第108話
玉椿町には喫茶店がない。
いや、正確には、気軽に入ることができる喫茶店がない。
老夫婦が二十年前から経営している純喫茶『きつつき』は常連客で満員御礼。
若い子が入ろうものなら常連の爺さん婆さんに構われておちおち話せない。
なので玉椿に住む若い子は喫茶店には入らない。
もっぱら公園やら川辺やら、そういうところで青春する。
それは二十年経った今も変わらない――。
玉椿町から降って、私鉄の駅がある市内。
そこにある東海圏で名の知られたカフェ。
あの後、コンビニに戻った俺は、廸子に野暮用ができたと言って車を市内に走らせた。美乃利さんのことを知られると厄介なので途中で拾うことにしたのだ。
道すがら、おおよその話は聞かせてもらった。
そして、より詳細を聞くために、こうして適切な場を設けた。
出てきたホットコーヒーに口をつけて美乃利さん。
「いいですねこういうアットホームな喫茶店も。早川邸では、豆は卸問屋から買ったのしか使いませんから、こういう味はなかなか口にできません」
「嫌味ですかよ。すんませんね、こんな店しか入れなくて」
「まぁ、よろしいんじゃなありませんか。今、陽介さんはお仕事されてませんし」
「嫌味ですかよ」
「無職でございますし」
「やめてくださいですかよ」
ほんとこの人昔からこういう感じで容赦なくて嫌い。
顔がいいからって何言っても許されると思ってるんじゃねーぞ。
いや、きっと思ってないけど。
この人、ふざけたことは言うし、ろくでもないけど、やることはやる人だ。的確な判断をして行動する人だ。それこそ、俺は早川家と豊田家の抜き差しならない状況をこの人が機転で救ったのを何度も見ている。
今回についても、早川の奥さんから何が何でも伝えろと言われたと、美乃利さんは言ったが、それが実際のところどのようなトーンだったかは不明だ。
しかし、カルロスくんを巻き込む所から、緊急を要するのは間違いないだろう。
思った通り、すぐに早川家のメイド長の顔つきは鋭いものに変わった。
「まず、一つ。私がここにやって来た目的ですが。千絵さまの現在のお姿を確認するためです。正確に、彼女がどのような容姿なのか、把握しないといけませんでした。それで撮影機材を町に持ち込むことができるテレビ番組の取材の体を装いました」
「……装いましたもなにも、実際にテレビ局動かしてんだろ? ほんとエグイな、早川家。なんなん、そんなに儲かってんの、造船業って?」
「どちらかというと最近は資産運用の方がメインですね。奥様の創設・運営されているファンドの利回りが予想以上によろしいんですの」
おほほと言いながら目は笑っていない。
二つ、と、指を折って美乃利さんは話を続ける。
「現在早川家は次期当主不在、後継者未定という事態に陥っています。どこかの誰かさんが、次期当主の匡嗣さまと駆け落ちしたのが事の発端ですがそれも既に過去の事。むしろ、まだ後継を一人に絞れないことが、最大の問題と言えますね」
「まるで他人事みたいに」
「そういう風に語らないとやっていられないくらい切羽詰まってるんです」
ここについては、もはや語ってもらったことを整理した方が早い。
どこぞの旅館とは違い、後継者には困っていない早川家。
本家の血筋が絶えるということで、後継として名乗り出たのは三人の男児だ。
一人は、現当主であるちぃちゃんのお婆ちゃんの家系から。
都内の外資系企業で役員をやっている四十歳働き盛りの男。
現当主の甥にあたる彼は、今のところ一番の後継者と目されている。ちぃちゃんのお婆ちゃんも、彼ならばと家督を譲るのを承諾した、そんな男だそうな。
しかし、同じような立場の人間が、名乗りを上げて混乱が始まる。
もう一人、今は亡きちぃちゃんのお爺ちゃんの家系から名乗りを上げたのは、早川造船の役員。取締役を務めている彼は、五十歳前後。
もし、先に挙げた甥に家督を譲るのなら、男系血族の自分にもその権利がある。早川造船で一族の家業を支えてきた自分こそふさわしいと俄然主張しだしたのだ。
これに迎合したのが造船の社員たち。
女系親族に家業を乗っ取られてたまるものかという者。
単純にその役員を慕うものまで。
様々な者がその主張を支持した。
こうして二人の対立候補が擁立され、早川家は泥沼のお家騒動を引き起こす。ここ数年間、表立ってこそいないが、様々な派閥工作が繰り広げられていたそうな。
しかし、ここに来て早川造船役員の後継者の方が病に倒れた。
五十を過ぎたこともあり、激務と家督争いが体に堪えたのだろう。
脳溢血を起こして意識不明。
一週間の昏倒の末に半身にマヒが残る状態になったのだ。
これでは、家督を相続したとしても長くはもつまい。
