第160話

 ミント・パート2は玉椿町にあるラブホテルだ。

 2とナンバリングされているように、元々県内にあるラブホテルの二号店。

 ここ十年ちょっとで出来た真新しいホテルである。


 コンセプトは特別な夜。

 部屋に奇抜さや遊び心こそないが、清潔感溢れる内装とちゃんとした料理、窓を開ければ普通のホテルと代わらない景色が望めるということで評判がよい。


 なんとなしにそういう話を町の人とすると、行くならミント・パート2と言う。

 町の外に出て、そういう話をしても、ミント・パート2はよいと言う。

 そしてなにより、町の税収としてミント・パート2はとてもいい額を払ってくれているらしく、町内会もあんまりとやかく言うことができないという。


 まぁ、田舎の税収は主にパチ屋とラブホ。

 こればっかりは仕方ないんだそうな。


「元はボロッちいビジネスホテルだったってのに、資本入れるとここまで代わるかね。まぁ、もともと景色はよかったんだけどな」


「……だな」


「知ってるか廸子。ラブホテル建てるのって法律上難しいらしくてな。こういう風に、元々ビジネスホテルとして営業していた所を改造するんだって。ここも不況のあおりを受けて、ビジネス客の脚が遠ざからなかったら存在してなかったんだぜ」


