意外な事実
「ねえ、アレット。体の具合はもういいの?」
シレイユが尋ねてきたためアレットは「ええ。もちろん」と返した。
「でも入院するほどのひどい風邪だったのでしょう」
アレットの入院の件は風邪だということになっている。
現在アレットは高台の高級住宅地、義母の住む屋敷へ居を移しているのである。これまでの屋敷よりも敷地が広く、あてがわれた部屋からは海も見える。
ヴァレルが一人、所有する鉱山への視察に行ってしまったため急きょヴァレルの実家に預けられたのだ。
「ええと、まあ。盛大にお腹を下したというか。熱はあんまりなかったんだけど」
「ええ、そうなの? もしかして……わたしと一緒に行った市場が原因?」
アレットの答えを聞いたシレイユが恐る恐る切り出した。
「まあ、シレイユ。あなたアレットを一体どこに連れて行ったの」
口を挟んだのはエルヴィレアだ。シレイユは母親の追及の言葉に目線を若干泳がせながら「えっと、魚市場で生ガキを一緒に……」と答えた。
「シレイユ! あなた、フラデニアの深窓のお嬢さんを市場の屋台に連れていくだなんて! それじゃあお腹がびっくりするのも当然でしょうっ」
「だぁってぇ……」
シレイユは弱り切った声を出す。
「風邪で寝込んだって聞いてもしかして、とは思っていたんだけど……。アレットごめんなさいっ!」
シレイユはがばりとその場で体を折り曲げた。
「あー、おかあちゃま、あたまさげてるー」
「さげてるー」
絶妙のタイミングでおもちゃ部屋から抜け出してきたエルザとシレナが母親を見て指さす。とことこ駆けてきてテーブルの上のお菓子に目を輝かせてマカロンをわしっと手づかみした。
「ほらほら、二人とも。お菓子はさっき乳母のマリアから貰ったでしょう」
祖母らしくエルヴィレアが孫娘二人を宥める。
「えぇ~足りないもん」
「もん」
「はいはい。じゃあそのマカロン一つだけよ。あんまり食べるとお夕飯が食べられなくなりますからね」
エルヴィレアがエルザとシレナを宥める。マカロンを食べさせてもらった二人はご機嫌になっておもちゃ部屋へと戻っていった。乳母と一緒に別室で遊んでいるのだ。
ぱたんと扉が閉まったところでエルヴィレアが居住まいを正す。
「ごめんなさい、アレット。あなたにもダガスランドのいいところを知ってもらおうと思って。わたしったらついはしゃぎすぎてしまったみたい」
シレイユは目に見えてしゅんとしていた。
「本当ですよ、シレイユ。生ガキを食べさせたいのならもっとお上品なレストランに連れて行きなさい」
「はい」
「で、でも楽しかったわ。ほんとうに。だって、ダガスランドの一員になれたって気がしたもの」
「ありがとう、アレット」
アレットはそれから本当に生ガキが駄目だったのか二人に確認をした。二人によると健康な人間でも運が悪ければ腹を下すという。アレットを見立てた医者によればアレットの今回の腹痛の原因は避妊薬を飲んで事に寄る中毒症状とのことだが、たしかにアレットは押し付けられた薬に手を付けていない。どうしてそんな話になったのかというと心当たりを思い浮かばなかったソレーヌがアレットの部屋の机の置きっぱなしになっていた小瓶を見つけたからだ。ソレーヌの目の届かなかったもの、それすなわち不審物ということになり医者に提出をしたのだ。
アレットとしてはとりあえず原因がわかってホッとした。
フラデニアの首都ルーヴェではカキを生で食す習慣は無くて、まさか貝類に当たったとは思いつきもしなかった。
「アレット、魚市場の屋台でご飯を食べなくてもあなたはもう立派にダガスランドの一員ですからね」
エルヴィレアが優しい声を出した。
「はい」
「それからシレイユはヴァレルに手紙を書いておくこと。ちゃんと彼にも知らせておかないと」
