少年A

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第1話

 四月の雨が降りしきる街を、俺は歩いていた。傘は持っていない。学生服の下に着込んだグレーのパーカーのフードをかぶっているだけだ。

 雨はけっこうな強さで、傘を差していない俺は目立つだろう。後ろで騒いでいるやくざたちが不審に思った場合、俺は死ぬ。

 俺はついさっき、四人の人間を拳銃で撃ち殺した。黒塗りの自動車に乗った四人のやくざ。一人は組長だ。主要標的だったが、俺にとっては誰でも同じ。

 車がどこで停車するのかは予測できず、確実なのは終点のやくざ組事務所前だけ。そんなところで仕掛ければ、仕事の遂行はできるだろうが俺も生きては帰れない。

 だが幸運にも組事務所前の道路で軽い渋滞が起こっていた。俺は組事務所の手前で停まっている標的の車を見つけて近づいた。車の間をすり抜けるのに傘が邪魔だったので捨てる。

 助手席に回り込んでウィンドウガラスをノックした。不用心にもウィンドウが開いた。もし開かなくても、この車は防弾じゃない。

「なんじゃ、こん餓鬼ィ?」

 助手席の男の顔面を撃った。続けて運転手。後部座席にいた男。そして組長。

 だが、組長だけは流石に肝が座っていた。俺の向ける銃口に臆することなく、問いかけてきた。

「ジャリ。どこのモンだ?」

「……

 それだけ答えて、組長には頭部に二発。残弾数三。

 俺はサプレッサーを使わない。やくざは銃声を聞き慣れている。俺はすぐにその場を離脱したが、走ったりはしない。振り向きもしない。俺の背後で、組事務所から飛び出してきたやくざたちの怒号が聞こえた。

