第32話

「はいはいようこそいらっしゃいましたー。クレシェンド玉椿工場へようこそ、マミミーマート玉椿店のみなさん。私がここの生産企画開発室課長補佐。本件の責任者のチャン美香こと、皆さんの田辺美香さんなのだ」


「……まじで課長補佐だったんですか、美香さん」


「どういうことかな廸ちゃん? 先輩の言葉が信じられなかったってこと? それって体育会系的にダメな奴だぞ? テニス部根性スマッシュするか?」


「いやだって!! 美香さんならそれくらいなりそうだなとは思いましたけど、ゴリゴリの体育会系の会社じゃないですかクレシェンドって!! なんで――その、乙女な美香さんに本当に務まるのかなって!! すんません!!」


「よし許す!! 寛大な乙女心で許してやる!! 流石廸ちゃん、女の喜ばせ方がわかってる!!」


 このぉー、愛い奴、愛い奴と、廸子に身体をこすり付ける美香さん。


 なんだかんだで廸子は先輩に可愛がられるんだよな。

 天然妹分なんだよなぁ。


 素で、他人を上げるのが巧いんだよ。

 ほんと。


 そんでまた本人にそういう自覚がないっていうところもすごいのよ。

 輪をかけていい感じに周りの目によく映るのよ。


 美香さんも、ババアも、なんだかんだで困ってる廸子を助けるのは、そういうことなんだよなぁ。


 対して、俺の扱いの雑なこと。

 子供時代から、ろくな扱いを受けたことがねえ。

 ほんと、この姉と姉の友人の二人には、トラウマしか思い出がありませんよ。


 そして、そんな俺のトラウマメーカーは、可愛い後輩から頬を離すと、こちらに視線を向けて来たのだった。


 脂汗がぶわりと噴き出すような、そんな顔と共に。


「そして、来たねようちゃん。やっぱり、クレシェンドの店長にするなら、弟だよねぇ。働いていないし、いざという時にはツーカーで使えるし、一挙両得。そう来ると思ってたよ」


「やっぱ知ってたんですか美香さん、姉貴のこと」


「もちろん!!」


 クレシェンド玉椿工場。

 来客用会議ブース。


 ここに部下と思しき女子社員と共に姿を現した、今回のマミミーマート工場内出店案件の責任者は、俺が予想した通りの人物だった。


 姉の友人にして、もう一人の姉――と言ってもいい人。

 小さい頃からいろんな意味でかわいがられた相手。

 逆立ちしても敵わない女先輩。


「ささっ、まずは二人ともかけてかけて。今日はお客さんなんだから。これから弊社との取引、どうぞよろしくお願いいたしますってね」


 田辺美香さんである。


「……本気なんすか?」


「本気、本気。本気じゃなかったら、居酒屋で飲み話にしてるっての。あ、名刺交換しておく? いやー、小さい頃から知ってるようちゃん相手だと気恥ずかしいなぁ。あははは」


 微塵もおもっていないくせに。

 ただまぁそこも含めて実に美香さんらしい。

 あと、俺がまだマミミーマートの店員はおろか、今回の件について無理やり連れだされたことも知っているだろうに、そういうことを言う。


 本当に食えない人である。

 そして、そんな感情を顔に出せばすぐさま――。


「んー、どうしたー? なにかごふまんかなー?」


 これである。


 有無を言わさぬマウントゴリラぶりは、ババアとそんなに変わらない。


 流石、親友にして宿敵。

 争いは同レベルの者の間でしか起こらないとはよくいったもんだが、こっちの姉も俺の天敵に間違いないんだな。


 廸子が青い顔して黙り込むこの迫力。

 隣の部下さんも、明らかにドン引きしていた。


 たぶんこんな感じのパワハラを何度か繰り返してきたのだろう。

 ご愁傷様、クレシェンド玉椿工場勤務の社員さんたち。


 強く出られては仕方がない。

 そして、俺が見ているというのにこの調子だ。

 妹気質の廸子では、とても話などまとまらないだろう。


 本件、穏便に事をすませるには、マミミーマートの社員じゃないが、俺が出るしか仕方がない。しぶしぶではあるが、今回の会議に出ることを承諾したのは、もはや抜き差しならないこの状況を察してだった。


