごい……」

 藍凛が思わずつぶやいていた。

「跳べた……」

 塩谷先輩が呆然とした様子で言った。

「一七九ですか?」

「そう。これ、公式戦でも跳べるわあたし」

「そうですか。よかったですね」

 なぜか塩谷先輩が俺のことを恨みがましい顔で見ていた。

「まあね……岡野くんのおかげなんだけどね……」

 ふうと息を吐いて、塩谷先輩はマットレスに腰を下ろした。

「あたし少し休むから。女バレのキャプテンには話しておいたから、体育館に行ってみるといいよ」

「はい、ありがとうございます。失礼します」

「失礼します」

「うん、じゃあね」

 俺たちはグラウンドをあとにした。

 藍凛が急に、怖い顔で俺を睨んできた。

「……なに、さっきの」

「さっきのって?」

「同じクラスの佐本って」

「え、なにかまずかった?」

「……あたしのこと、彼女だって知られたくないの?」

「そんなわけない!」

 俺は思わず叫んだ。

「全校に紹介したいくらいだ!」

 あ、いや、いくらなんでも大げさか。だけど、藍凛の表情はゆるんだように見えた。

「……ふうん」

「でも、逆はあるかもしれないなって思ってたけど」

「逆って?」

「藍凛が、俺のことを彼氏だって知られたくないかなって……」

「……どうして?」

 また藍凛の顔が怖くなってきた。

「いや、俺は顔がこうだから……」

「だから!」

 藍凛はもう真っ赤になって怒っていた。

「あたしはそう言うの全部一緒に、彰のことが好きなの!!」

「……」

「……なにか言って。また変なこと言ったら、本当に付き合い考えるから」

 それは絶対に嫌だ。

「藍凛。俺は、藍凛のことが大好きだ」

 はっきりと、俺は言った。

「……それだけ?」

「ああ。これで全部。それだけだ」

 俺は藍凛の審判を待った。

「……そう」

 藍凛の体からふっと力が抜けた。

「お願い。あたしのこと抱きしめて。少しだけでいいから」

 俺はためらいなく藍凛の体を抱き寄せた。鞄と弁当箱が邪魔だった。

「……嬉しい」

「俺も」

 ずっとこうしていたかったけど、藍凛の方から体を離した。

「バレーボール部の練習、見にいく?」

「そうだね」

 俺たちは体育館の二階席に上がった。

 女バレはちょうどミーティングのようで、コートの一角に全員が集まっていた。

 ふと、一人の部員が顔を上げて俺を見た。

「あ、岡野くん?」

「はい」

 俺は手を上げて答えた。たぶんあの人がキャプテンだろう。

「塩谷から聞いてるよ。そこなら大丈夫だから。この前はきつく言いすぎてごめんね」

「いえ、練習を邪魔したのは事実なので」

 何人かの部員が、俺たちのことを見上げていた。

「岡野?」

「あ、バカップル」

 俺のクラスにも女バレの部員が何人かいる。

「バカップル?」

 キャプテンが聞くと、何事か説明しているようだった。なにか部員全員できゃいきゃい言って俺たちの方を見ている。いつ練習を再開するんだろうな。

「……そうなんだ。塩谷ががっかりするだろうな」

 塩谷先輩?

「……彰」

「なに?」

「明日から、塩谷先輩の練習の見学したら駄目だからね」

「え、どうして?」

「……言いたくない」

「そう。わかった」

 藍凛が駄目だと言うのであれば仕方ない。

 女バレの練習が再開された。俺はバレーボールを見るのが大好きだ。去年、男バレが部員数不足で廃部になったのが残念でならない。

 でも女バレだってなにも劣ることはない。俺は豪快なアタックもいいけど、どっちかと言うとレシーブを注目して見る。ものすごいアタックを受け、急激に落ちるサーブを返し、体育館の壁ぎりぎりまで走ってボールを追い、最後にはジャンプして突っ込んでワンハンドレシーブで拾う。同じシチュエーションは二度とない。全然飽きることがなかった。

