すれ違う心
アレットは何度目か時計に視線を合わせた。
今日は遅くなるとヴァレルの従僕がベンジャミンに言付けをして、アレットがそのことを聞かされたのは夕食の時だった。
いくら社交期とはいえ夜な夜な家を留守にするというわけではない。
アレットは一人きりで夕食を終えて暇つぶしに本をめくった。
シレイユたちにお勧めされたアルメートで出版された小説だ。恋愛小説という気分ではなくて、アレットは探偵小説をぱらぱらとめくる。
それでもどこか上の空なのは新聞の記事のせいだろうか。
ゴシップ紙を買ってしまったのはもうすこしダガスランドの世事に詳しくなろうと思ってのこと。こちらに移住をして日が浅いため話題についていけないことが多々あって、そういうとき誰かが丁寧に教えてくれるのだが話の腰を折ってしまっている感は否めない。それなのに目に飛び込んできた見出しがヴァレル・カイゼルという名前で思わず新聞をぐしゃりと握りしめた。暖炉に火が入っていたら燃料にしてやるところだった。
「アレット様。そろそろお休みの準備をなさいますか」
ソレーヌの言葉にもう一度時計の針を確認する。
夫はまだ帰ってこない。
今日の用事は仕事関係だろうか。それとも友人とクラブで食事?
それとも……と、考えてアレットは首を横に振った。余計なことは考えたら駄目だ。
「そうね」
気を紛らわすために立ち上がる。
今日は念入りに夜のお手入れをしてみよう。肌が白いことをみんなが褒めてくれるからアレットも近頃は日焼けをしないように淑女らしく気を付けているのだ。
化粧部屋で顔のパックをして髪の毛を梳いてもらっているとヴァレルが帰宅をした。
アレットは急にそわそわする。
ヴァレルの妻は自分で、彼の家はこの屋敷。
支度を整えて寝室へ入る。ほんの少し遅れてヴァレルが扉を開いた。
「おかえりなさい、ヴァレル」
アレットはつとめて朗らかに話しかけた。
「……ああ、ただいまアレット。今日は、何をしていたの?」
「今日は……すこし散歩に出たきりね」
散歩に出て新聞を買って、それから心が削られた。
見る限り夫はいつもと変わらない。帰宅をした後にヴァレルがアレットの行動を聞きたがるのもいつも通りだ。どうやら彼はアレットが逃げ出すとでも思っているらしい。
大体女一人でどうやって逃げるというのだ。アレットは元深窓の令嬢でお金を持って支払いをしたことも無いというのに(新聞を買うのは側にいるソレーヌで、それもつけ払いだ)。
「ヴァレルは?」
アレットは思い切って尋ねた。
この流れだと不自然ではないはず。
「なにが?」
「今日一緒だったのは、大学時代のお友達? それともお仕事が一緒の方? 取引先か議員さんかしら」
「友人だよ」
「大学時代の?」
「いや、卒業後に、数年前に知り合った間柄かな」
「わたしに紹介してくれた方かしら?」
「一度会ったことはあるんじゃないかな」
「……そう」
探偵のように上手くはいかない。ヴァレルのような実業家ともなれば知り合いもお友達もたくさんいる。紹介してくれた人だってアレット自身全員を覚えきれていない。
だったら。
「お友達なら、今度うちに招待したらいいのではないかしら」
アレットは夫に提案をしてみた。
「どうしたんだ、急に?」
「急ではないわ。わたし、こちらに来てから色々と招待を受けていたでしょう。一度食事会を開いた方がいいんじゃないかと思っていたの。シレイユやアウラたちにも招かれてばかりだし、あなたのお友達とも、もっと交流を持った方がいいって思って」
「それは、確かにそうだけど。まだ引っ越してきたばかりでダガスランドに慣れていないだろう? そういうのはもっとゆっくりでいいよ」
ヴァレルが難色を示す。
先ほどまで会っていたのが女性だから彼はアレットの提案に乗り気ではないのかと疑った。男性の友人ならこの家に招くことくらい躊躇しないはず。
「そんな悠長なことを言っていたら社交期が終わってしまうわ」
「なら最初はきみのお友達だけ呼べばいいだろう」
「あなたのお友達とだって仲良くなりたいわ」
「それは、俺以外の男ともっと知り合いになりたいからってこと? 言っておくけれど、俺の友達に貴族階級の人間はいないよ」
ヴァレルの声が低くなる。
今はそういう話をしていないのに、どうして彼はアレットの発言をいつも曲解するのだろう。
アレットの方も頭に血が上ってきた。
今はヴァレルの話をしているのだ。話の矛先を逸らそうとしている風にしか感じられない。
「あなたねえ! いまはそういう話ではないわ」
「そういう風に聞こえたからね。指摘をしたまでだ」
「あなたこそ。わたしに、今日会っていたお友達を紹介したくないのは、名前も言ってくれないのは……それが女性だからじゃないの?」
「それを知ってどうする? 夫の交友関係に妻が口出しをするものではないよ」
実家ではそういうことも教えてくれなかったのか、と彼は続けた。
「そのくらい知っているわよ。夫には夫の世界があるのでしょう。でもね、わたしだってあなたの妻なのよ。あなたにやましいことが無いのなら、今日会っていた相手くらい教えられるはずだわ」
「だから友人だと言っている」
「友人っていい言葉よね」
「きみは少し感情的になり過ぎだ。……少し頭を冷やしたほうがいい」
ヴァレルが出て行こうとする。
自分はちっとも感情的ではない。それはあなたのほうじゃないの、とアレットは憤る。背を向ける夫にアレットは言葉を刺す。
「わたし……知っているのよ。フィアンメータ・ピッティとはずいぶんと親密だったそうじゃない。今日の新聞にも書いてあった。ずっと、それこそわたしと結婚する前から仲が良かったんでしょう」
「ただのゴシップ記事だ」
「本人から聞いたもの。結婚と恋愛は違うのだって。あのときのわたしの気持ちがわかる……?
