密会
ヴァレルはクラブで人を待っていた。
ダガスランドの中心部にある会員制の高級クラブである。基本的には男のみ入店可能な店だが、会員同伴であれば女性も入店することができる。個室のあるクラブは密談にはもってこいなのだ。
「待った?」
席についてから約二十分。個室の扉が開き、入ってきたのは金色の髪の毛に青い瞳をした肉感的な女だった。年はアレットよりも少し上の二十二歳。今が女の盛りで、今日も胸の大きくあいたドレスを身にまとっている。
「そこまでは。相変わらず、男を待たせるのが好きだね。フィアンメータ」
ヴァレルの皮肉交じりの言葉に、彼女は小さく首を傾けて口元を緩めるだけ。
彼女が約束の時間よりも遅れてくることは百も承知しているヴァレルはそれ以上言うつもりもなく、視線で彼女に着席するよう促した。
テーブルの上にはすでに酒とつまみが用意されている。
フィアンメータはゆっくりとテーブルへと近づいてきた。
ヴァレルはさっさと用件を済ませることにした。
「今後俺はきみの話題作りのためのネタになるつもりはないよ」
今日こうして彼女と会うことにしたのはこのことを伝えるためである。世間には結婚をしても別に女を囲う男というものが存在するが、ヴァレルにはそういうつもりはない。
「フェスティバルの日のことを根に持っているの?」
ヴァレルの出す低い声にも動じずに、彼女はヴァレルの側に寄ってきて、彼の肩に自身の手を置く。
ヴァレルは短く息を吐いた。
「席に付いたらどうだい?」
「しょうがないわね」
半分胸をさらけ出し、それを惜しげもなくヴァレルに近づけたのに動揺一つ示さなかった彼に対してフィアンメータは面白くなさそうに唇を引き結び、体面の椅子を引いて着席する。
「こうして二人きりで会うのも今日が最後だ。今後は意味深な手紙を書いても無駄だ」
「せっかく二人きりで食事なのに、ロマンの欠片もないわね。もっと楽しい話題の方がよかったわ」
フィアンメータは自分のグラスにぶどう酒を注いで一口飲んだ。
密談をするための個室だ。給仕係などこの場にはいないのである。
「それと、アレットに近づくのも止めてもらおうか」
今日の本題である。
「あら、女同士の交友関係に夫が口出しをするのってナンセンスよ」
「まぜっかえすのはやめてもらおうか」
存外に固い声が出た。
フィアンメータは肩をすくめた。
「勝手に俺のアレットを連れ出して。前夜祭の日、俺がどれだけ探し回ったと思っている?」
「あら、なんのことかしら」
「きみとアレットがあんな暗がりでばったり出会うわけがないだろう。いたずらもいい加減にしてくれ」
嘯くフィアンメータにヴァレルは渋面を作る。そもそも、フィアンメータとはとっくに終わった仲なのに、どうしてアレットに興味を持つのか。
「奥さんのこと、
「アレットは妹と馬が合うらしい」
するどい指摘にヴァレルはシレイユの名前を利用する。実際アレットとシレイユの仲は良好だ。お転婆がそのまま成長して人妻になったシレイユだが、明るく快活なのであれでダガスランドでは顔が広かったりもする。そしてなぜだかアレットと気が合うようで、なにかと彼女を気にかけている。
アレットがシレイユと気が合ったのは計算外だった。だが、頭の片隅では快活なアレットなら妹と仲良くなるのは不自然ではないと感じている。
「あなたの妹さんはあまり好きじゃないわね。まあ、彼女も同意見でしょうけど」
「妹の話はいまはどうでもいいよ」
そう、いまはシレイユのことはどうでもいい。問題はフィアンメータがアレットにちょっかいをかけたこと。それもヴァレルの隙をついて、こっそりと。
現在、ヴァレルとアレットの間には目に見えないけれど、確実に存在をする壁で隔てられている。
