糾弾

 屋敷へと戻ったヴァレルは半信半疑ながらアレットの部屋に入った。

 妻はすでに寝台の中に入っていた。

 暗い部屋の中、アレットに断りもなく探し物をするのは気が引けたがフィアンメータの言葉が頭の隅にこびりついていた。やましいことをしているという自覚があるため燭台を持っておらず窓からの月明かりが頼りだった。


 曇り空で部屋の中はほぼ闇の中。そんななか闇雲に探し物をするなど最初からできるはずもなく、ヴァレルは椅子か何かに足をぶつけて、早々に降参することにした。

 酔ってあんな女の言うことを信じる方がばかげている。

 ヴァレルは自分もさっさと寝ようと寝台の中に潜り込んだ。


 翌朝、いつもの時間に目覚めて支度を整え仕事に向かったときである。

 屋敷から緊急の知らせが届いた。ベンジャミンからの伝言だ。急にアレットがお腹を押さえて苦しみだしたらしい。ヴァレルは慌てて立ち上がった。勢いをつけすぎて座っていた椅子が後ろにひっくり返ったがそんなこと気にする暇も無かった。


 アレットが倒れたのだ。

 ヴァレルは取るものも取らずに馬車に飛び乗りチェルスト地区の屋敷へと急がせた。医者を呼んだのかとか何が原因だとか頭の中をいくつもの疑問がぐるぐると回る。今朝一緒に朝食を取ったが特に普段と変わりはなかった。


 いや、今朝きちんと彼女の顔を見ただろうか。近頃アレットの顔が沈んでいたことは知っている。ヴァレルの行いに腹を立てていて己の境遇を悲しんでいるのと思い、まともに目を合わせていなかった。一緒に生活を始めた頃は屋敷の中でも彼女は笑顔を作ってくれていた。それが使用人たちを心配させないためなのか彼女なりの処世術なのかは分からないが、偽物の笑顔でもヴァレルの心を和ませていたのは事実だった。彼女の笑顔は太陽のようにヴァレルの心を照らしてくれていたからだ。近頃はそれすらなくどこか思い詰めた顔をしていた。ヴァレルは自分がその原因の一端を担っていることを十分に理解していて、だからこそ余計にアレットの辛そうな顔を見るのを厭った。

 馬車を大急ぎで走らせたどり着いた我が家に駆け込んだ。


「ベンジャミン! アレットの容体は?」

 扉を開けるのももどかしかった。玄関ホールに入るなり大声を出したヴァレルの前に大慌てで執事が姿を現した。

「奥様は病院へ運ばれました。いまはソレーヌが付き添っております」

「どこの病院だ」

 ベンジャミンから聞いた病院に行くようヴァレルは御者に命じ馬車に舞い戻った。


 屋敷からそこまで遠くない病院へとたどり着き、アレットの夫だと名乗ると医者の部屋に通された。医者の見立てでは数日の入院が必要とのことだ。現在もまだ腹痛が継続していると説明を受けた。

 初老の医者はヴァレルの前に小瓶を掲げた。


「奥様の部屋から発見されました。中身が少し減っておりますな。おそらくはこちらの薬による中毒症状でしょう。侍女が気が付いて持ってきてくれたんですよ。まったく、近頃の女性というものは安易にこのような薬に手を出しますから―」


 医者はヴァレル相手に診断結果と小言を得々と言って聞かせたが、あいにくと後半はちっとも頭に入ってこなかった。

 ヴァレルの視線の先には液体の入った小さな瓶。

 これをアレットが使った。本当に? いや、だからこそ彼女は中毒症状を起こした。


「では。私はこれで。とにかく今は体を休ませることですな」


 ヴァレルはその後しばらく椅子に座ったまま動くことができなかった。時間が経ちヴァレルはよろよろと立ち上がった。アレットの顔を見たかったが、今会ってしまえば激情に任せて彼女を余計に苦しめてしまいそうだった。現在体を苦しませているのはアレットの方だ。まずは彼女の体が最優先だ。


 ヴァレルは覇気のない声で「商会まで運んでくれ」と伝えて馬車に乗った。屋敷に帰っても駄目だと思った。仕事を持っていてよかった。でないと自暴自棄になって酒にでもおぼれてしまいそうだ。


 ヴァレルは信じられなかった。しかし医者の見立てと実際に中身の減った瓶を見せられてしまっては反論のしようも無かった。

 元よりアレットはヴァレルのことなど、所詮は労働者階級出の高貴な血筋でもなんでもない男だと蔑んでいるのだ。

 これは報いだと思った。アレットの意思などお構いなしに自分のものにしてしまったヴァレルに対して。


◇◆◇


 アレットは腹痛に苦しんだ。それはもう前代未聞の出来事だった。派手にお腹を下したので入院できたことが救いだった。こういう苦しみをしているところを最愛の夫には見られたくはない。夫婦とはいえ、アレットはまだ初々しい十八の乙女なのだ。腹を下して苦しむ姿を好きな人に見せたくはない。