「えぇぇ~」
「ええ、じゃありません。ヴァレルの妻なのよ、アレットは。それを無断で魚市場に連れて言った挙句に―」
「わかりました。書きます。書きますったら、手紙!」
最後母の雷が落ちそうになったシレイユはやけくそ気味に叫んだ。
自分の体調不良の原因が分かったことは朗報だった。それが色々な不幸が重なって避妊薬の中毒になったというのは、なんていうか医者に文句を言ってやりたい気もするが。そもそもどうしてソイリャ・ヘオンツークはアレットにあんな薬を押し付けたのだろう。あれさえなければヴァレルが誤解することも無かったのに。
「あの」
「どうしたの?」
「ええと、ソイリャ・ヘオンツーク夫人とお知り合いだったりしますか?」
アレットの突然の言葉に親子は顔を見合わせた。
「ヘオンツーク夫人ね……。わたしはあんまりね。年も離れていますからね」
エルヴィレアが言うと今度はシレイユが「んんー、あの人って生粋のダガスランド育ちのわたしたちとはあんまり仲良くしたがらないっていうか。馬が合わないのよね」とからりと笑った。
「そ、そうですか……」
「そのヘオンツーク夫人がどうしたの?」
「このまえ、彼女から……いえ、彼女のだと思うんですけど、落とし物を拾ったので返したいなあと」
「そういうことね。だったら彼女の集まりそうな場所聞いておいてあげるわ」
シレイユがにこりと笑って請け負ってくれた。
その後シレイユは娘二人と帰ってしまい、アレットは居間の大きな窓の近くに佇んでいた。
丘の上に立つ屋敷からは海は見えるが列車の線路は見えない。
今日、ヴァレルはダガスランドから去ってしまう。列車はもう出てしまっただろうか。彼とは結局何も話せていない。誤解したままヴァレルは去ってしまう。アレットはあのとき何も言い訳ができなかった。いつもなら言い返すのに、あの時のヴァレルはこちらを詰っているのに、自分自身を痛めつけているかのように傷ついた顔をしていた。
あの顔を前に何も言えなくなってしまったのだ。あのとき、あなたのことが好きだと伝えてもきっと信じてはもらえなかった。彼はアレットの言葉を全て否定する。
ではどうすればいいの、とアレットは悲しみに顔を伏せた。
「寂しくなるわね。アレット」
いつの間にかエルヴィレアがアレットの後ろに立っていた。
「あの……、そう、ですね」
「鉱山の視察はわたしも夫について何度か行ったことがあるけれど、ダガスランドとは勝手も違うしあなたにはまだ早いと思ったのかもしれないわね」
エルヴィレアは置いていかれたアレットを慰めてくれている。
アレットは素直に頷くことができなかった。彼がアレットを置いていったのは、おそらく彼が自分に失望したからだ。アレットは自分の言葉を伝えることをあきらめてしまった。
「ヴァレルのことだもの、ちゃんと手紙をくれるわ。あなたのこともよくよく頼みましたよ、なんてヴァレルから念を押されているくらいなのよ。朝食の好みとか色々と。もう、本当にヴァレルったらアレットのことが大好きなのね」
エルヴィレアはひとしきりアレットを励ました後部屋から出て行った。
アレットは視線を窓の外にやったまま悲し気に唇を持ち上げた。エルヴィレアの言葉はたぶん本当のことだけれど、きっとヴァレルが母に伝えた言葉は嘘にまみれたもの。
手紙をくれるのも周囲に対して、新婚の仲睦まじい様子をアピールするため。
朝食の好みだってソレーヌに尋ねればすぐにわかること。
外から見える夫婦仲は良好だろうが、中を覗いてみればすぐに偽物だとばれてしまうくらいに自分たちの関係は薄っぺらくて笑えてきた。
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