旅立ち
退院後のアレットの容体が安定していることを見届けたヴァレルは一人旅立つことにした。出立は簡素なものだった。仕事に赴くのだから荷物も最小限で済む。商会の人間は先に現地へ遣ったので秘書と二人きりである。
ヴァレルは鉱山へ向かうにあたりアレットを実家へ預けることにした。
チェルスト地区のヴァレルの屋敷に女主人一人留めておくより母の元に置いておいた方が安心だと思ったのだ。ヴァレルが考えるよりもアレットの心は不安定だったからだ。でなければ避妊薬になど頼るはずもない。
ヴァレルはアレットが入院している最中、薬の出所を調べ上げた。避妊薬自体は女性たちの間で広く流通しているものだ。中身の差はどうあれ、身分にかかわらず服用している女性は一定数存在する。ヴァレルも一応実業家として立ち振る舞っている関係上、調べ物を得意とする人間には心当たりがあった。その者に調べさせたところ上流階級の婦人を中心に避妊薬を融通する女性がいることを突き止め、ヴァレルはその女に会いに行った。
ヘオンツーク夫人はヴァレルに対してあっさりとアレットへの譲渡を認めた。彼女は目を見張るヴァレルに対して「可哀そうなアレット」とはっきりと言った。ヴァレルは何も言い返すことができなかった。代理人を通して薬を融通してほしいと言ったアレットのために、彼女と同じように苦しむ婦人のために自分はよいことをしているのだとソイリャ・ヘオンツークは哂っていた。彼女はヴァレルのような野蛮な血の人間を憎んでいた。彼女もまた、西大陸から成金に金で買われた花嫁だった。まだあのときの彼女の哂った声が頭の奥で鳴りやまない。
ああそうか。金で買われた女たちの恨みの声なのか。
アレットも彼女たちと同じ。ヴァレルのことを許すはずもないのだ。
アルメートにいること自体がアレットにとって毒になるというのなら、いずれは彼女を故郷に返すことも考えなければならない。
ヴァレルは自嘲の笑みを浮かべた。
彼女を手元に置いておきたいと考えた結果がこれだ。
最後までアレットを詰ってしまった。自分の罪なのに、それをどうしても認めたくなくて病み上がりの彼女にきつく当たってしまった。本当に自分はどうしようもない人間だと思った。彼女の方が辛い思いをしているのに。自分の心を守ることを考えて、ヴァレルはいつもアレットに辛く当たってしまう。本当はもっと違う言葉をかけたかった。体の具合はもういいのか、歩いて平気なのか、辛くは無いのか。
(俺は本当に、しょうもない馬鹿だな……。愛する女性一人幸せにできない)
しばらく距離を空けよう。幸いアレットはシレイユとは気が合うようだし、夫に気兼ねなく自由に過ごせば多少は気もまぎれるだろう。
そうして、ゆくゆくはアレットを解放してやることも考えなければならないのに、彼女の人生からヴァレルの存在が消えてしまうと考えるだけで胸が張り裂けるように苦しくなる。彼女を手放したくないと叫ぶ己がいるのだ。胸の奥底に。
「ヴァレル様、そろそろ汽車のお時間です」
待合室でぼんやりと物思いに耽っていると、秘書が声を掛けてきた。
ヴァレルは懐中時計を懐から取り出した。ずいぶんと考え事に耽っていたようだ。これからしばらくは事業に邁進していこう。
仕事に没頭すればアレットのことを考えずに済むからだ。
乗降場へ向かう人の波と共に進んでいると、甲高い声が耳に届いた。
ヴァレル、と呼ぶ声がすぐ隣へとやってくる。
「ヴァレルったら。さっきから何度も呼んでいるのに」
「フィアンメータ」
どうしてここが、と訝しる視線を投げると彼女はひょいと肩をすくめた。それから彼女はヴァレルの秘書に視線を遣る。ヴァレルは嘆息した。仕方なしに先に行けと合図を送ると秘書はヴァレルに小さく礼をして歩いて汽車に乗った。
「それで何か用?」
