第73話

 俺の名前は豊田陽介。

 社会不安的な名状つけられぬ病気を抱えて、一応今の所は適応障害ということでお薬を処方されている32歳である。


 そんな俺は、なんの因果か有馬温泉にくることになり、今、家族風呂というおそらく一生縁がないであろう風呂に入ろうとしている。


 うむ。


「……ちょっと準備してから行くから、先に入っててって言われたけれど、え、これマジで入る流れなの?」


 家族風呂の手前にある更衣室。


 ここで生まれたままの姿になった俺は、うぅんと鏡を睨んで首を捻った。


 鏡の中には、だらしのない体つきをした中年が一人。

 もうちょっとこう、どうにかならなかったのか。


 こういうことになるのなら、もう少し見栄えのいい身体に仕上げてくるべきではなかったのかと思わず自問してしまう。


 このでっぷりと肥ゆった腹を見よ。

 マシュマロボディなんてもんじゃない。

 はんぺんボディだよこりゃってもんである。


 んでまた、ぽっちゃり系と言うにはボリューム不足なのがなんとも。

 需要と供給を考えろ。こういうのを自己満足ボディって言うんだな。


 いや、それよりも。


 廸子と一緒にこれから風呂に入ることの方が重要である。


 家族風呂。

 まさしく家族水入らずとはこのこと。

 入るのは湯の中だけれども、男女の別なく一緒に入れるのは家族連れの旅行者には嬉しいサービスだろう。


 小さいお子さんが居る家族も。

 介助の必要なおじいちゃんおばあちゃんがいる家族も。

 そして、新婚ほやほや、子供もいなければ気兼ねする親もいない家族も。


 家族風呂にはいろんな需要があるけれど、この際、俺たちに当てはまるのはどれだろうか。考えるまでもなく、一番最後の奴ではないのだろうか。

 若い夫婦の、きゃっきゃウフフの睦みごと的な奴ではないだろうか。


 だとして。


 いいのか陽介、本当に、廸子と一緒にお風呂に入ってしまって。

 大丈夫なのか陽介。お前それはもう本当に、ハマコー的な奴になる前段階だぞ。

 このまま流れで、ハマコー的な温泉旅行になだれ込む奴だぞ。


 引き返すならいまぞ。


「とはいえ、廸子がノリノリなんだよなぁ」


 久しぶりだな二人で風呂に入るなんてと、ちっともそういうドキドキ感のない顔で言われてみろよ。そりゃお前拍子が抜けて、あぁ、そうだねって流してしまうのも無理ない話じゃん。


 あれ、もしかして、意識しちゃってるのって俺だけなの――。

 そう思い、これは廸子の言う通り、二人で入った方がいいかと、流されて今ここである。


 流れ流されるのは日本人と男の悪い癖。


 なぜ断らない。

 なぜ断れない。

 そこが駄目だよ日本の男の子。


 ともかく。

 あの廸子がまったく今の状況を恥ずかしがっていない。それが、俺にこの状況を受け入れさせた。断る隙を与えなかった。

 それじゃ入るかということになってしまった。


 そして俺は手ぬぐい一丁であった。

 手ぬぐいを腰に巻いて、一張羅であった。


 くそっ、こんなことなら海水パンツと言わず、せめて予備のパンツくらい持って来るんだった。

 恨むぜ――今朝の俺。


「というか、家族風呂に入るなんて、俺、考えてもいなかったしなぁ。そりゃ、準備もしてこないわな」


 必要以上にドキドキしてみたけど、普通に考えて廸子、バスタオル巻き付けてやってくるよな。準備って、たぶんそれのことだよな。

 流石に、産まれたままの姿で、一緒にお風呂ってそんなサービス回みたいなことはないよな。


 というか、三十越えたヒロインのお風呂回って需要あります。


 俺にはありますけれど。


 あぁ、もう、悶々してもうどうしようもない。

 それで、結構待ってるけど、廸子の奴がちっともやってこない。


 これ、どうしたらええ奴や。

 せっかく全裸待機して、早く入ろうぜ廸子ダンスをかまそうと待機していたのに、全然来ねえ。


 なにやってんだ廸子。おい、廸子。


 ぶるり。


「……もう暦の上じゃ春だってのに、寒いなぁ。もういいか、さき、入っちまおうか。どうせ先に入っていても問題はあるめい」


 廸子を待つのにしびれを切らしたというか、しびれてしまったというか。流石にこの春も終わりの季節に、裸で待っているのもしんどいので、俺は先に風呂に入ってしまうことにした。