「……ビジネスホテルだった頃から、使ってる人は使ってたって、言うじゃん?」


 そう言って、俺の隣で顔を赤らめる廸子。

 どうしていいのか分からず、おどおどとする彼女を少しでも落ち着けたくて、俺は務めて平静を装った。

 が、やっぱり、俺もそんなに経験が豊富な方でもない。


 タッチパネルのフロントで部屋を選ぶ。

 どれがいいのかなんてまるでわからない。

 とりあえず一番高い階の部屋を選ぶ。


 表示金額に従ってタッチパネルの横の挿入口から金を入れると、カードキーとおつりがそれぞれ別の口から出てきた。


 どうしてこうなったのか、順を追って説明するのは難しい。

 ただ、一つ言えることは、これから俺と廸子がSEXをするということだ。


 小刻みに震える彼女の肩を抱いて、俺はエレベーターへと彼女を誘う。

 大丈夫だよなという視線を無言でこちらに向ける幼馴染みに、任せておけと、俺はせめてもの虚勢を張った。


 ほんと、どうしてこうなってしまったのだろう。


◇ ◇ ◇ ◇


「山波さん。俺、職業訓練決まったわ」


「お!! おめでとー豊田くん!! なにするの?」


「電気保全のコース。一番俺がやってた分野に近いかなって思ってさ。まぁ、社内SEも兼ねてって感じなら就職もしやすいんじゃないかと」


「そっかそっか。けど、そうすると、しばらくは会えなくなっちゃうね」


 なんの気もない会話を交わす俺と山波さん。

 まぁ、そうなるねと、俺もまたそつなく話を合わせる。

 まるであの日の雨のことなどなかったかのような会話。


 俺は本当に、山波さやかという過去の彼女はこの世に存在しないのだと思った。


 そんな思いを隠して俺は彼女の言葉に首肯する。


 返却された本の整理の途中だったのだろう。

 手に抱えていた本を手近なテーブルに降ろすと山波さんは、少し寂しそうな表情をした。それが作り物なのか、本心なのかは判別がつかない。


 彼女はもう、俺の知っている人と、あまりにかけ離れていたから。


 教室の中で遠くに眺めながら、ある種の同じ人間の匂いを感じていた彼女は、もうこの世界のどこにもいない。

 したたかに、そして人並みに世間にすれた、女性がそこにはいた。


 話しながら、若干薄ら寒いモノを感じた。

 それがとても失礼なことは分かっていた。

 生きていれば、女性と男性と限らず、そうなるものだ。

 頭では理解しているのだが、それでも、ちょっと怖かった。


 けれども、彼女が同級生で、ここ一ヶ月とちょっとを共に過ごしたのも事実。

 そこから何も言わずに立ち去ることは不誠実なことのように俺には思えた。


 だから声をかけた。

 最後に別れの言葉をかけた。


「なんか、寂しくなっちゃうね」


「仕方ないでしょ。いつかは俺も働きに行っちゃう訳だし」


「だよね。まぁ、出会いと別れはセットでやってくるっていうもんね」


 そう言いながら、彼女は空いたままの左手の薬指を眺めた。

 山波さんの心がここにないことは明らかで、彼女は俺との会話を通して何かを頭の中で整理しているようだった。


 誠実がどうこうと言ったけれど、そんなことを気にしているのは多分俺だけ。

 彼女の方は、きっと、毛ほどもそんなことは気にしていないだろう。


 あるいは、俺のことを――。


「じゃぁ、お別れ会、しよっか、豊田くん」


「……え?」


「しばらく会えなくなるし。いいじゃんちょっとくらい、飲みに行こう」


 何か、都合のいい道具のようにでも思っているんじゃないかと、そう思えた。

 なんでそんな、ちょっと顔を知っているだけの、ただの高校時代の同級生に対して、彼女は積極的になれるのだろう。

 そもそも、どうして俺なのだ。


 わからない。


 ワカラナイ。


 山波さやかというかつての少女が、女になった今、何を考えているのか。

 俺にはさっぱりと分からなかった。


 詰まる言葉に、声にならない口の動き。

 もたついている間に、あははと笑って山波さんは次の言葉を投げかけてくる。

 言葉のやりとりをするのには、十分な時間があった気がする。

 けれども、一言も僕は彼女に何も言えなかった。


「心配しなくても、図書館前のカフェでちょっとお茶するだけだよ。前みたいなことはなし。大丈夫だよ、ちゃんと、私も分かってるから」


「……そっか」


 そう返すだけで精一杯だった。


◇ ◇ ◇ ◇


 図書館前にある喫茶店は、俺たちが子供の頃から営業しているお店だ。

 まぁ、子供連れが多く通う場所にあるものだから、喫茶店とは名ばかりで喫煙席などない実に小綺麗な店だった。


 初めて入ったが、悪い店ではない。

 店主と思われる白髪交じりのおじさんが伝票を手にやってくる。

 コーヒーと紅茶を頼むと、俺たちは先んじて出された水入りのグラスを手に軽い乾杯をした。


 夏場ということもあるのか、水にはレモンが搾られているようだった。

 柑橘の爽やかな香りが鼻を抜ける。


 職場の制服から着替えた山波さんは、ゆったりとした薄手のブラウスに、白色のスラックスを穿いていた。紅色のパンプスが唯一鮮やかで妙な色気を放っている。


 しかしそれよりもなによりも目を引いたのが昼間会った時にはなかったものだ。彼女の左手の薬指には、シンプルなデザインの指輪がはまっていた。


 もう、隠す必要がないということだろうか。

 すぐに俺の視線に気がついたのだろう、山波さんはレモン果汁入りの水を呑んだにしては苦々しい顔を見せた。


「……結婚してたんだね」


「いまさらでしょ」


「そうだね」


「豊田くんてさ、なんていうかそういうのすごく優しいよね」


「優しいのかな?」


「優しいよ。少なくとも、すぐに言葉にしないだけ、優しい。人のためにいろんな事を考えられるって、それだけですごいことだと私は思うな」


 人と関わる勇気がないだけだと思う。

 そう言いたくて、言い出せない自分を認識してしまうと、とても山波さんの言っていることを正面から受け止められなくなっていた。


 グラスの中に浮かぶ氷に目を落とす。

 レモン果汁入りの水は、無色透明のその水面に俺の顔を映している。

 困惑するばかりの情けない俺を。


「失敗したなとか、嫌だなとかは思ってないんだ」


「……なんの話かな」


「この話の流れでそれを聞くのは、ちょっとデリカシーないかな」


「ごめん」


「いいよ。豊田くんのそういう所、嫌いじゃないから。だから主語なしで話すね。とってもいい人なの。文句のつけようがない、気配りができる、そういう人。けどさ、そういうのって逆に疲れるじゃない」


「疲れるって?」


「いい人ごっこしつづけなくちゃいけない――って言えばいいのかな。相手の誠実さに誠実さに応える。そういう関係って、ちょっと疲れない?」


「けれども彼は、君を放ったらかしにしているように俺には見えたけれど」


 失言に気づいて、俺は慌てて口を噤んだ。

 いたずらな微笑みを漏らす山波さん。

 気まずい空気が流れようとしたその時、まるでその間を繋ぐように、コーヒーと紅茶が席に届いた。


 伝票を置いて、ごゆっくりとだけ述べて立ち去るマスター。

 一口、コーヒーを口に含んでから、俺はまた山波さんを見た。


「放ったらかしってことはないわ。生きているのだもの、誰だってその日の糧のために働くことは免れないし、何かを犠牲にするのは仕方の無いことだわ。だから、そう、それは仕方ないと思っているの」


「寂しい、って、訳じゃないんだね」


「最初はね、そうなのかもしれないって、思っていたの。けれども、そういう日が続く内に気づいちゃったの――」


 あぁ、自分は我慢しているんだな、って。


 そう言うと、俺の手に、彼女は自分の手をいきなり重ねた。

 シンプルな――宝石の一つもないリングが、手の甲に当たって冷たく痛い。


 それはきっと、山波が抱えた後ろめたさのようなものなのだろう。


「だから、ごめんね。あの日、貴方を巻き込もうとしたのは、そういうことなの。何も深い意図なんてないわ。ただ、そう、わがままをしてみたくなっただけ」


「本当に、それだけ?」


「それだけ」


 謝る山波に、俺はどう言葉をかければいいか分からなかった。


 彼女はきっと、もう、俺にこれ以上関わろうとはしないだろう。

 それはなんとなく分かった。


 けれども、きっと、俺以外の相手にそれを試すかもしれない。

 それを当人の自由と見逃していいのか。


 分からなくて、俺は、コーヒーを飲む。


 水出しなのだろう。

 キレのある風味があるそれは、けれども、いっこうに俺の乾いた喉を潤してくれず、詰まった言葉をさらに肺腑の奥へと押し込んだ。

 なにも言えない俺に――山波は。


「もう、会わない方がいいかもね、私たち」


 なんてことを、軽く言うのだった。


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