「やん。釣れない人ね。奥様と揉めたんでしょう」
フィアンメータがヴァレルの腕に自分のそれを絡めてこようとしたため、強い意志をもって拒絶した。彼女は小さく目を見張り、しかしすぐにその表情事態を無かったことにして蠱惑的な笑みを浮かべた。
「私の言った通り。あなたの奥さん、あなたの子供が欲しくないんですって。気位の高いお姫様を貰うと苦労するわよ」
「何が言いたい」
「あらあ。わかっているくせに。一人でお仕事に行くだなんてつまらないわ。わたしもちょうど公演があと少しで終わるの。せっかくだもの、あなたのお仕事先についていってあげてよ。今すぐには無理だけれど、公演が終わったらすぐにでも飛んで行ってあげるわ」
フィアンメータは一等切符の手配をお願いしたいの、と猫撫で声を出した。
ヴァレルは面白くなかった。
この女の忠告など嘘に決まっていると思っていたのに。どうせ自分が相手にしないから腹いせに適当なことを言って夫婦仲を引っ掻き回しているだけだと思っていたのに。
倒れたアレットの所持品から本当に避妊薬が出てきたのだから。
「ねえ、あんなお飾りの奥さんなんか適当な保養地にでもやってしまって。こっちはこっちで仲良くやりましょうよ。社交のお手伝いならわたしのほうが得意だわ。わたしは有名人だもの。あなたの経歴にも箔が付くと思うの。離婚が今すぐに無理だというのなら、そうねえ、二、三年くらいなら待ってあげてもいいのよ」
ヴァレルは不愉快になった。甘えるような声に吐き気がする。自分が今一番聞きたいのは彼女の甘ったれた媚びる声ではない。鈴のように可憐で可愛らしい、控えめだけれど溌溂とした声。アレットの声なのだ。
「やめろ」
なおもヴァレルに引っ付こうとするフィアンメータを離して、それから見下ろした。アレットの言葉に傷ついてフラデニアから帰国をしてから、この女と関係を持った。何でもいいから自分のちっぽけな誇りを守りきるために当時人気だった歌姫に声を掛けて彼女と恋人ごっこを楽しんだ。自分はダガスランドの人気歌手も虜にするようなそれくらいの男なのだと自尊心を取り戻したのだ。彼女も同じだった。フィアンメータもヴァレル自身を見ているのではない。彼女もヴァレルを通して虚栄心を満たしているに過ぎない。
俺たちは似た者同士だったな、とヴァレルはフィアンメータを眺める。結局互いに相手の肩書しか見ていなかった。あの頃はそれでよかった。
「俺はきみを呼ぶつもりも無いし、離婚をしても再婚を考えるつもりもないよ」
ヴァレルは低い声を出した。
フィアンメータは片眉を持ち上げた。信じられない、と顔が物語っている。
「どうして!」
ヴァレルは薄く笑みを浮かべた。この女にこの言葉を言ったらどういう反応をするのだろうか。陳腐だと笑うだろうか。別に構わない。
しかし、結局のところヴァレルを突き動かすのはアレットへの強い執着心、すなわち彼女への愛だけだ。
「俺はアレットを愛しているんだ。箔付けだとかお飾りとか、そういうのは名目だよ。世間はそういう話が大好きだろう?」
「嘘よ。信じないわ」
「アレットにも言っていないからね。俺を追いかけても無駄だよ。俺はあの、金色のお姫様に出会ったときからずっと彼女に囚われているんだ」
別の女に縋っても空しいだけだ。アレットの体を知ってしまった自分はきっともう身代わりですら抱くことはできない。いや、同じ寝台で眠ることすらできない。自尊心を取り繕ってもアレットの心が手に入らないのでは意味が無い。
ヴァレルはじゃあね、と最後に笑みを浮かべてフィアンメータを置いて汽車へ乗り込んだ。彼女は何か叫んでいたけれどヴァレルの耳はもう彼女の言葉を拾うことは無かった。
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