第130話
『んだと陽介!? ちぃちゃんも美香ちゃんもいっぺんに見失っただ!! なにしてんだ!! おめーが音頭取ってたんじゃねえのか!!』
「うっせえ親父!! おめーと駐車場でぐだぐだやってたらこのザマだよ!! 俺だって予想してなかったんだ、とにかく――消防団の手配頼む!!」
『言われなくても分かってるよ!! お前はどうする!!』
「とりあえず、一番近場でありそうな近くの登山口に向かう」
『……分かった。美香ちゃん優先だな。とりあえず、そっちはお前に任せる。無線はすぐに流す、そこが終わったらすぐに日野さんとこっちに迎え』
分かったと、電話を切り際、おいと親父が俺を呼び止める。
なんだよと文句を言うなり、親父は俺に「しっかりしろよ」と静かに告げた。
怒りも、焦りも、何もない、重いしっかりしろよ。
分かった以外に答えようがねえだろ、こんなん。
◇ ◇ ◇ ◇
熊。
地上最強の生物とは何かという議論において、しばしば引き合いに出される。象・ライオン・サイ・カバ・ワニ・アナコンダ。
まぁ、なんでもいい。
とにかく武道を嗜むものならば、一度は夢想したことがあるだろう。
自分の極めた武の道が、果たして人以外の者に通じるのかと。
姪の危機。
ついさきほど知り合ったばかりの女性の危機。
そして自分の命の危機。
そんな状況が頭から消し飛ぶくらいに脳が沸騰する。
異種格闘技戦。
しかも人外。
一瞬にして、戦う獣としての本能を取り戻した私は、間抜けにこちらを見ている二本足になった熊の眉間に蹴りを喰らわせた。
踵落とし。
靴底には、こういうこともあろうかと鉛を仕込んである。
ただ――倒す!!
「ゴァッ!!」
渾身の一撃。
しかし、骨を砕いたような感覚はない。
やはり腐っても熊。そう一朝一夕にはいってくれないか。
そうでなくては。
私は体勢を立て直しながら、相手の様子をうかがう。
頭を蹴った一撃は、彼の視界と脳を激しく揺らしたらしい。
まるで酩酊したサラリーマンのように熊は頭を激しく振る。
さて。
「美香さん、ちぃちゃんを連れてここから離れてください。ツキノワですが相手にするにはちょっと大きい。できれば走って逃げて。それから近くの人に応援を」
「応援をって!! それじゃあなたはどうなるのよ!!」
「……ギリギリまで熊を引き付けます。早くしてください、ちぃちゃんに熊が襲い掛かったら惨事です。ここはどうか、私に任せてください」
「けど」
「……柔道、ボクシング、コマンドサンボ、ムエタイ、レスリング。どれもやったがしっくり来なかったんですよ」
「……え?」
なんの話と、この話を切り出すと大抵お付き合いしている女性は引く。
これでいよいよ引かせるための話は全部したなと苦笑い。
そこに加えてこの高揚した表情である。
どうやら美香さんも、こればかりには引いたようだ。
道場破りが趣味とは言っていたが無理もないだろう。
「格闘技。どれも何か、戦うのに必要な闘争心が欠けている。道場でのやりとりに、私はもう飽き飽きとしているんですよ」
そう、道場での、勝った負けたのやりとりは、私が望むものではない。
私が望むのは、命のやり取り。
生きるか死ぬか、極限の戦い。
だからこそ、私はそういう表舞台からすっぱりと身を引いた。
そして、ストリートファイトや地下核闘技場。
より、命のやり取りを感じられる場所にその身を置いた。
今でこそ、年齢から回数を自重しているが――まだ現役。
そして、思いがけずまみえた熊という好敵手に、心が躍らない訳がない。
ツキノワグマと言っても熊は熊だ。
人間の倍以上の筋肉を有する猛獣を相手にどう戦うか。
ドーパミンがあふれかえる脳みそで、有効と思われる手を考えつくす。
そしてそれは咆哮と共に、一つの解となって私の中に舞い降りた。
前傾姿勢で突進してくる熊。
人体急所の多くは分厚い筋肉より覆われていてとてもではないが通用しない。
だが、顔面はどうか。
さきほど顔面に蹴りを入れたのもまたそういう判断だ。
狙うならば比較的肉の量が少ない顔面。
先ほど狙ったのは眉間。
であれば、次に通るのは顎先――オトガイだろう。
人間の身体と違うので、どのくらいの力で打ち込めば、脳震盪を起こすことができるか分からない。
だが、やってみる価値はある。
突っ込んでくる熊を前に構える。
紙一重、あの猛襲を交わして、顎に鉛入りの靴でいいのを一撃入れる。
開かれた熊の口の下に、狙いをすましたその時――。
「……ちょーーっと!! 待ちなさいよ!!」
「……ふぇ!?」
背中に居るはずの美香さんが、なぜか私を追い抜いて熊へと突進していた。
馬鹿な、何をする気なのか。
低姿勢、あれでは正面から熊と対峙することになる。
それはいけない、そう思った時、彼女はがっぷり熊と組み合うと、そこから流れるよな脚技を決めて熊の巨体をその場に転がした。
仰向けになるようにして倒れたそれの、腕を捕まえると美香さん。