 そして、それは、美香さんももちろん承知の上。


「なんてね。ここでようちゃんが話をご破談にしちゃえば、千寿にまで話はいかなくなるものね。そりゃ気合入っちゃうかー。しかたないかー」


「そりゃもうね。美香さんと姉貴、顔を合わさせたらどうなるか、こっちはこれでも嫌というほど経験してきていますので」


「ひどいなー。小さい頃あんなに遊んであげたのにそんなこと言うなんて。知ってるようちゃん、そういうの恩を仇で返すって言うんだぞ?」


「おもちゃにしてたの間違いでしょうよ。今も、昔も」


 おいと俺に声をかける廸子。

 中学時代のテニス部で、指導と称してしごきにやってきていた美香さんと接している彼女である。それでなくても、体育会系の序列の厳しさは、社会経験を経て骨身に染みていることだろう。


 俺の口答えに廸子が慌てるのは当然の反応だ。


 しかし、ここで俺が言い返さなければ、誰が言い返せるというのだろう。


 このパワハラ姉貴に。


「言っておきますけどね、どれだけ好条件を出されても、どんな口説き文句を使われても、俺の答えは決まってますよ。ノーです。マミミーマートは、クレシェンド玉椿工場には出店しません。理由は明白、そんな余裕がうちにはない」


「そこんところはこっちも考慮する、サポートするって言っといたじゃん。もう、幼馴染をもうちょっと信頼しなよ」


「世の中には信頼できる幼馴染と、信頼できねえ幼馴染がいるんですよ」


 美香さんは後者。


 やんわりと、そのニュアンスが伝わったのだろう、美香さんの顔色が変わる。

 ふぅん、そう、と、呟いてコーヒーを啜る。


 昔だったら、そこからノーモーションで、カップの中身を顔面に浴びせかけて来た美香さん。けれど、そこは十年という月日がある。

 大人になった、かつての傍若無人の女帝は、静かにそれを飲み干す。


「まっ、そこはお互い納得いく条件が揃うまで、今日はゆっくりやりましょうよ」


「ゆっくりねぇ」


「お仕事してないから、時間はたっぷりあるんでしょう、ようちゃん? あ、お薬飲むなら、悪いけれどトイレでお願いできるかしら。トイレは、そこの通路を向かって右手側ね。入退構カードが居るから、なくさないように気をつけて」


 俺のことまで調査済みかよ。

 ほんと、どこまでも、抜け目のない人。

 

 しかし、俺だって、これまでの人生でいろいろと苦い経験はしてきた。

 こうして就労不能の状態にこそなってはいるが、修羅場は経験しているし、その乗り越え方だって心得ている。


 不安そうに俺を見る廸子。

 そんな幼馴染に、任せろと俺は背中で語る。


 語りながら。


「じゃぁまぁ、お言葉に甘えて、ちょっとトイレに行かせてもらおうかな」


 俺は、メンタルリセットとばかりに、ミーティングテーブルから腰を上げると、先ほど美香さんに教えて貰ったトイレの方へと向かった。

 ちょうどいい感じにドアの前に居た社員さんに扉を開けて貰って通路に入る。

 そしてそのまま、突き当りに右手にあるトイレ――その個室に入った。


 おもむろにズボンを脱ぐ。

 だが、尻を丸出しにして便器に座り込んだりはしない。

 俺はそのまま、そう、パンツをはいたまま、人差し指を自分の縮みあがったなにがある部分に向けるのだった。


「指さし確認ヨシ!!」


 おもらししてない。


 やったね、ようくん。


 えらいぞ。


 みかねえのぷれっしゃーによくたえたぼうこうくん。


 ちぢみながらもよくたえたぞかいめんたいくん。


 ぼくたちりっぱなおとこのこ。


 ひゃーっ、美香さん不意打ちでオラついてくるのほんとやめて。

 廸子の前だからさ、用心棒としてついてきた手前だからさ、俺も格好つけてみたけれど、やっぱ怖いよアンタのメンチ。


 というか、ヤンキーやめて堅気になったんじゃなかったんかい。


「はぁーもう、これ、無事に家に帰れるのかしら」


「さぁ、それはようちゃんの心がけ次第じゃないかしらね」


 !?


 その時、男しか入れない、男の園に、なぜか、女の声が木霊した。


 それも、よく聞いた。

 そして、条件反射的に悪寒が発生する。

 嫌いな感じの猫なで声が――。


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