 気がつくと、藍凛がくすくす笑っていた。

「なに?」

「彰、本当にバレーが好きなんだね。さっきから口の中でぶつぶつ言ってる」

 俺は赤くなった。

「そうだったのか……でも、うん、好きだ。アルバイトがなければバレーボール部に入ったんだけどな。まあ俺一人入っただけじゃ、廃部はまぬがれなかっただろうけど。ああ、それなら転校するって手があったかな……」

「それは駄目」

「え?」

「そんなことしてたら、あたしが彰と会えなかった」

「あっそうか。うん、そうだね」

 俺は手すりに寄りかかっていた体を起こした。

「そろそろ教室に行こうか」

「もういいの?」

「うん。毎朝でも見られるし」

「わかった」

 俺たちは体育館をあとにして教室に向かった。


 俺と藍凛は休み時間のたびに廊下に出て話をした。ただ、一人だけ異様に険のある目つきで俺たちを見ていったやつがいたのは気になった。見送りながら、内履きの色を見て、三年であることはわかった。なんでこんなところにいるんだ?

 昼休みに昨日と同じように飲みものを買って帰ると、藍凛の姿がなかった。代わりに、夏木なつきが一人で立って泣いていた。

「夏木、なにがあった」

 俺はすさまじい焦燥感におそわれた。

「あっ、岡野くん、大変なの! 三年の男子に、藍凛が連れていかれて!」

「どこだ?」

「途中までは追いかけたんだけど……でも一階に下りたから、たぶん校舎裏のあの場所じゃないかって……」

「ありがとう」

 俺は走り出した。

 俺が駆けつけると、やはりこの場所だった。校舎裏のどん詰まり。屑野郎は、どいつもこいつもここがお好みらしい。

「離して……っ、嫌、嫌っ!」

 藍凛は手首をつかまれて、無理矢理キスされそうになっていた。

「おい! その手を離せ」

 俺は二人に近づいた。振り向いたのは、休み時間に睨んできたやつだった。

「なんだおまえ?」

 どうも俺の顔は忘れているらしい。

「俺は藍凛の彼氏だ」

「彰!」

 そいつがせせら笑った。

「ええ? 藍凛ちゃん、こんな地味なやつのどこがいいの?」

「あんたの一万倍もまし!」

「ふん」

 そいつは藍凛の手を離した。

「おい二年坊。俺が誰だか知ってるのか?」

 知るわけがない。

 そいつは両手を上げて俺に向かって走ってきた。変なかまえだ。なんの格闘技だ?

 俺はとりあえず相手の動きを封じようと思って、前蹴りを出した。その途端、

「本気でやっちゃ駄目!」

 と藍凛に言われて蹴り足を戻そうとしたけど、そう簡単には止まらない。ぎりぎり九十度くらいの角度で膝を止められたけど、相手は勝手に突っ込んでくる。少しカウンター気味にそいつの腹に爪先が入った。

 そいつは大げさに叫んで地面に倒れた。

 なんだこいつ。腹筋ぐにゃぐにゃじゃないか。

 立ち上がってこないので、俺は藍凛の方を振り向いた。

「藍凛、大丈夫?」

「うん」

 それで俺はしゃがみこんで、腹を押さえてひいひい泣いているそいつの胸ぐらを掴み上げた。

「先輩。別にあんたの名前はどうでもいいんですけど、俺は名乗っておきますね。二年の岡野彰っていいます。知りませんか? 一年くらい前、まさにこの場所でちょっとやらかしたことがあるんですけど」

