第177話

「ごめんね、ようちゃん、ごめんねぇー。廸ちゃんもほんと、トイレまで付き合わせちゃって。この恩は、いずれ、近いうちにでも」


「いや、美香さんに迷惑かけられるのはもう慣れっこですので」


「迷惑かけてる自覚あるなら、コンビニに来るの控えてくれれれば充分ですので」


「なにその切り返し!! 素直に感謝してるのに酷いじゃん!!」


 まだ酒が残っているのだろう。

 ベッドの上でパジャマに着替えた――いろいろとトイレで溢して、シャワー浴びたりなんやりした美香さんは、そんなことを言って拳を振り上げた。

 振り上げたが、まだ本調子ではないのだろう。

 へなへなとそれはすぐ振り下ろされた。


 その拳が地を叩く前に、さりげなくキャッチして身体を支える――美香さんのスパダリこと実嗣さん。いけないよそんな暴れてはと、優しくささやき、そして甘いマスクで迫られると、とろりとした顔で美香さんは乙女ワールドを展開した。


「実嗣さん」


「さぁ、今日はもうゆっくり寝て。君が寝付くまで、ずっと傍にいてあげるから」


「そんな実嗣さん。そこまでしてもらったら、逆に興奮して、私、寝られないわ」


「ならば子守歌でも歌ってあげよう。少し、音痴かもしれないが、いいかい?


「いいわ。実嗣さんの歌を聴きながら寝れれば、貴方に夢でも会えるだろうから」


 もうこいつらほんと人に迷惑をかけるというのを知らんのか。


 いい加減ついて行くのもしんどくなってきたな。

 そんなことを思う俺たちの前で、本当に実嗣さんが歌い出す。

 そして、こんだけややっこしい乙女ムーブをかましておいて、五分でスカピーと寝息を立て出す美香さん。


 もはや何も言えなかった。

 この町に住む女子はほんと逞しい。


「美香さんはもう大丈夫だ。ありがとう陽介くん、廸子さん。後は僕が預かるよ」


「あ、はい、分かりました」


「実嗣さんも運転でお疲れでしょうに。あんまり力になれなくてすみません」


「いやいや、そんなことはないさ。本当にありがとう。君たちのような人が、身内でいてくれて本当に助かる。美香さんも言ったが、何か困ったことがあったら相談に乗るよ。あまり頼りにならないかもしれないけれど」


