第161話

「……別に、会ってもそういう関係にはならないでしょ。気にしすぎだよ」


 言葉が出たのはコーヒーを飲みきってからだった。

 空になった拳大のグラスの中に氷のタワーを積み立てるのを眺める。

 俺は目の前の女の顔を直視できなかった。


 どのような顔をするのか。

 俺の言葉に、どういう反応をするのか。

 それを確かめる勇気が決定的に俺の中には欠けていた。


 いや、経験かもしれない。

 女性経験の欠如が、そうさせたのかもしれない。とにかく、どうしていいのか、何が正解なのか、俺にはこの件について何も分からなかった。


 答え合わせをするように山波の言葉を待つ。

 少し、間を開けて彼女は。


「ほら、やっぱり優しい」


「……いや、別に、俺は」


「大事な人が居るんじゃないの。私、結構、こういう風になっちゃてから、容姿には自信があるつもりだけれど、豊田くんちっとも靡かなかったもの」


 なんで分かるのだろう。


 あの日、あの時、山波に部屋へと誘われたその瞬間。

 俺の中の廸子への想いがそれを思いとどまらせた。

 今、彼女に指摘されて俺はようやく気がついた。


 不倫とか、行きずりとか、そういうものと関係なく、ただ、廸子に対する思いが俺を彼女へと走らせなかったのだと、今更確信した。


 山波より大切な人が居る。

 だから、俺は――。


「そんな風にさ、相手のことを思えるのって大切だと思うよ」


「……どうなんだろう」


「もし、豊田くんがフリーなら、私のせいにしてしてもいいかなって思った。私たちの関係を壊すのに豊田くんを巻き込もいいかなって、そんなことを思ったの」


 けど、そんな顔、見せられたら、もうできないね。

 そう言って、山波はティーカップをテーブルに置いた。

 静かに手提げ鞄の中をまさぐった彼女は、一枚、千円札を取り出すとそれをテーブルの上に置く。


「だから、これ以上、貴方の優しさに甘えちゃいけないなって思ったの」


「……山波」


「やめてよね、豊田くん。勘違いしないで欲しいけれど、私は誰でもよかったの。都合のいい人が欲しかっただけ。それがたまたま貴方だっただけなの」


 前に送ってくれたガソリン代も含めてここは奢らせてね。

 そう言って、帰って行く山波に、俺はそれ以上声をかけることはできなかった。マスターもまた、帰る際に余計な口を利くことは無かった。


 山波について、いろんな思いが頭の中を錯綜する。

 本当にこれでよかったのか。

 やはり、分からない。


 俺は、そのまま、車に乗って玉椿町へと戻った。


 空は微かに闇を帯びて、明星が頼りなさげに俺の行く先を照らしていた。


◇ ◇ ◇ ◇


「……なんかあっただろ陽介」


 廸子にそれを悟られたのは意外だった。

 車を飛ばして、彼女の迎えの時間も合わせた。

 コンビニに入店して早速、渾身のセクハラもかました。

 すべて、いつも通り。


 けれど廸子は、車に乗って二人きりになるなり、いきなりそんなことを言った。


 どうしてだろう。

 山波の中にも感じた女の怖さのようなものを、唐突に廸子の中に俺は見た。

 もっとも、廸子が放つそれはまだ温かみの感じるものではあった。

 だが、俺を沈黙させるのには充分だった。


 十秒に渡る沈黙を覆す言葉を俺は知らない。


 山波の時と同じく、今度もまた、俺は女性にリードされた。ただ一つ違うのは、なんだよ、まったく、と言う幼馴染みの顔を、安心して見ていられたことだけだ。


「話してみろよ、怒らないから」


「……ほんとかな」


「怒る訳ないだろ。何年の付き合いだと思ってんだよ。浮気でもしてない限り、アタシは怒らないね。絶対」


「じゃぁ、怒られるや」


 車を発進させる。

 排気音が、廸子の驚きの声をかき消した。

 夜のとばりの中へ車を走らせて、しばし俺は、幼馴染みの怒りの言葉を待った。


 廸子は怒らなかった。


「詳しく、話を聞いてもいいかな」


 そう、彼女は真剣なまなざしで俺に問いかけてきた。


 浮気をした。

 そう言っても、彼女はどうやら俺のことを信じてくれているらしい。

 あるいは、俺の浮気という言葉が、ある種のケレンを含んだものだと、彼女は即座に見抜いたのかもしれない。


 こうなってしまうと、もう、語るに落ちるという奴である。


「……図書館にさ、高校時代の同級生が勤めていてさ」


 俺は洗いざらい、山波とのことを彼女に話した。

 車は、俺たちが住んでいる家を離れて、玉椿を隣町へと進んでいく。