「この場所……まさか……」

 悪名もたまには役に立つな。

「あ、ご存知でしたか。それなら話が早い」

 俺はぐいと胸ぐらを引き寄せて、顔を近づけた。

「藍凛は俺の女だ。二度とおかしな手出しをしてみろ」

 俺はそいつの耳元に口を近づけて、ささやいた。

「――殺すからな」

 そいつは悲鳴を上げて立ち上がると、走って逃げた。なんだ、元気じゃないか。

 俺は藍凛の方を振り向いてぎょっとした。藍凛がふらふらして倒れそうだった。あわてて駆け寄って抱きしめる。

「あ、藍凛、大丈夫!?」

「ん……彰……」

 俺は自分を殴りつけたかった。あんなやつは放っておいて、すぐに藍凛のそばにいてやるべきだったのに。

「ごめん、藍凛……ごめん」

「ううん、大丈夫……もう大丈夫だから」

 藍凛はそう言って顔を上げて、すごく真剣な目で俺を見た。

「ね、彰。あたしにキスして。今、ここで」

「えっ……」

「あたし、あいつにキスされそうになった。初めてのキスなのに。彰に捧げるって決めてたのに。あたしも二度とこんなことにならないように気をつけるけど、不安なの。だから今すぐ、あたしのファーストキスを奪って」

 藍凛が言い終えた瞬間、俺は唇を重ねた。

 唇を合わせるだけの幼いキス。それでも、痺れるような快感が全身を走り抜けた。

 藍凛の方から離れた。首を横に向けて、俺の体にしっかりと抱きつく。

「……今日は嬉しいことがいっぱい」

「……あんなことがあったのに?」

「もうそんなの忘れた。だって彰が大好きだって言ってくれたでしょ。抱きしめてくれたでしょ。キスしてくれたでしょ。それから……」

 藍凛はくすっと笑って、また俺を見た。

「俺の女だ、って……」

「あっ! いや、それは……ご、ごめん……」

「なんで謝るの? あたし嬉しかった。あ、そっか、あたし彰の女なんだあって。あ、でもまだちゃんとした女じゃないよね。ちょっと怖いけど、処女をあげるの早めようかな……」

「いやいや待って! ちょっと待って! 俺たち付き合い始めてまだ二日だよ!?」

 俺は藍凛のあまりの大胆さに仰天した。昨日告白してきた時と、あまりにも違わないか?