舞踏会の夜、ヴァレルが焼きもちついでにいつものように嫌味と自虐を口にしたら言い合いに発展した。それはまあ、いつものことだ。あれでいてアレットは気が強いところがある。
問題はそのあとだった。彼女はヴァレルのことが好きだと言った。とても真剣な顔つきをしていたし、ヴァレルと踊るのを楽しみにしていたと言った。
どうしてそんなことを言うのだろう。
十六歳の頃、人を奈落の底に突き落としておいて。あのとき、その可愛らしい口でヴァレルのことを貶めたのに。今になって好きだと言われても素直に信じることなどできるはずもない。実際にヴァレルは歓喜する己の心に必死に言い聞かせた。これは罠だ。信じるな、と。
彼女には現在ダガスランドで頼る者などいないも同然なのだ。
だったらヴァレルを懐柔したほうがいいにきまっている。これはアレットの作戦なのだ。
(それなのに……。俺の挑発に乗ってくるんだからアレットは……。俺が理性を保っていなかったからどうなっていたことか……)
ヴァレルはフィアンメータと会食していることも忘れて一人物思いに耽った。
夜の寝台での行為を、アレットの方からしてみろなんて言ったら、本当にアレットが始める雰囲気になってものすごく焦った。一歩も引けない、という気迫を感じてヴァレルは理性を総動員してソレーヌを呼んだのだ。あのときは本当に一歩間違えたらまずいことになっていた。
「ねえ、ヴァレルったら」
一人思案の海を漂っているとフィアンメータの少し拗ねるような声が聞こえてきて、ヴァレルは現実に引き戻される。
「ええと、そうだ。アレットのことともう一つ」
どうやらフィアンメータの思惑に乗せられてしまったと気が付いたのは翌日のこと。
新聞のゴシップ欄にヴァレルとフィアンメータが親密だと意味深な見出しを書いた記事が掲載されたのだ。ヴァレルはその新聞をぐしゃりと握りつぶした。
色々と文句を言ってやりたくて、その後手紙を寄越してきたフィアンメータと会うことを決めたヴァレルである。
「きみはきみで俺を話題作りに利用しただろう? 新聞のゴシップ欄に載せられて不愉快だ」
「ああそう。結婚すると男って変わるものね」
フィアンメータはつまらなそうにつぶやいた。
「俺はアレットと結婚したばかりだ。彼女だって不愉快な思いをするだろう」
「お金で買った花嫁がそんなこと思うかしら」
世間一般の認識を言われたヴァレルは内心むっとしたが顔には出さずにおいた。そんなこと、自分が一番に知っている。何しろフェザンティーエ公爵家に借金の肩代わりを買って出たのは己なのだ。
「俺はアレットのことを大事に思っているよ」
「口ではなんとでも言えるわよね。いいところのお嬢さんを貰って箔をつけたいっていうダガスランドの男たちの気持ちは分かっているつもりよ。でも、箱入りお嬢さんを妻にしてもつまらないでしょう? わたしは別にあなたの家庭を壊すつもりはないわ。ただ、たまにあなたと楽しいことがしたいだけ」
「それで自分の箔がつくからと言いたいんだろう?」
「まあ、無粋な男ね」
「なんとでも」
フィアンメータの不機嫌な声を出すが、ヴァレルは気にしない。カスコーネ座の歌姫は気分屋なのだ。彼女は己の魅力をよく知っている。甘く可愛らしい声で好意を示せば男は自分の虜になると信じている。
ヴァレルが彼女と関係を持ったのはアレットに振られて傷心の果てにダガスランドに帰還したときだった。あの時は気を紛らわすために、そして己のプライドを取り戻すために、自分に近づいてきたカスコーネ座の歌姫を利用した。彼女はあの当時から幾人かの男性と所謂男女の関係を持っていた。己の支援者となる金持ちと寝ることはフィアンメータにとってはどうってことのない日常なのだ。それは現在でも変わらない。