 廸子にことの経緯を語るには、あまりにもいつものドライブは短すぎた。


◇ ◇ ◇ ◇


「なるほどな。そりゃ確かに浮気だな浮気」


「……そうだよね。浮気だよね、許されない案件だよね」


「罰としてなんでも言うこと聞いて貰わないと許せねー奴だな。というか無職ニートあんぽんたんバカ陽介が言い寄られてその気になるとか、普通に許せんのだが」


「そこまで言うことなくねえ?」


 案の定。

 廸子の奴は冗談で許してくれた。

 こんな風に茶化してくれるのに、彼女の優しさを感じた。

 やっぱりなんだかんだで廸子は優しい奴なのだ。


 本当に怒っているなら、もっと静かなものだ。

 別に俺は、女性との付き合いはそれほどある方ではない。

 けれど、幼馴染みがどういう怒り方をするかくらいは分かるつもりだ。


 廸子は怒っているなら、静かに俺に背中を向ける。

 そういう奥ゆかしい娘だ。

 本当は、金髪にしているのがおかしいくらいに気弱な奴なんだ。


 だから、彼女に心配をかけるような、そんなことをした自分が情けなかった。

 動揺なんて隠しきって彼女になんの心配もかけたくなかった。

 なのに、こうして漏らしてしまった自分が情けなかった。


 ほんと。

 ごめんな廸子。


「けどさ、ちょっと分かる気もする。なんだろう、その誠意に誠意で応えなくちゃいけないのがしんどいっていうの」


「そういうもん?」


「想像だけどな。例えば、アタシは陽介がちゃらんぽらんでバカやらかしてくれるから、自分も迷惑かけてもいいかなってそういう風に思ってる。割とマジな話な」


「迷惑なんてかけてないだろ。むしろ、俺がお前にかけっぱなしだよ」


「そう言ってくれるだろ? だから、アタシとしてはすっげー気が楽。だから、陽介のセクハラも、いいっかって受け入れてるところはある」


「えー、そういう等価交換だったの、このやりとり?」


 愛のない話だなぁ。


 いや、逆か。


 愛があるからこういうことができるのか。

 ちょっとむず痒い、そんな話である。


 気が楽だと言ってくれるなら、こっちも気が楽だよ。

 俺が、どれだけお前を幸せにしてやれないことを、申し訳なく感じているか。

 それでもこうして二人で一緒に居られることを喜んでくれて、許してくれて、俺は本当に嬉しく思っているんだ。


「逆にさ、陽介の方はどうなのさ?」


「……何が?」


「私のことにさ、誠実に応えなくちゃいけないとか、そういうこと思って、苦しくなったりとかしないの?」


 してない、なんて、言えなかった。

 気は楽だが、それでもやっぱり、どこかにそういう思いはある。

 多分程度の差こそあれ、恋人や夫婦というのはそういうものなのだ。

 そこを、どうやって埋め合わせていくか、埋め合わせられるか。


 俺は、だから――。


「思っているけど、嫌な感じはないよ。お前と、たぶん同じ。廸子のこと信じてるし、今のままで結構通じ合えてるって思えるから、大丈夫」


「……そっか」


 にっと笑って廸子。

 彼女は眉間の皺を引っ込めた。

 どうやら、機嫌は直ったらしい。


 結果的に、廸子に山波さんのことを話してよかったのかもしれない。

 もしこのまま胸に抱え込んでいたら、それこそ廸子への誠実さが胸につかえて、いつぞやのように病んでいたかもしれない。

 これくらい、ラフにお互いの気持ちを言い合える方が、いいのだろう。


「けどまぁ、悪いとは思うし、何か一つ、言うことは聞くよ」


「そりゃもちろん、当たり前だろ」


「何が欲しい。高いアイスクリームか? それとも、日用品? ブランドモノのバックを買ってやれるほどの蓄えは、残念ながらないぞ?」


 そう言って、笑い話を交えた直後。


「……ホテル、行かない?」


「……はっ?」


 真っ赤な顔をして、廸子がこちらを見ていた。

 怒りを、悲しみといじらしさに変えて、すがるようなで彼女は俺を見ていた。


「陽介が、アタシのものだっていう、証拠が欲しい」


「証拠って」


「もうそろそろ、いいじゃん。病気、よくなっただろう」


 違った。

 誠意に誠意で応える苦しさ。

 その意味を、俺はちゃんと理解していなかった。


 あるいはまたこの感情は別のものだろうか。


 胸の奥が、うれしさと共にちくりと痛むのを、俺はその時感じた。


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