「勝手に初めて、勝手に結論付けて、勝手に守って――そういうのちょっと腹が立つんですけれど!! 私はね、黙って男に守られるような軟弱な女じゃありませんよ!! 確かに王子様を求める心があることは認めよう、しかし!! その王子様が虚弱体質だったならば、私が代わりに拳を振るうのもやぶさかではなし!!」
「やぶさかではないんですか!?」
「愛ってそういうもんじゃろうがーい!!」
お見事。
まるで、熊の腕をへし折る練習をずっとしてきたみたいに、見事に熊を抑え込んでその腕を逆間接にへし折った。
人間をはるかに凌駕する筋肉が動く間もなく、それを捌いた美香さん。
どっしゃぁおらぁと実に女性らしくない雄たけびを上げて彼女は、泡吹いて倒れている熊から離れると、トドメとばかりに熊の心臓に拳を打ち込んだ。
倒した。
倒したよ熊を。
ただの女性が、しかも、なんか勢いで。
まるで熊の倒し方なら知っていると言わんばかりの、そんな流れる所作で。
いや、それにしたって。
――タフだ。
この私が引くほどに、タフだ、この人。
と、ここでなぜだか美香さん、頬を赤らめる。
「あ、いや、その、なんか勢いでいろいろ言いましたけど、白馬の王子様がどうとかは別に実嗣さんに関係している話ではなく。まぁ、ものの喩えといいますか」
「……え、えぇ、まぁ、そうなんだろうなとは、私も、思いましたけれど」
「そ、そうですか。そうですよね。いや、そうなんですよ」
なぜだろう、微妙に悲しそうな顔をしているのは。
それで、なんかやっちまったーという感じで、今更顔を青ざめさせているのは。
別にそんな顔をすることはないだろう。
まぁ、私の獲物を奪ったということは置いておいて、彼女はこの場に居る者たちを守ろうとその拳を振るったのだ。
勇気をもって、クマに立ち向かったのだ。
それは、女だろうと男だろうと、生半可な気持ちでできるようなことではない。
ひゃー疲れたとなんでもないように手をプラプラとする美香さん。
そんな彼女に、心配そうに近づく姪のちぃ。
なんだろう――。
その時、私はようやく、自分の中で起こっている異常に気が付いた――。
この戦闘の高揚とはまた違う、胸の高鳴りに。
「みかちゃーだいじょううー? けがしてないー?」
「だいじょうぶだいじょうぶ!! ちぃちゃんまもるためだったら、おねえちゃんどれだけでもつよくなれるからね!! ふっふーん、愛は偉大なのだ!!」
「おー、あいはいだい!! すごい!!」
そう言って、人の姪に自慢げに呟く彼女の姿に、私はやはり何かを見た。
匡嗣と死に別れて以来感じることのできなかった、心の疼きを感じた。
どうして、ここまで、赤の他人に自分を捧げられる。
私にも。
ちぃちゃんにも。
親兄弟血縁者の繋がりを越えて、人を愛することができる彼女。
その愛を熊を倒すという形で有言実行してみせた彼女。
田辺美香という、私の前に現れた青天の霹靂のような彼女。
これまでの価値観をすべて覆してくれた彼女。
この女性のことを、私は――。
「それより、大丈夫ですか、実嗣さん。どこか挫いたりとかしてませんか?」
「……美香さん」
「はい? あ、私は大丈夫ですよ? 鍛えてますから、イェイ」
ピースを作った手を握りしめて、私は彼女に迫る。
近づいた顔にほのかに朱が走って瞳が大きく開く。
驚いた彼女の瞳の中に、私の姿も映っている。
酷い顔だ。
まるで目の前の乙女と同じように、私の顔は真っ赤だった。
だって、こんなことを言うのは、生まれて初めてなのだから。
「よろしければ、私と結婚を前提に付き合っていただけませんか?」
「……へっ? いやいやいやいや? なんでそうなるの?」
「分かりません」
「分かりませんって!! それにしてもいきなり過ぎない!?」
「熊を倒すあなたの姿に、私は愛を見ました」
「やな口説き文句!! もっとなんか、こう、あっても――」
あぁ、と言って、亜麻色の髪をかきむしる美香さん。
よりいっそう顔を赤くする彼女。
どうしていいか分からないような、苦虫をかみつぶした顔をして彼女は。
「冗談とか言わない人ですよね、実嗣さんって?」
そんなことを私に尋ねてくるのだった。
もちろん、冗談なんかじゃない。
「私は本気です。生まれてはじめて、私は女性に対して、愛おしいという感情を抱きました。それが本物かは分からない、だから――」
「あぁ、やめてイケメン力が強い!! もうちょっと加減して実嗣さん!!」
「……ダメですか?」
「そんなこと言ってない!!」
ではいいのですかと尋ねる。
女性に自分から告白するなど初めてのことである。
その恐怖におびえる私の前で彼女は――。
「あの、私、その、いい歳なので、がつがつ行きたい所なんですけど。ことがことでございますので。あと、こんなに熱烈的なのは初めてですので。お友達からゆっくりと結婚を前提に歩ませていただければと思うのですが、いかがでしょうか」
小さく唇を揺らして、ようやく私の質問に答えてくれた。
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