 とにかく、悪夢のような日々が過ぎ去りアレットに退院の許可が下りた。

 医者は退院の際「これに懲りて金輪際あのような薬を飲もうなどと思わぬことだ」と強い口調で言ってきた。アレットは首をかしげるばかりだった。なんのことだかさっぱり分からない。健康優良児のアレットは薬を常用していないのに。


 アレットは意気揚々と屋敷へ帰った。

 腹を下したのは最悪だったけれど今朝鏡を覗いたら頬のあたりがすっきりとしていた。お嫁に来てから少し太り気味だったからこれはこれでよかったのかもしれないと前向きに考えることにしたのだ。とはいえさすがにもうこりごりだけれど。


「おかえりなさいませ、奥様。旦那様がお待ちです」

「ベンジャミンにも心配をかけたわね」

「いえいえ。無事にお元気になられたようでよかったですよ」

「ありがとう」


 アレットはにこりと微笑んでヴァレルの元へ向かうことにした。

 今現在夫婦の仲には亀裂が入り微妙なことこの上ないけれど、それでも大好きなヴァレルの顔を数日ぶりに見れるのだから嬉しい。


 アレットが扉を叩くと中から「どうぞ」という声が聞こえた。

 アレットはゆっくりと扉を開いた。

 中では夫が椅子に腰を掛けていた。


「元気になって何よりだ」

「え、ええ」


 アレットはかろうじて笑みを浮かべたが内心訝しがる。ヴァレルの声が固かったからだ。こちらを見据える夫の視線に奇妙なものを感じる。

 もしかしなくても、夫は怒っている? とアレットは小さく首をずらした。


「きみは、自分の健康を害してまでも俺の子供を産むことが嫌だった?」

 冷笑だった。いつもの皮肉にしてはエッジが利きすぎている。

「ど、どういう意味?」

「この期に及んでまだしらばっくれるのかな? それとも寄宿学校では意に染まぬ結婚をした淑女は夫に内緒で避妊薬を飲めとでも教わった?」

「な、なにを言っているのよ!」


 突然に何を言い出すのだ。アレットは叫んだ。

 ヴァレルはポケットの中から小瓶を取り出した。


「それ」

 アレットがいつぞやの時に押し付けられた小瓶だ。

「医者の見立てではこの薬を飲んだ中毒症状とのことだよ。避妊薬は劇薬だって知っていた? 強いものを耐性の無い人間が飲むとまれに中毒を起こす。俺の子供を宿すくらいなら自分の危険も顧みないって、そういうつもり?」

「なっ」

「嫌われているとは思っていたけれどここまでだとは思わなかった。いや、そうだよね。結婚をしたことをいいことに俺はきみを蹂躙した。毎晩閨で俺の相手をするのはさぞ苦痛だっただろうね」


 ヴァレルの舌鋒がアレットの体に突き刺さる。

 アレットは顔と体を硬直させたままその場から動くことができない。

 違う。そんな薬知らないし使ったことも無い。あれは見知らぬ女が一方的にアレットに押し付けたもの。あなたとの子供ならいくらでも欲しいに決まっている。

 真実を伝えないといけないのに、口が凝り固まって動いてくれない。

 アレットは夫からの糾弾を黙って受けたまま。その様子を見るヴァレルが自虐的な笑みを浮かべる。


「きみの意思を無視して妻に迎えたのは俺だ。最初からわかっていたよ、きみが俺のことなんて歯牙にもかけていないことも、俺に興味を持っていないことも。まさか、ここまで恨まれているとは思わなかった。いや、当然か。きみはお金で買われたのだから」

「ちがっ―」

「口先だけの言葉は聞きたくない!」


 ヴァレルは叫んだ。大きな声でアレットは思わず身をすくませた。彼がこんなにも感情に任せて叫ぶところなんて初めて見た。


「ごめん」


 ヴァレルはハッとしてそれからアレットを見ることもしないで部屋から出て行ってしまった。


 一方的に詰ってきたのはヴァレルの方なのに、すれ違ったヴァレルの横顔はひどく苦し気に歪んでいて、それから涙を流すのを我慢するような顔をしていた。

 アレットは何が何だか訳が分からないのに、これだけは分かった。

 ヴァレルは一人で傷つき、苦しんでいる。アレットに辛く当たってしまうくらいには。

 部屋に取り残されたアレットは呆然と立ちすくんだままだった。

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