 俺は駅まで、少しだけ早足で歩き続けた。誰も俺を呼び止めなかった。肩を掴まれもしなかった。そうなった時、俺は死ぬ。

 駅の張り出し屋根に入って、ようやく俺は後ろを振り返った。誰も追ってきていない。俺はフードを脱いで、支給品の携帯電話を取り出した。電話をかける。

「完了しました」

 名乗らずに言った。

『こちらでも確認した。、帰投しろ』

「はい」

 電話は切れた。頭の中のスイッチがカチンと切り替わる。俺はため息をついた。

 俺は雨の止まない暗い空を見上げた。

 まったく。なんて高校二年生活の始まりだろうな。


 俺は高校のグラウンドの端に立って、運動部の朝練を眺めていた。

 一年生の新入部員も馴染んできたようで、みんな生き生きとしていた。苦しそうでもあった。輝いて見えた。美しかった。俺には手に入れられないものが、そこにはあった。

 別に羨んでいるわけじゃなかった。妬んでもいない。ただ、俺と彼らは違う。それだけだ。

 ふと、グラウンドの奥で走り高跳びをしている女子を見つけた。陸上部の朝練は珍しくないけど、走り高跳びを見るのは初めてだった。俺はそっちへ向かった。

 他の部活の邪魔にならないように、グラウンドの端っこを慎重に歩いた。近づいていくと、俺の身長くらいの高さはありそうなバーを軽々と跳び越えていた。すごいな。

「あの、見学してもいいですか」

 俺はマットレスに腰を下ろして休んでいる女子陸上部員に声をかけた。彼女が返事をするまでに、少し間があった。

「……え? あたし?」

「はい」

 驚いたように振り返った彼女に、俺はうなずいた。

「面白い? これ」

「はい。すごく」

「ふうん……いいよ。じゃ、こっちにきて」

 彼女は助走のスタート位置に戻り、俺はその後ろに立った。

 なにも言わずに彼女は走り始めた。踏み切る。跳ぶ。体を反らす。バーは落ちなかった。

「すごい」

 俺は思わずつぶやいていた。

「こんなの大したことないよ……次が問題なんだよね」

 少し照れたように、彼女は言った。

「高さ上げるの手伝ってくれる?」

「はい」

 俺はスタンドに駆け寄った。

「いくつですか?」

「一七八センチ」

 これで俺の身長と同じだ。

「さて……」

 彼女が走り出す。跳ぶ。……残念ながら、バーは落ちた。

「ここが壁なんだよね……」

 悔しそうに言って彼女が戻ってきた。

「何回か跳べたことはあるんだけど」

「さっきまでとフォームが変わってましたね」

「……えっ?」

「少し、体の反りが大きかったような」

「……」

 彼女がじっと俺を見つめてきた。俺はあわてて言った。

「いえ、ただの素人の感想で……すいません」

「いいよ。……もう一回跳ぶから、見てて」

「はい」

 また彼女が走り出す。そして、俺の頭の上を越えていった。

「嘘、跳べた……」

「すごいですね。まだ全然余裕ありましたよ」

 彼女は少しの間ぼーっとしたあと、俺に向かって駆け寄ってきた。

「ね、ねえきみ! えっと……きみ……」

 俺の名前かな、と思って名乗った。

「二年の岡野おかのです」

「あ、あたしは三年の塩谷しおや。きみ……岡野くん、部活入ってる?」

「いえ」

「じゃ、じゃあさ、今からでも陸上部に入らない?」

「あ……」

 俺は思わず視線を落とした。

 こんな風に誘ってもらえるなんて、本当に嬉しい。でも、俺は、駄目なんだ。

「すいません。俺、平日はアルバイトがあって、部活には入れないんです」

「え……そ、そっか……そうなんだ……」

 少しの間、気まずい沈黙が流れた。

「えっと……あ、そうだ! 岡野くん、ひょっとして前に女バレの練習見てて怒られなかった?」

「ああはい、たぶんそれ俺のことですね」

「岡野くん、体育館の中に入っちゃったんでしょ?」

「はい」

 塩谷先輩が笑った。

「それ駄目だよ。バレーのボールなんてどこ飛んでいくかわかんないし、レシーブで突っ込んでくるかもしれないし。部外者に怪我なんかさせたら大変だからね」

「ああ、そうなんですか」

 どうりでえらく怒られたわけだ。

「二階席から見てる分には問題ないはずだよ。あたし女バレのキャプテンと同じクラスで、友達だから。岡野くんのこと言っといてあげる」

「すいません、ありがとうございます」

「いいよいいよ。じゃ、あたしは岡野くんのアドバイスに従ってもう少しやっていくかな」

 アドバイス?

「それじゃ、俺は教室に行きます。塩谷先輩、ありがとうございました」

「いいって。じゃ、またね」

 俺は塩谷先輩に軽く頭を下げて、校舎に向かった。


 玄関にはほとんど誰もいない。普通の生徒が登校するには、まだ十分早すぎる時間だった。

 でも、ひと気の少ない教室と言うのもいいところがある。独特の雰囲気があって、なんとなく落ち着く。別に同級生たちが騒いでいる教室が嫌いなわけじゃないけど。

 それに、二年になってからは新しい楽しみができた。……まあ、要するに、女の子のことなんだけど。

 クラス替えで一緒になったその子は、俺ほどじゃないけど、かなり早い時間に登校してくる。そして、窓際一番後ろの席で、窓の外を眺めている。どこか、遠い目で。

 俺は彼女の横顔を見ながら思う。一体なにを見ているんだろう。その景色を、俺も共有したいと思っていた。

 ……女の子の横顔を盗み見するなんて、俺はストーカーなんだろうか。いやでも、俺は彼女の帰り道をつけたりなんかしていない。大丈夫のはずだ。……たぶん。

 二年の教室がある二階へ上がる途中、階段の踊り場に背の低い女子生徒が一人で立っていた。誰かを待つにしては中途半端な時間、場所だった。まあ、別に気にもとめずに彼女の前を通りすぎた。……通りすぎようと、した。

「お、岡野くん!」

 ちょっと大きな声で呼ばれて、俺は足を止めて振り向いた。

「はい」

 見覚えのない女の子だ。でも俺の名前を知っている。内履きの色から、同じ二年だと言うことはわかった。

「あのっ……少し、お話、いいです、か……」

 語尾が途切れそうだった。ずいぶん緊張してるみたいだけど、なんだろう。

「うん」

「じゃ、じゃあ……あの……今、お付き合いしている人はいますか……?」

 お付き合い?