ヴァレルも当時、何度か彼女とそういう関係になった。互いに利害が一致したからだ。しかし徐々にフィアンメータがヴァレルのパートナーを気取り始め距離を置くようになった。結局はヴァレルがアレットへの未練を引きずっていたからだ。
アレットが忘れられなくて、彼女を妻にすると決心して以降はフィアンメータとは関係を持ってはいない。各署への根回しに奔走していたのと、父の事故死が重なったからだ。
どうやら目の前の歌姫はまだヴァレルに未練があるらしい。しかし、ヴァレルは歌姫の遊び相手になるつもりはない。
「とにかく、話は終わったよ。きみは、いまの恋人を大事にした方がいいよ」
ヴァレルは立ち上がった。
「ちょっと。まだ食事の途中よ」
「今日は好きなものを頼んでいいよ。会計は俺に回すように言ってあるから」
ヴァレルはそう言ってフィアンメータの返事も聞かずに扉を開いた。
彼女はそれ以上何も言ってはこなかった。プライドが許さないのだ。
扉を閉めて、ヴァレルは早足でクラブを後にする。
おそらくは、アレットはヴァレルとフィアンメータの間に過去何があったのか察しているだろう。前夜祭から三日が経過している。その間、時折アレットからもの言いたげな視線を感じた。
フィアンメータと何を話したか、彼女はヴァレルに言おうとしないが、態度に出ている。別に現在進行形でフィアンメータと関係があるわけでもないし、過去の交際だってアレットには関係のない話だ。そもそも、アレットがヴァレルを傷つけたから、別の女でその傷を癒した。それだけの話だ。
「そもそも、アレットが俺とフィアンメータとのことにやきもちを焼いていること自体があり得ない話か」
馬車の中でヴァレルは一人ごちた。
あるとしたら結婚早々にゴシップ記事を書かれた夫に対する不満か。まあそうだろう。女同士の社交の場で噂をされるのはアレットなのだ。恥をかかせてこのやろう、くらいには思われていそうだ。
しかし、なんとも思われていない相手にこちらが必死になって弁解するのも滑稽な話である。
(誤解だって言って、そのあとにわたしに気にせずご自由に楽しんで、とか言われたら……。いや、心の中で思われていそうだ……)
好きを拗らせて、アレットを自分のものにしたまではよかった。
誰か別の男に抱かれる彼女を想像すると五体がバラバラになるかのような鮮烈な痛みを感じるくらいに、ヴァレルはアレットに未練を残していたからだ。天使の笑みを見せつつ、裏では人を貶めるような台詞を吐く女を相手に、どうしていつまでも恋心を抱いていられるのか。それはヴァレル自身もよくわからない感情だった。
忘れようと努力をしても、結局はアレットが自分に見せてくれたはつらつとした笑顔が脳裏によみがえってきてしまう。あの顔が忘れられない。誰かにあの笑顔を見せるくらいなら、自分のものにしてしまいたい。自分のような男に妻にされて、彼女は絶望するかもしれない。それでもいいと思った。誰かのものになるくらいなら、ヴァレルが手折ってしまいたかった。
(彼女の心まで手に入らなくてもいいって納得しているはずなのにな……)
アレットが自分の側にいてくれればそれでいい。
いくらでも贅沢をさせてやるし、国は違えどアレットの故国と文化水準が著しく違うわけでもない。
それなのにヴァレルの心は空虚になっていく。
彼女の言動を信じることができなかった。
自分を好きだというのは、アレットなりの処世術。皮肉ばかり言う夫に対して対処をしたまでだ。彼女は昔ヴァレルを拒絶した。
純真無垢な少女の本心を聞いてしまったとき。きっとヴァレルの心の一部が壊れたのだ。
(なのにアレットに愛されたいと思うなんて。本当に人間っていうのは強欲な生き物だな)
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