 いや、バチクソ頼りにしてますがな。

 関西に覇を唱える造船会社グループの総帥。

 そんな人が身内に居るって心強いですよ。

 ほんともう、金に困ったらまず間違いなく相談します。


 しないにこしたことはないけれど。


 高度な冗談を交わして、俺たちは美香さんと実嗣さんの家を後にする。

 なんだかなという気分で肩を鳴らすと、おつかれさまと後ろから廸子。そういう彼女もまた、どんよりと曇った顔をしていた。


 旅の途中で見た感じの奴ではない。

 単純に美香さんの世話に疲れたのだろう。


 美香さんと実嗣さんが借りている借家は、幸いにして駅前にあった。

 なんか飲み物でも買ってから行くかと廸子に提案すると彼女は頷く。

 あれやこれやと矢継ぎ早にここまできたので喉はからからだ。


 夜道を二人並んで歩く。

 まぁ、車なんてまず通らない。ただ、それでも一応心配だったので、廸子を歩道側に歩かせて、ついでに手も握った。


 もじもじと手から伝わってくる、彼女の恥じらいの感情がもどかしい。

 ほんとこいつも、美香さんと同じで結構な恋愛脳だよな。


「陽介。ちょっと、手汗ひどくない」


「やだぁ、そういうの思ってても言わないでよ。なんで言うかな、廸ちゃんてば」


 そして、俺も結構バカにできないくらいに恋愛脳でした。

 仕方ないやんけ。


 そりゃ、緊張して手汗でベトベトになるわいな。

 女性と手を握って夜のお散歩って、少女漫画じゃ少ないかもだけれど、青年漫画だと鉄板なシチュエーションなんだからね。

 ちょっともう、そりゃ緊張くらいするわな。


 ふふっ、と、廸子が笑う。


 なんだか、この旅に出てから、初めて見る気の抜けた笑顔だった。


 いつもだったら、こんな風に笑ってくれるのに。

 どうしてこの二日間は、お目にかかるのが難しい気楽な笑顔だった。


 それが不意に彼女との約束を思い出させる。


 自販機の前、硬貨を入れる。

 何が飲みたい、と、廸子に聞く代わりに――。


「で、廸子。いったいなんだったんだ? なんで、あんなに怯えてたんだよ?」


 彼女が、旅を終わったら語ると言った、挙動不審の理由に切り込んだ。


 ふと、空気が変わったのを感じる。

 自販機にお金を入れるのに廸子とは手を離した。


 彼女の感情を直接読み取ることは、俺には今できない。

 そのはずなのに、それは空気を通じて、俺の背中に降り注いできた。


 どうしようもない、むせかえるような不安。


 あの日、廸子を抱いたときのそれとはまた違うものだ。

 山波という、俺を奪うかもしれない者に対する恐怖ともまた違う。

 彼女の身体からこぼれだした負の感情。


 その大きさに、思わず、商品を選ぶ指先は止まっていた。

 振り返れば、俯いて、表情を隠した幼馴染みの姿。


 なんだこれは。


 こんな大きな感情を抱えて、彼女は今まで俺たちに付き合ってくれていたのか。彼女は、こんな大きな不安を抱えて、俺と一緒にいてくれたのか。


 思わず、生唾を飲み下してしまった。

 それだけではない。


 聞くタイミングを間違えたと、本気で後悔した。

 これは、ちょっと、立ち話で済まない話だ。


 どうすればよかったのかも分からない。

 彼女の家、あるいは俺の家で、話は聞くべきだったのかもしれない。

 車の中も選択肢としては悪くないだろう。


 いや、待て。


 美香さんの世話が必要だろうと、廸子は俺についてきた。

 けれども、その実、本当は俺と二人きりで話したかったのではないのか。

 この機会を、実は彼女は待っていたのではないのか。


 この、あまりにも大きな負の感情を抱えて。


 どうしていいか分からなくなって、俺までどうにかなりそうになる。

 いけない。俺まで取り乱してしまってどうする。廸子に不要な不安を与えるだけだ。俺は彼女を受け止めると、いつだって彼女の味方だと、言ったはずだ。


 ちゃんと、何があっても、俺は廸子を受け止める。


「……あの人。陽介の同級生の人はね、何も悪くないの。うぅん、むしろ逆。あの人は、私の背中を押してくれたの。なんの覚悟もなかった私の」


「……覚悟って、お前」


「すごく、すごく、すごく悩んだんだ。陽介が、職業訓練に行くようになって、いよいよ再就職に向けて動き出して、いろんなことが上手くいってる。上手くいってるけど、絶対に陽介は無茶してるって。はやくよくなろうって、自分に言い聞かせて、そうやってまた自分を追い込んでるって」


 そういう側面が自分にないかと言われれば確かにある。

 まったく、幼馴染みとは厄介なもので、どうしてそんなことまで分かるのか、気が回るのかとほとほと感心してしまう。


 けれども、なぜ、今、その心配を彼女はするのだろう。

 どうしてそんな心配を、俺に向かって吐露するのだろう。


 意図が分からず口ごもる俺に、廸子は顔を見せてくれない。まるで、その表情さえも見せてはいけないという感じに、彼女は警戒している。


 何に。

 何を。

 何故。


 視線を交わさないまま、立ち尽くす俺たちの背後で、ピーという電子音が鳴る。

 投入した硬貨が払い戻しされて、釣り銭コーナーに落ちる音が響く。

 深まった玉椿の夏の夜に、虫と蛙の合唱が響き渡る中で廸子は――。


「あのね。まだ、分からないの。陽介の職業訓練校の入学が決まったあの日から、まだ一ヶ月でしょう。もうちょっとね、時間がたたないと、はっきりしたことはわからないの。だからアタシの勘違いかもしれない」


「何を、勘違いするっていうんだ」


「負担になるって分かっているから。言っちゃうと、陽介絶対無理しちゃうから。せっかくよくなって、お仕事できるようになりそうなのに、心配かけちゃいけないから、アタシね、はっきりするまで言うのはやめようって、そう思ってんだ」


「なんだよ、言えよ、隠し事なんてする仲じゃないだろう」


「あのね――」


 生理が来ない、と、廸子は言った。


 ぼろぼろと、涙を闇色のアスファルトの上に溢して、彼女は言った。


 ゆったりとしたワンピース。

 海水浴場で、なぜか泳がず水着にもならなかった。

 バーベキューでも一切酒を口にしなかった。


 そして、レモンミントのシャーベット。


「赤ちゃん、できたかも、しれない」


「廸子!!」


「……陽介?」


「ありがとう!! 本当に、ありがとう!! やったな!! 俺たち、これでもう家族だ!! 誰にも文句のつけられない家族だ!!」


「……違う、違うよ陽介。そうじゃないよ」


「嬉しいんだ!! なぁ、想像できるか、廸子!! 俺と廸子の遺伝子を持った子供が、この世界に存在しているんだぞ!! こんな素敵なことってあるかよ!!」


「陽介。あのね、陽介。まだ、分からないの。分からないから。ただの生理不順かもしれないから。だから、お願い」


「誠一郎さんに挨拶しに行こう。大丈夫、出産資金は姉貴に頼んで貸して貰う。知ってたか、職業訓練に行くとさ、それなりにお金はもらえるんだぜ。結婚式は難しいかもしれないけれど、旅行くらいはさ」


「……陽介ぇ」


「絶対、絶対に幸せになろうな、廸子!! なっ、大丈夫だから!! 俺を信じてくれればいいから!! 絶対にお前を不幸になんてしないから!!」


「……うん」


 廸子は頷いた。


 俺の顔を見ずに頷いた。


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