「え、彼女ってこと?」

「は、はい……」

「いない」

 俺は即答した。

「そ、そうですか……それじゃ、好きな人とかは……」

 好きな人……窓辺の君は気になってはいるけど、好きと言うのとは少し違うかもしれない。

「いない」

「ほ、本当に……?」

「うん」

 なんだろうな、この話の流れ。

「それなら……それなら、あたしと付き合ってもらえませんか!?」

「えっ」

「だっ……駄目ですか……」

 いや。と言うか。

「……きみ、誰だっけ?」

 さっぱり思い出せない。

「ひ、ひどい! 同じクラスなのに!」

 彼女は泣きそうになっていた。

「ええっ?」

 いくらなんでも同級生の顔を忘れたりしないと思うんだけど……。

 ん? あれ?

 今は涙をたたえたその目は激情にあふれているけど、その涼やかなことを俺は知っている。すっきりとした鼻梁は、あの横顔のものだ。噛み締められた口は小さいけど、とても美しい。

「えっ。ええっ!? 佐本さもとさん!? 窓際一番後ろの席の!?」

「そっそう! そう!」

 嬉しそうにがくがくと首を振るから、目尻から涙がこぼれ落ちていた。

 俺はものすごく驚いた。まさか窓辺の君とは。

「だ、だって佐本さん、先週まで髪この辺まであったよね!?」

 俺は自分の背中の真ん中あたりを指差した。

「ど、土曜日に切ったの……岡野くんが、好きかと思って……」

 ……えっ。なんで俺がショートヘア好きになってるの?

「いつも岡野くん、運動部の朝練見てて……ショートヘアの女の人、多かったから……」

 ……いやまあ、確かに運動部の女子はショートヘアが多いけど……塩谷先輩もそうだし……でも、中には長い人もいるし……。

 いや、ここは慎重に話をしないといけない。いくら俺でも、女の人にとってどれだけ髪が大切かくらいはわかる。『窓から吹き込んだ風が佐本さんの長い髪を揺らしているのを見ているのが好きだった』などとわけのわからないフェチまがいのことは言えない。色んな意味で。

 俺はあらためて佐本さんの顔をじっと見つめた。そうすると、佐本さんは顔を赤くしてうつむいてしまう。

「……それじゃ、せっかく切った髪が似合ってるかどうかわからないよ」

 俺は佐本さんのおとがいに指を当てて、そっと上向けた。

 ……よく似合っていた。すごく可愛い。しかもこの髪型は、俺のために切ってくれたものなんだ。

 あっまずい。なんかやばい。俺の中のなにかが危険な気がする。

 それでも、俺は佐本さんから目をそらすことができなかった。

 すっと、佐本さんが目を閉じた。

 ……えっ、なにこのシチュエーション。まさか、前にが言ってたキスする場面なのか!?

 キ、キスしたらそれが交際するって言う返事になるんだろうか?

