第33話
トイレに響く、女性の声。
まさか隣でクレシェンド玉椿工場のライン長が、Fanza動画を見ているとか。
いや、それはない。
そこは天下のクレシェンド。
社員教育についてはちゃんとやっている。
そう俺は信じたい。
信じてやりたい。
ではいったい、どうしてトイレに女性の声が響いているのか。
というか、この女性の声に聞き覚えがあるのはどうしてか。
いや聞き覚えというか、さっきまで聞いていた気がするのはどうしてか。
「いつまで入ってんだオラァーっ!!」
「きぃやああああっ!! やだぁっ!! なにっ!! 何が起きてるの!!」
「あっはっは!! ようちゃん、迂闊だったなぁ!! まんまとアタシの罠に嵌ってくれて!! 昔から、なんかこう俺はそういうのひっかかりませんから、主人公キャラですからみたいな顔して、ざまぁって目に合うよね、ようちゃん!!」
「えっ、罠!? なに!? 罠!?」
「そうだよ罠だよ!! 残念でした!! 打ち合わせはこのための布石、本当の目的はようちゃん――君の身柄を拘束することなのよ!!」
男子トイレに入って来て、俺の個室のドアを蹴破ったのは、もちろんこの方。
元ヤンにして今も絶賛埒外ヤンキー。
天上天下唯我独尊、地で行くクレシェンド女課長補佐、田辺美香さん。
彼女は、男子トイレ――誰もいないのをいいことに、その真ん中に突っ立ってどや顔をしていた。
うむ。
「いやぁああっ、美香さんのエッチー!!」
「静かちゃんみたいな叫び声上げても無駄だオラァ!! お前のパンツくらい、小中学校の頃に目が腐るほど見たわ!!」
「だからって、中年になっても見なくてもいいでしょ美香さん!!」
「いやーまぁー、どれくらいようちゃんが成長したかなって、ちょっと心配になっちゃった部分もあったりなかったり。ごめんね、ちょっと張り切りすぎちゃった。てへぺろー?」
「くっそ、似合ってねえ」
「うん、〇そっかな?」
ナチュラルに拳ばきばき言わしてくる一部上場企業の本社からの出向課長補佐ってこの世にいったい何人いるんですかね。
というか、こんな埒外ヤンキー娘に、いくら仕事ができるからって役職と権力を与えちゃダメだよ。
ダメよダメダメ。
これ以上出世させたら、ろくなことにならないわよ。
俺は別にクレシェンドの社員でもなんでもないが、可及的速やかに、この目の前のヤンキー女の降格を進言するぜ。
後悔しても遅いからな。
そして、一度調子づかせると、この女はとにかく厄介だからな。
ノンストップだからな。
「ふふっ、ようちゃんてば、お子様パンツね。ブリーフなんて。今どきのイケてるメンズはボクサータイプを穿くものよ」
そしてセクハラもノンストップ。
こんな奴らに鍛えられてたら、俺のセクハラ力も無限大に高まるわ。
すまんな廸子。
育った環境が悪すぎた。
親父の血もあるけれど、周りの影響も悪すぎた。
セクハラのサラブレッドが英才教育を受けたようなもんだぜ。ほんと、セクハラは俺のせいじゃねえ。そういうことにして。おねがい。
「いけてないのでそれはどうでもよかとです」
「いやよ、冗談じゃないの。そんな西郷さんみたいな顔しなくったって」
「男の真価はパンツできまりもさん。心と行動で決まりもす」
「だからなんで西郷さんなのよ」
パンツを見られても、せめて男らしく、西郷らしく、振舞う俺。
いったい、美香さんの狙いがなんなのか。
俺にはさっぱり分からないけれども、こんなトイレに入ったからといってどうということはない。そして、パンツを見られたからって、なんてことはない。
拡散したければ拡散しろ。
俺のパンツに拡散力があるとは思えないからな。
とにかく、この程度のことで何が罠か。
「あっ!! トイレの入り口に、くたびれた女性の姿が!!」
「え? 嘘? 過労で入院している、荒川さんの生霊かしら!!」
「怖い返ししないで!! しかし、隙はできたな!! 甘いぜ、美香さん!!」
急いでズボンを引き上げて、俺は美香さんの横を抜ける。