 ガラス戸を開けて入れば、そこには木の床に木の敷居。

 そして真ん中に檜風呂という小奇麗な空間が広がっていた。


 前面には、部屋からも見えた有馬の山の光景。

 森林浴。効果が抜群という感じの景色が広がっている。


 流石に鉄分豊富な金泉を流すのは檜風呂では難しいのだろう。

 銀泉がなみなみとまるで酒升のように注がれている露天風呂は、家族風呂の名にふさわしく、五人くらいが入ればいっぱいの大きさだった。


 大浴場と比べれば明らかに見劣りする。

 まぁ、見てないけれども、ちょっと温泉としては解放感が足りないよなぁ。


 大パノラマ。

 せめてもうちょっと視界が開けていれば、満足度もあるのだが。


 とか思いつつ、寒いのでさっさと風呂に入る。

 かけ湯をして、後から来る廸子のために、お湯を汚さないように気をつけつつ、よっこいしょと中へと入る。


 うぅぅと唸ってしまうのはご愛敬。

 俺も、そんな声が自然と出るくらいにはおっさんだった。


 はぁ。

 思った以上にこれ、いい感じだな。

 うん、大パノラマがどうとか言ったけれど、大浴場のごった返した感じを気にせず、自分のペースで入れるのは、それはそれでありだこれ。


「別途料金払わずに入れたのは素直にお得よなぁ。静かに温泉入るっていうのも、なかなかできない経験だよ」


 平日だから、もしかしたら大浴場の方も空いているかもしれないけど。

 いや、まぁ、今はあのヤバそうな人たちがいるから、ちょっと入るのは無理だ。けど、これくらいゆったりと温泉に入れるって、そうそうないよな。


 またため息が漏れる。

 まるで体中の疲れが、息に変わって漏れ出ているようなそんな感覚。

 ニートなんて疲れがないように思われるが、そんなことはない。結構、これで疲れるお仕事なのだ。ニートやるのも楽じゃないんだよ。


 ほんと、楽じゃない。

 こうして幼馴染のリフレッシュ旅行にも付き合わなくちゃいけないしな。


「……仕事してたら、たぶん一緒に旅行なんていけなかったよな」


 どうなるんだろうな。


 たとえば、俺が就労許可が出て、どっかの会社に就職したとして、今みたいに廸子との関係を続けていくことはできるのだろうか。

 時間を見つけて、廸子の下に遊びに行ったり、こうしてどこかに出かけたり。

 はたしてできるのだろうか。


 業種にもよるだろう。

 廸子はこの通り、不定期な仕事をしている。

 退勤時間こそ決まっているが、休みの日はばらばらだ。


 そもそも、男と付き合うのに向いていない仕事をしている。

 そんな彼女と合わせられる仕事となると、俺もコンビニバイトみたいな、シフトである程度出れる時間を決めることができるものになってくる。完全週休二日の職場の方が、逆に合わせづらいかもしれない。なにせ客商売は土日が稼ぎ時だ。


 難しい、よな。


 尚のこと、今、俺たちに与えられた、奇跡のような時間を大切にするべきだ。


 そのためにも――。


「廸子が仕掛けてきた、混浴セクハラにも、無事に耐えきってみせねば」


 俺は決意を新たに、湯船の中で握りこぶしを造ったのだった。


 まぁ、ね。こういうのも、きっといい思い出になりますよ。

 たぶん、ね。


 その時。俺の背中で、がらりという音がした。

 びくりと跳ね上がる肩。背筋に走る電流。途端に澄みわたる周囲の音。湯の流れる音だけが静かに反響している。


 ぎしりぎしりと木の床を鳴らして歩いてきたのは、艶やかな三十路ボディをバスタオルで隠した幼馴染――。


「お背中、お流しいたしましょうか、陽介さま」


「……はい?」


 ではなかった。

 なぜか、家族風呂の中に現れたのは、家族ではない女の子。

 この旅館の女将こと三津谷九十九だった。


 これは、いったい、どういうこと――だ?


◇ ◇ ◇ ◇


「……あれ? おかしーな? 先に陽介が入ってるはずだったんだけど? 誰もいないのなんでだ?」


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