 ……いや待て。落ち着け。冷静になれ。そんなことでいいわけがない。俺は佐本さんに聞かないといけないことがある。

 佐本さんがゆっくり目を開けた。がっかりしているような、ほっとしているような、なにか複雑な表情を浮かべていた。

「あの。聞きたいことが、あるんだけど」

「……はい」

「同級生なんだから、敬語なんて使わなくていいよ」

「うん……」

「なんで俺なの? 顔は冴えないし、スポーツができるわけでもないし、勉強だって普通だし」

「そ、そんなことない!」

 佐本さんは必死な顔をして言う。

「岡野くんはかっこいいし、優しくて! だから……」

 好きになった、と。佐本さんはつぶやいた。

 ……まあ顔は蓼食う虫も好きずきと言うから、そう言うこともあるかもしれないけど。優しい? なにかそんなエピソードがあっただろうか。

「優しいって?」

「あの、あたし一年の時から岡野くんのこと見てて。いつも、朝練してる人たちのこと、すごく優しい目で見てたから……」

 ……そんな目を、俺はしていたのか。だとしたら、俺たち二人とも、似たような理由で相手のことを好きになっていた。

「わかった。ありがとう。……えっと、さっきの質問のうち、一つ訂正させてもらえるかな」

「えっ……」

「俺、好きな人がいる」

「……」

 佐本さんの目に大粒の涙が浮かぶ。でもその涙がこぼれ落ちるより早く、俺は言った。

「俺、佐本さんのことが好きだ。二年になってからだけど。それでもよければ、俺と付き合ってほしい」

 結局、涙はこぼれ落ちた。


 俺と藍凛あいりは普通に自分の席に座っていた。藍凛は窓際一番後ろ、俺は廊下側の一番後ろ。俺はこの席でなかったら、藍凛のことに気づかなかったかもしれない。

 少しずつ登校してくる生徒たちが増えてくる。そして女子は、みんな藍凛のところへすっ飛んでいった。

「あ、藍凛、どうしたのその髪!?」

「失恋でもした!?」

「し、してないよ」

 藍凛がちらっと俺を見た。そう言えば、付き合ってることを秘密にするのかどうかとか話してなかったな。俺はどっちでもかまわなかったので、藍凛にうなずいてみせた。意味が伝わるといいんだけど。

「それにしても思い切ったねー」

「けど似合ってるよその髪型」

「ありがと……あの、あきらが好きかと思ったから」

 ああ、言うのか。

「え? アキラ?」

「誰それ?」

「俺だよ」

 俺が藍凛に手を振りながら言ったら、女子たちが一斉に俺の方を向いた。ちょっと怖い。

「岡野、彰。俺の名前」

「は? え? 藍凛ってば岡野と付き合ってるの!?」

「うん」

「えー嘘ー、釣り合わなーい」

「岡野ってなんかぱっとしないよねー」

「三年で藍凛のこと気になるって言うかっこいい先輩知ってるから紹介しようか?」

 ひどい言われようだな。まあ事実だけど。

「あ、彰はかっこいいもん!」

 藍凛の大きな声に、一瞬教室が静まり返った。が。

「……へー、ほー、ふーん」

「うわ熱い! 熱いね!」

「恋する乙女だ。恋する乙女がおる」

「それでそれで? どこがどういいわけ?」

「あー岡野ー。さっきの冗談だからねー」

 わかった、と俺は手を上げて答えた。まあ、まるきり冗談でもないだろうけど。

 今度は俺が男子に囲まれた。

「……なんだよ」

「佐本さんと付き合ってるってマジ?」

「ああ」

「くそ! 俺ちょっと狙ってたのに!」

「俺も!」

「俺も俺も!」

「ふざけんな。変な手出ししたら殴るからな」

「いやいや冗談だって」

「で、いつから付き合ってたの?」

「……今朝」

「今朝ぁ!?」

「普通告白とかって放課後じゃないか?」

「別にいつだっていいだろ……だいたい告白したりされたりしたことあるのか?」

 まあ俺も初めてだったけど。

「うっ……」

「痛いところ突きやがる」

「まあまあ。で、どっちから告ったの?」

 俺は一瞬考えた。先に声をかけてきたのは藍凛だけど、最終的に交際を申し込んでOKをもらったのは俺だ。

「俺」

「えーっ! 藍凛から告白したのー!?」

 え?