心がぐしゃぐしゃする。
アレットの心は泣いていた。顔には決して出さない。そんなこと、誇りが許さない。
結局ヴァレルが欲しいのはアレットの肩書だけ。血統書付きの公爵令嬢という生まれと血筋だけ。カイゼル家に貴族の血を入れたいだけなのだ。そんなこと最初からわかり切っているのに。
「笑いもの、そうだね。元公爵家のお姫様にしたら許せないよね。こんな男にコケにされて」
ヴァレルは一歩、また一歩アレットの元へ近づいてくる。
彼はアレットの目の前で立ち止まった。
「ヴァレル……?」
「
「ち、ちが……。それは言葉の……」
アレットは自分が失言をしたことに気が付いた。
別に本心からこんなところと思っているわけではない。最初こそまだ見ぬ異国に不安を抱えていたけれど、それはすぐに憂慮であると悟った。屋敷の人間もヴァレルの家族もみんなアレットに優しかったからだ。
ヴァレルはアレットの腕を掴んだ。今までにないくらい強い力で、アレットは彼が怒っていることを感じ取った。
「こんなところ、だよね。きみは俺みたいな男に買われたんだから。その男にコケにされて誇りをズタボロにされて、さぞ俺を憎んでいるだろうね」
ヴァレルは口元を歪めた。
アレットを罵っているはずなのに、どうしてだか彼の方が痛みに耐えているような表情を浮かべている。
「ご、ごめん―」
「いいよ、謝らなくて」
ヴァレルはアレットの言葉を遮った。
「大丈夫。ちゃんと妻を尊重するから。俺の大事な妻だからね、きみは」
アレットはぞくりとした。アレットを見下ろしたヴァレルが知らない人に見えたからだ。
「ヴァレル……?」
ヴァレルは何も答えない。強い力でアレットの腕を引いた。アレットは寝台の上に倒れ込む。その上にヴァレルがのしかかってくる。自分の失言で夫の怒りを招いた。
「お望み通り妻らしく扱ってあげるよ」
「ちが……」
アレットの夜着のボタンをヴァレルがいつもより乱暴に剥いでいく。
アレットの顔から血の気が引いた。ヴァレルは怒ったままアレットを抱こうとしている。アレットは怖くなる。強引に寝台の上に組み敷かれ、生まれたままの姿にされ、夫がその上にのしかかってくる。ざらりとした舌の感触が首筋、鎖骨、胸のなだらかな部分へと移動をしていく。
「ヴァレル……やぁっ! こんなの、嫌っ!」
アレットはもがいた。自分の失言とはいえ、ヴァレルだって酷いではないか。だって、結婚をしたのに妻以外の女性と新聞の記事になるだなんて。
「いや。いや。いやぁぁっ!」
アレットは何度も首を左右に動かした。こんなの嫌だ。怒りをぶつけてくるヴァレルもいや。あなたの心がわたしに向いてくれないのも嫌。体だけの繋がりっていうのも嫌。
アレットはぐすぐすと泣き出した。
「いや。ヴァレルのばか……」
絶対に泣かないと決めたのに、雫が瞳に溜まってしまう。そんなところも嫌。
なにもかもが嫌だった。
ふいにアレットの拘束が解かれた。上からアレットの自由を奪っていたヴァレルが上体をどかしたからだ。
「……ごめん」
かすれた声が聞こえてきた。
その声でアレットは我に返った。
「あ……」
下から見上げたヴァレルはアレットの視線から逃れるようにして顔を背けた。アレットはからからに乾いた口で、何を言うべきかわからなくて黙り込んだ。ヴァレルはアレットの夜着を体の上にかけた。アレットは胸の前で夜着をかき抱いた。
互いに何も話すことができなかった。
「ごめん」
最後にヴァレルはもう一度アレットに対して謝って部屋から出て行ってしまった。
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