「彰って付き合った時間の長さを気にする方なの?」

「え……あの……ど、どうもそうらしい……」

「ふうん。あ、大事なこと聞くの忘れてた。彰もさっきのキスが初めてだった?」

「うん」

「童貞?」

「……童貞です」

 ものすごい直球で聞かれて、諦めて俺は言った。

「そう。よかった」

「え、俺経験者だったら振られてたの?」

「全然? 一応聞いてみただけ」

「あ、そう……」

「それで、いつになったらあたしのこと抱いてくれるの?」

 頭がくらくらしてきた。

「……い、一年……」

「長すぎ」

「じゃ、じゃあ半年……」

「えー? もう一声」

 値引き交渉じゃないんだけど。

「さ、三ヶ月! これ以上は負けられない!」

「んー。しかたないなあ。無理強いもできないし」

 いや十分無理強いされてる気がするんだけど。あ、そうだ。

「弁当、昨日みたいに早食いしたくないから、そろそろ教室に戻らない?」

「あ、うん」

 藍凛が自然と腕を組んできた。

「……あの、藍凛」

「なに?」

「学校で腕を組むのはまずいと思う……」

「どうして?」

「不純異性交遊とか言われる……」

「あたしたちなんて全然純粋じゃない」

「いや、そう見られるのが問題だから……」

「気にしないけど」

「……ごめん! 頼む! お願い! 登下校とかならいいけど、学校内だけは勘弁して!」

 俺は藍凛に頭を下げた。

「……もう、仕方ないなあ」

 藍凛の腕が離れた。俺はほっとした。

「ところで腕を組んだ時、わざと胸を押し当ててみたんだけど、どうだった?」

「……」

 俺はコメントを拒否した。

 教室に戻ると、夏木が藍凛に抱きついた。

「藍凛、大丈夫だった!?」

「大丈夫だよ、澄華すみかちゃん。彰がきてくれたから」

「そう。岡野くん、藍凛を助けてくれてありがとう」

「いや、当然だし。お礼を言うのはこっちの方だから」

「あの……北条ほうじょう先輩、どうなった?」

 夏木が少しこわごわと俺に聞いてきた。

「北条?」

「そう言う名前なんだって、藍凛を連れていった人」

「ああ。泣きながら走って逃げていったから、大丈夫だろう」

「そう。よかった」

 教室内に女子の泣き声が一段と高く響き渡った。教室に戻った時から泣いているけど、何事だろう。俺と藍凛が見ていると、夏木が言いにくそうに言った。

「……あのね。北条先輩に藍凛のこと話したの、あの子なの」

「話したって?」

「藍凛に彼氏ができたって、わざわざ朝のうちに北条先輩に言ってきたんだってさ」

 泣いている女子のわきに立っている蒔寺が答えた。

「え、なんでそんなことしたの?」

 俺には意味がわからない。藍凛は泣いている女子に近づいていった。

「藍凛……ご、ごめん……ごめんなさい……」

「いいよ。なんともなかったから。それより、北条先輩が好きなら好きってちゃんと言わないと」

「え……」

 泣いていた女子が顔を上げた。化粧が流れ落ちてえらいことになってるな……。

「こんな回りくどいやり方したってわからないよ。がんばってね」

「あっ……ありがとう、ごめん、本当にごめんね!」

 藍凛はにっこり微笑んでいた。

「……あーもーあんたはさっさと化粧室行ってきな。顔面土砂崩れだよ」

 蒔寺が言うと、泣いていた女子はあわてて鞄からポーチを取り出して、急いで教室を出ていった。藍凛が俺の方に戻ってくる。

「結局なんなの?」

「あーうん、彰にはわからないんじゃないかな」

「そう。でも、あの子に北条ってやつに告白するように言ってたみたいだけど、あれお勧めできないんじゃない?」

「まあね……でも、好きになっちゃったら仕方ないし」

「ふうん……まあ弁当食べようか。……ってあれ、買ってきた飲みものどこいったかな」

 俺は机の周りを見回した。

「これ?」

 夏木が自分の足元からウーロン茶のペットボトルを取り上げた。

「ああそれ。えっと、あと一本……」

「え? これ? こんなとこまで飛んできてるよ」

 蒔寺が見つけてくれた。

「それだ、ありがとう」

 俺は二本のペットボトルを受け取った。

「なに岡野、そんなに思いっ切りぶん投げてったの?」

 蒔寺が笑って言った。

「いやまあ……あわててたから……」

「そういや夏木の時も……あっ」

 それはやめてくれ、と俺はうつむいて歯噛みした。蒔寺も、あの時どれほど夏木が傷ついたか知っているはずなのに……。

「え? あたしがどうかした?」

 夏木はとぼけているけど、語尾が震えていた。だけど、俺はその演技に乗るしかなかった。

「いや、なんでも。藍凛、弁当食べよう」

「うん」

 俺たちが向き合って弁当を食べ始めると、夏木は教室を出ていった。蒔寺が近づいてくる。

「岡野……ごめん……」

「いや……俺に謝られてもね……かと言って夏木に言っても逆効果だし……」

「だよね……ああ、やっちゃったな……」

 蒔寺も肩を落としてどこかへ行った。

「彰、行ってあげたら?」

 藍凛が真剣な顔で言った。

「駄目だ。俺は夏木の悪夢の一部なんだ。できるだけ距離を置いていくしかない」

「澄華ちゃん、彰に近くにいてほしいんじゃないかな」

「同情でそんなことはできない。無責任すぎる。一生一緒にいるくらいの覚悟がないと」

「だったら……」

 藍凛の目に涙が浮かぶ。俺は目をそらさなかった。

「藍凛。俺は藍凛が好きだ。この気持ちを、夏木に振り向けることはできない」

 藍凛はハンカチを取り出して涙を拭いた。

「そう……でも、悲しいね」

「ああ……」

 この日の弁当は、砂を噛むような味がした。藍凛に申し訳なかった。

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