「あれ? なんか逆じゃね?」

「ちょ、ちょっとどいてくれ」

 俺は男子の囲みをかきわけて女子の集団に近づいた。

「あの、藍凛」

「うん」

 女子の一人がどいてくれて、藍凛の顔が見えた。

「最後は俺が好きって言って藍凛がOKしてくれたよね?」

 きゃーっと女子が歓声を上げた。

「うん、そうだけど。でも、先に好きって言って、付き合ってくださいって言ったのはあたしだから」

「いやでも」

 またきゃーっと歓声が上がったけど、今度は尻すぼみに終わった。

 周りを見回すと、女子がジト目で見ていた。近づいてきた男子も同じだった。

「……なにこのバカップル」

「え?」

「好きだ好きだって……イラつくわー」

「嫌味か!」

「はい、解散解散! もうこの二人は放置!」

 みんなぞろぞろと自分の席や、友達の近くへと散っていった。

「……バカップルだって」

 俺と藍凛は笑った。

「でもやっぱり俺だと思うんだけどなあ」

「違うよ。待ち伏せしてたの、あたしだし」

「待ち伏せって……」

「聞こえてるぞバカップル! うるさい!」

 少し笑い合って、俺は自分の席に戻った。

 それから、ホームルームまで藍凛の横顔を眺めていた。春の風が、藍凛のショートヘアを揺らしていた。


 俺は高校生活のあらゆることが好きだ。始業式、終業式での校長先生の長話でさえ。もちろん授業も例外じゃない。みんなが退屈だと言う授業も、難しいと言う授業も、他と同じで好きだった。まあ、予習復習がちゃんとできていないから、成績は今イチだけど。

 休み時間のたびに、俺は藍凛の席に行って話をした。しまいには近くの席のやつに、

「バカップルうぜえ! 外行け!」

 と怒られた。まあそいつは笑ってたけど。

 それからは廊下に立って話をした。そうしていると、通りすぎていく男子の多くが、藍凛のことをじっと見ていった。まあ、藍凛は可愛いからな。それに引き換え俺は……。

 昼休みになると、藍凛が俺の席にきた。

「彰、学食だよね?」

「うん」

「あの……お、お弁当作ってきたんだけど、一緒に食べていい?」

「え、俺のもあるの?」

「うん」

 当然学校にくる前に家で作ったんだろうけど、自分が振られると言うことは考えてなかったんだろうか。いや、今朝の様子からしてそんなことはないか。単純に俺と一緒に食べられたらいいなと思って作ってくれたんだろう。