早川造船の者たちも、この出来事にはさすがに観念したらしく、おとなしく当初の後継者を受け入れようかという流れになった。
だが――。
「予想外だったのは、先々代の隠し子の登場か。ほんと、金持ちってのは、下半身がだらしねえ奴らばかりなのな」
「陽介さん、ちょっとレディの前でしてよ」
「あぁ、はいはい。けどまぁなんだ、そいつが出てこなければ、ちぃちゃんに火の粉が飛んでくることはなかったんだろう」
「えぇ。ひささまは、千絵さまについては、千寿さんとのお約束を違えることなく、早川の家に関係なく育っていただくつもりでした。そう、ひささまは――」
話を戻そう。
三人目として名乗りを上げたのは、先代当主の息子を名乗る男。
非嫡子。
ちぃちゃんのおばあちゃんとは別の妾から生まれたと嘯く私生児だ。
つまるところ、正当な本家の血筋を引いている、まっとうな後継者。
この人物の登場に、まとまりかけた早川家は再び混乱することになる。
素性明らかではない彼だが、先代当主の面影を確かに感じる風貌。
また、生前に彼の母あてに残した、先代当主の遺言――非嫡出子ではあるが私生児として認め、必要であれば助力するという念書が早川一族を揺さぶった。
一部の者が再び彼を擁立して、現当主及びその指名後継者に造反。
早川家内で家督相続争いが再燃したのだ。
そして、厄介なことに――。
その、第三の後継者は、関西の暗部とずぶずぶの関係だった。
そう、まるで、この時が来るのを待っていた、あるいは、そうなるように仕向けたように、彼の周りにはろくでもない肩書の人間が取り入っていたのだ。
それが分かるのは、後継者争いが再び形になった後。
もはや、反社会勢力とのつながりを理由に、関係を断つことが難しくなってからのことだから本当に酷い話。
はたして、彼が本当に非嫡子なのかも怪しい。
けれども一度走り出した話を止めるのは難しい。
「ひささまは本件で、万が一にも千絵さまに危害が及ぶことを恐れています。千寿さんとの不干渉の約束を反故にしても千絵さまを守りたいとおっしゃっています」
「……なんでひささんも、もうちょっと素直になれねえのかなぁ」
「仕方ありません。千寿さんもひささまも似すぎなんです。同族嫌悪ですね」
それで今回みたいな事態に連携をとれずにあたふたしてたら世話ないぜ。
とどのつまり。
今、俺たちに具体的に迫っている危機を一言でまとめると、こうだ。
早川家に反社会勢力が乗っ取り工作をしかけてきていて超ヤバイ、もしかしたら直系の血筋であるちぃちゃんに対して危害が加わるかもしれねえから気をつけろ。
頭が痛くなるような話であった。
反社会勢力って。
そりゃ美乃利さんも、久しぶりにこっちに顔を出すよ。
早川家がもめているのは俺も知っていたけれど、まさかここまでとは。
ていうか、姉貴だってもうちょっと情報集めておけよ。
会いたくないからって避けてたらこれほんと大変なことになるぞ。
俺はため息を吐いた。
「……で、具体的には何を気を付ければ?」
「玉椿町に不審者などが現れないか監視してください。村社会はこういう時に便利でしょう。活動に必要な資金は、私たちの方で全面的にバックアップします」
「ちぃちゃんは町のアイドルよ。頼まれなくても不審者なんて近づけないよ」
そうですかと安心したのかあきれたのか微妙な返事をする美乃利さん。
食えない人だと思いつつ、俺もまたコーヒーを啜る。
とはいえ、その筋のプロがやってきたら、この町の人間だけで対処することなどできるのだろうか。
頼りになるのは――。
神原道場の主にしてかつて関西で知られた暴れん坊、神原誠一郎。
峠最速と共に数多くの最強伝説を持つストリートファイター、早川千寿。
熊倒館の女若先生にして暇を持てあました女無頼こと、田辺美香。
ちぃちゃんのお友達のご両親。マタギの日田家。
うん。
「割となんとかなるかも」
「あら、そうなんですか? 私もしばらく逗留しようと思っていたのですが?」
おらが玉椿町はこれで本職も逃げ出すような古臭い田舎。
昭和の村社会を抜け出せない日本のホンジュラス。
はたして、都会文明に慣れた反社会勢力にどうこうできるとは思えない。
流石に冗談だけれど。
けど、たぶん、注意することはできる。
「それと、これ、車の中では言わなかったんですが」
「うん? まだなんかあるの? ちょっとやめてよ、そういう情報の出し惜しみ」
「実嗣さんがどうやら帰国されるらしいです。目的は不明ですが、もしかすると、この騒乱に顔を出すかもしれません」
「実嗣って――」
たしか、その人はちぃちゃんの。
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