そして、トイレを飛び出すと、一目散に先ほどの会議スペースに向かって走り出したのだ。
どういうことかは分からないが、美香さんにセクハラされたのは間違いない。
となれば、これでマミミーマート出店を御破算にするネタはできた。
クレシェンド玉椿工場のメンバーは、品位に欠けていて商売ができない。
ぶっちゃけセクハラを受けましたと、そういうことで、ひとつ話をなかったことにしてしまおう。
ひゃっほう、こいつはなんとも幸先のいい出だし。
まずは廸子に連絡。
それから、追って姉貴に連絡。
美香さんの名前を出さなくともこれなら姉貴も分かってくれるだろう。
弟が、いきなりなんの落ち度もないのに、パンツ見られたのである。
わかってくれる。
パンツ見られてでもクレシェンド椿工場で働けなんていう、鬼畜な姉貴じゃないと、俺は信じている。
近づいてくる来客ブース。
さきほど、人が立っていた扉の前にやってくると、俺は入退構カードをかざす。ピピという電子音と共に、俺が扉に手をかけると――。
ガシン、金属と金属がかち合うような音があたりに響いた。
扉は、開かない。
まさかと思って、入退構カードをかざした読み取り機を見れば、赤色のマークが点灯している。
ロックが解除されていない。
どうして。
なんでいったい。
もしかしてこの入退構カード。
あっ――。
「察しが悪いなぁ、ようちゃん。言ったよね、今回の件はようちゃんを呼び出すのが目的だって。呼び出して捕獲するのが目的だって」
「嘘でしょ、これ、まさか」
「どっかのタイミングで、ようちゃんのことだからトイレに立つだろうなってのは想像できた。だから、後はそれを待つだけ。入退構カードを、偽物にすり替えておいて、逃げられないようにしちゃった。てへっ」
そう言って、俺にゆっくりと近づいてくる美香さん。
笑った顔の底に、燻っているのはあきらかな害意。
さて、どうしてやろうかねという、そんな愉悦に満ちている。
気づくと俺はその場に腰をついて尻で後ずさっていた。
やっぱり、この人は、俺と違う。
姉貴には劣るとはいえ、彼女と同じ――人間の理解が及ばない存在だ。
「さぁて、それじゃ。ようちゃんを人質に、久しぶりに千寿と会っちゃおうかな。かれこれ何年ぶりかしら。ほんと、まったく顔を出さないんだから、こっちはたまりにたまった文句やなにやらで、口より先に手が出そうだってのにさ」
「やめようぜ、美香さん。お互い、いい大人なんだからさ」
「いい大人だから会いたくなるんじゃない。大人になって、いったいどちらが格上になったのか。見せつけるのにさ」
あぁ、けど、それよりも。
もっと大切なことが私たちにはあったわね。
そう言って、美香さんはこちらに近づいてくる。
俺のなけなしの一張羅。
少しサイズがきつくなったYシャツを手に欠けると、彼女は笑って一言。
「弟の身柄は預かった。返してほしければ勝負しろ。うぅん、最高に悪役だわ」
「ちょっ、美香さん!! タンマタンマ!! これ、ほんと、ヤバい奴!!」
「ぴぴるぴるぴる、男の子のエッチな漫画に出てくる酷い格好になっちゃえ!!」
いっ、いやぁああああっ!!
そんなエロ漫画みたいな絶叫と共に、俺はひん剥かれた。
美香さんに、エロ漫画みたいにひん剥かれた。
このまま俺の童貞が奪われてしまうのか。
姉の親友に、ゆきずりで大切な童貞を奪われてしまうのか。
アラフォーにアラサーの童貞がうんたらかんたら。
そんなのに本当に需要があるのか。
そんな俺の膨らんだ妄想は――。
「うへっ、ちょっと、ようちゃんそれは毛深過ぎよ。ちょっとはグルーミングとかしてお手入れしなさい。ゲロゲロ」
「ひどい!! こんなあられもない姿にしておいて、美香さんってば酷い!! アタイ、もう、お婿さんに行けない!!」
「大丈夫だよ。元からいけないから」
「ほんとうに酷い!!」
見事に否定されて、現在へと至るのであった。
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