「ありがとう、一緒に食べよう。あ、俺飲みもの買ってくるよ」

「あたしも行く」

「いいよ、すぐだから。藍凛はなにがいい?」

「じゃあ、ウーロン茶」

「わかった」

 俺は学食の前にある自販機に行って、ウーロン茶と緑茶を買って帰った。

 教室に戻ると、藍凛は俺の前の席の椅子を動かして、俺の方を向くようにして座っていた。

 それはいいけど、また何人かの同級生たちが俺の席を囲んでいた。しかも、どうやら勝手に俺の分の弁当箱を開けているらしい。

「なんだよ。俺たちのことは放置じゃないのか?」

「岡野! すごいぞこの愛妻弁当!」

 藍凛が赤くなっていた。

「俺にも少し分けろ!」

「分けろ分けろ!」

「ふざけんな。その弁当は米の一粒まで俺のだ」

「ちっ、けち」

「と言うか、勝手に弁当箱開けた時点で俺にはおまえらを殴る権利があるからな」

「なんだそれ?」

 鼻で笑ったそいつの肩を、別の男子が引っ張った。その男子とは一年の時もクラスが一緒だった。

「待て、やめろ。岡野は本気だぞ」

「は?」

 ぼそぼそとなにか耳打ちしている。男子の顔色が変わった。

「え、マジ……?」

 耳打ちした男子がうなずいている。

「あ、じゃあ、俺らは学食行くわ。ご、ごゆっくり~」

 蜘蛛の子を散らすように、席を囲んでいた連中は消えた。

「まったく……」

 俺は自分の席に腰を下ろした。

「あいつら、つまみ食いしていかなかった?」

「そこまではされてないけど……大丈夫?」

「え?」

「すっごく怒ってたみたいだけど……」

「ああ……ごめん……怖かった?」

「ううん。あたしだって、いい気分はしなかったから」

「そう……」

 俺は時計を見た。まだ昼休みの残り時間はある。教室にいる弁当組の数も少ない。

 あまり藍凛には言いたくなかったけど、隠して付き合うのは不誠実だろう。たとえ半日で振られることになったとしても。

「その……俺は一年の時、同級生を殴って停学になったことがあるんだ」

「どうして?」

「理由、聞いてくれるの?」

「聞きたい」

 藍凛の顔は真剣そのものだった。

「俺は、人の厚意を踏みにじるやつが許せない。自分のことでも、他人のことでも。……ことの始まりは、よくあるいじめだった。地味な顔してるってだけでいじめの標的になるんだな」


 俺は高校に入学してすぐに、いじめの標的にされた。机の中にあったものをごみ箱に捨てられる、逆に汚物を突っ込まれる、体操着を盗まれる、肩を小突かれる、足を引っ掛けられる。定番どころはだいたい経験したと思う。クラス全員から無視されると言うことはなかったけど。

 五人の男子生徒、要するにいじめの中心メンバーに校舎裏に連れていかれて、殴る蹴るの暴行を受けることもあった。カツアゲだけは、絶対に許さなかったけど。

 問題は、俺の隣の席の女の子が、すごく正義感が強かったと言うことだった。

 彼女は俺がいじめられているところを見るたびに、いじめっ子を叱りつけた。先生にも報告した。だけど状況は改善されず、さらに悪化した。主に彼女にとって。

 彼女もいじめの標的に加えられた。俺とカップル扱いされてからかわれた。同じようないじめを受けた。暴力は受けていなかったと思うけど。

 だけどある日、彼女と特に仲のよかった蒔寺まきでらが泣きながら俺のところにきた。彼女が強姦されてしまうと言う。俺は走った。

 俺がいつも殴る蹴るされている場所だった。彼女はそこで、五人の男子に押さえつけられていた。上着はボタンを外されて開かれ、シャツもはだけられ、ブラジャーもずらされ、胸が露わになっていた。スカートも脱がされかけていて、下着が見えている。その姿をスマートフォンで撮影している屑野郎がいた。

 俺は周囲の状況を確認する。ここは校舎裏のどん詰まりで、これ以上奥に逃げることはできない。だからこそ、連中はここを俺をリンチする場所に使っていた。幅は三メートルほど。誰一人として、逃げられないだろう。ただの一人も、逃がすつもりはなかった。

 俺が近づくと、二、三人が立ち上がって俺に向かってきた。なにか言っていたけど、俺はもうそれを人の言葉として認識しなかった。

 近づいてきたやつの端から、俺は膝を蹴りつけた。ありえない角度に膝が曲がって、一人ずつ絶叫を上げて倒れる。その悲鳴もただのノイズだ。立ち上がってきた順に、俺は同じ作業を繰り返した。

 全員を身動きできなくしたあと、写真を撮っていたやつのスマートフォンを取り上げた。マイクロSDカードが挿さっていたので取り出してポケットに入れ、スマートフォンは真っ二つにへし折った。

 彼女に近づくとまだ放心状態で、胸が見えていた。俺は学生服の上着を脱いで彼女にかけた。

「他のやつにも写真を撮られたか?」

「え……」

 彼女はぼうっとした声で言った。

「写真。撮られたか?」

「わ……わからない……」

 俺は手近なやつの胸ぐらを掴み上げた。

「スマホを出すんだ」

 泣くだけでスマートフォンを出さないそいつの顔面を殴った。

「スマホを出すんだ」

 俺が繰り返すと、そいつはスマートフォンを出した。全員に、同じことを繰り返した。

 彼女が体を起こしていたけど、まだ呆然としていて胸が見えたままだった。

「服装を直してくれ」

 俺が目をそらして言うと、彼女はようやく正気に戻ったようだった。

「あっ……」

 彼女はあわてて胸の前を合わせていた。彼女が服装を整えてから、俺は彼女にマイクロSDカード五枚を渡した。

「写真を撮られているかもしれない。きみが処分してくれ」

「え……これ、岡野くんがやったの……?」

 周りで倒れている五人を見て彼女が言った。

「ああ。でもまだ終わっていない」

「えっ? ちょ、ちょっと待ってなにするの!?」

 俺が一人の右腕を掴み上げると、彼女があわてて言った。

「両手両足を折る。二度とこんなことができないように」

「だっ、駄目! そんなことしたら駄目!」

「けど……」

「絶対駄目!」

 彼女は俺の背中から抱きついて止めようとしていた。その時になって、ようやくやってきた教師たちが俺を取り押さえた。俺は職員室に連れていかれた。やがて救急車の音が聞こえてきた。


「それで、俺は停学二週間になったんだ。まあ、退学になってもおかしくなかったけど」

「……」

 藍凛はぼーっとしていた。やっぱり振られるよな、こんな兇状持ち……。

「……彰って、喧嘩強いんだ。ちょっと意外」

「えっ?」

 そこなの?

「俺、五人病院送りにしちゃったんだけど」

「そんなの当然。殺されたって文句言えない、そんな強姦魔」

 殺す……か。

「そいつらどうなったの?」

「普通に学校にいるよ。まあ今でも爪弾きにされてるみたいだけど。女子に総スカン食らってるから」

「え、なんの処分もされなかったの?」

「うん。もっとも、学校に出てきたのは俺の停学があけるより遅かったけど。松葉杖つきだったし」

「そんなのおかしい。なんで彰だけ」

「まあ、告訴を取り下げさせるための条件だったんだ」

「告訴?」

「五人とその親が、俺と学校を相手に裁判起こすって言ってきたんだ。俺はどうでもよかったけど、学校はそんなことされたらかなわないからね。色々話し合いがあって、最終的に告訴は取り下げるってことになった。決め手は彼女が裁判になったら証言するって言ってくれたからだけど」

「あ、その女の子?」

「そう。裁判に俺が引っ張り出されたら、まあ暴行についてはどうしようもないよね。目に見える事実だから。だけどなんでそんなことをしたのかってことになれば、女の子が強姦されかかってたからだって俺は言う。だけどそれだけじゃ弱い。強姦未遂は目に見えない。でも、その本人が証言してくれれば、状況は変わってくる。俺を少年院に送り込むことはできるかもしれないけど、五人には強姦未遂犯ってとんでもなくありがたい肩書がつくことになる。まあそれじゃ割に合わないってことだったんだろうね」

「でも彰は停学になった」

「最後の落としどころだったんだ。裁判になったらどう転ぶか、五分五分だった。とにかく俺になんらかの処分を下せば、告訴はしないって言うんで、学校がそれを飲んだんだ」

「なにそれ、ひどい」

 藍凛は赤い目をして怒っていた。今にも泣きそうだ。

「いやまあ、仕方ないんじゃないかな。俺としては文句ないんだ。その子のことを助けることはできたし。それに今は、藍凛といられるし」

「……あのね」

「うん」

「さっきからずっと気になってたんだけど」

「なに?」

「その女の子、うちのクラスにいるよね?」

「……」

 なんで……。

「強姦魔は五人もいて、うちの学校は各学年五クラスずつしかない。そいつらと彰を一緒にするわけにはいかない。そして彼女も、強姦魔なんかと一緒にはしておけない。その子と一緒のクラスになれるのは、彰だけ。違う?」

「……」

「それで、正義感の強い子となると……」

「やめてくれ」

 俺は無意識に藍凛の手を握って懇願した。

「もう思い出させたくない。お願いだ」

 俺のことを見たって、思い出させているかもしれないのに。

「ほんとに……」

 藍凛は遠い目をしてつぶやいた。

「彰は優しいね……」

 藍凛が、俺が握っている手と逆の手を俺の手に重ねた。

「ね。その子のこと、好きだった?」

「いや。恩義は感じていたけど」

「恩義か……それもちょっと、その子がかわいそうかな」

「え?」

「きっとその子、彰のこと好きだったと思う」

「まさか。俺の判断ミスで、あんな目にあったんだ」

「判断ミス?」

「そう。俺だけがいじめられていた時は、別に気にならなかった。だけど彼女までそうなった時、俺はすぐに連中を片づけるべきだったんだ。俺はしばらくの間、彼女がいじめられているのを放置したことになる。それは俺の判断ミスだ。……いや、罪かな」

「罪……じゃあ彰は、それが罰になると思って、停学になるのを受け入れたんだね」

「いや、そこまで考えていたわけじゃないよ」

「嘘」

「……」

 どうして、藍凛は……。

「裁判になったら彼女は強姦されかけましたって証言する。それは公の記録に残るし、噂にもなってしまう。噂を曲解した人が、また彼女になにかするかもしれない。彰はそれが許せなかったから、告訴を取り下げさせるために、一人で停学を受け入れたの」

 そんなに、俺のことがわかるんだろう。

「……ああ、藍凛」

 俺は話をそらすことにした。

「なに?」

「昼休みが終わる」

「えっ!? 大変、お弁当食べなきゃ! 彰も食べて!」

 藍凛の作ってくれた弁当はすごく美味しかったけど、感想を言う暇もなかった。だけど、俺は米の一粒も残さなかった。


 放課後になって、俺はまたしても大事なことを藍凛に話していないことに気づいた。

「彰、帰ろう?」

「うん。あの、それで、悪いんだけど、俺は平日はアルバイトがあって寄り道とかできないんだ。ごめん」

「知ってるよ。だから部活入れないんだよね。一年の時に、運動部の子から聞いた」

「あ、そうだったんだ」

「あたしも部活入ってないの。彰の家はどこ?」

「緑町」

「あたし青葉町。近いね」

「じゃあ、一緒に行こうか」

 道すがら、藍凛と他愛もない話をした。藍凛はあまり自分のことを話さなかった。部活もしてないし趣味もないし、と言って赤くなっていた。まあそれは俺も同じだったけど。それでも、藍凛とはなにを話していても楽しかった。

 道が別れるところで、藍凛が言った。

「あの、明日から一緒に登校してもいい……?」

 少し顔を赤くして藍凛が言った。どうしてこういちいち可愛いんだろうな、藍凛は。

「もちろん。何時にしようか?」

「彰がいつも登校する時間で」

「え、それだとかなり早くなるよ?」

「いいの。あたしも朝練の見学したいから」

「そう? じゃあここに七時で」

「わかった。じゃあ、また明日!」

「うん、また明日」

 藍凛と別れて自分のアパートに足を向けると、支給品の携帯電話が鳴った。俺の頭の中のスイッチがカチンと切り替わった。

 この着信のタイミングはいつものように監視しているやつがいるなと思ったが、手は半自動的にポケットから携帯電話を取り出していた。

「はい」

『少年A』

「はい」

『学園長室にきなさい』

「はい」

 それで電話は切れた。はい、が三回。それだけ。いつものことだった。

 俺はアパートから駅へと向かう先を変えた。

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