宣戦布告と劣等感
「まさか、そんな可愛らしいことを言うとは思わなかったわ。さすがはお嬢様ね」
「あなた、失礼だわ」
フィアンメータはまだ笑い転げている。
アレットは憤慨する。どうにも、彼女の仕草にとげのようなものを感じるのだ。
フィアンメータは目に浮かんだ涙を指で払った。
「あのねえ。男女で抱き合うのは別に子供を授かるためではないのよ。まあ、それが目的なことのほうが多いけれど。男も女も、恋愛と結婚は別。気持ちのいいことは、好きな人としたいでしょう?」
フィアンメータの言い分に、アレットは文字通り口をパクパクさせた。信じられない言い分だった。少なくとも、アレットには。
「そ、そんなの……」
「ヴァレルは仕方がなくあなたを娶ったのかもしれないけれど。だからって、あまり大きな顔をしてもらいたくはないわね」
「あなた、恋人がいるって」
アレットはようやくそれだけを言った。
たしか、新聞にはそう書かれていた。
「ああ。わたしは色々なお友達がいるもの」
フィアンメータは悪びれることもなく、あでやかな笑みを浮かべた。それがあまりに女性的であったから、アレットは不覚にも見とれてしまった。年上の色香に釘付けになる。ヴァレルもこういう女性の方がいいのだろうか。
「あなた……間違っているわ……」
アレットは喉の奥から声を絞り出す。
「あなたみたいなお嬢さんからしてみたらそうかもね」
わたしだって、一応ヴァレルの隣を狙っていたのだけれどね、と彼女は呟いた。
「まあ、これはダガスランドの彼に近づける女性はみんな狙っていたことよね」
フィアンメータの言葉にアレットは衝撃を受ける。やはりというか、ヴァレルは人気者だった。わかってはいたけれど、改めて聞かされると胸が痛くなる。
「あなた……ヴァレルと……」
それでもアレットは気になって言葉を紡ぐ。しかし、その先は口から出てきてくれない。悔しいけれど、アレットはいま大いに混乱している。目の前の、歌姫の出現によって。
「ふふ」
アレットの言いたいことを正確に理解したフィアンメータは微笑んだ。
それだけでアレットもまた、彼女の言いたいことを理解した。彼女は、ヴァレルとそういう仲だったのだ。
「あなたも、楽しんだらいいじゃない。政略結婚なんてつまらないでしょう。多いのよ、あなたみたいな子。実家が没落してお金で買い取られたってふうにダガスランドに連れてこられる女性たちって」
それからフィアンメータはアレットに顔を近づけて続けた。「女たちはね、相手の子供を身籠らないように避妊薬を飲むのよ。そうやって楽しんでいるご婦人は多くいるわよ」
アレットは目を見開いた。
「なにか分からないことがあればわたしが教えて差し上げるわ。男友達も多いもの、わたし。あなたもさっさと夫以外に楽しめる相手を見繕った方が、こっちでの生活も楽しくなるってものだわ」
フィアンメータはそう言って立ち上がった。
彼女はベンチの下に置いていた角灯を手に持った。
「誰かこちらに近づいてきているようね」
フィアンメータは独り言を言う。その言葉に釣られて、アレットたちがやってきた方角を見やれば、ぼんやりと灯りが確認できた。誰かが灯りを持って歩いてきているようだ。
「今日はゆっくりお話しできて楽しかったわ。あの猿、なかなか芸達者でしょう? サーカス団にもお友達がいるからちょっと頼んだのよ。あなたを連れ出してほしいって」
ふふふ、とフィアンメータは笑った。
「なっ……」
アレットも立ち上がる。
聞き捨てならなかった。あの猿は最初から彼女の差し金だったのだ。アレットを人気のない場所におびき寄せるための。フィアンメータがアレットに宣戦布告をするために。
アレットは勢いよく口を開いたものの何から文句を言っていいのか分からずに空気だけが口から漏れていく。実際頭の中は混乱の極みにあるのだ。
「誰か、いるのか」
少し離れたところから男の声が聞こえた。聞き覚えのある声にアレットの体が固まる。
フィアンメータは声の主の方へ歩いていく。
アレットは動けずにその場にとどまったまま。
「ヴァレル。どうしたの?」
フィアンメータの声が聞こえた。アレットは二人の様子を見たくなくて、彼らから背を向ける。
「アレットを探している。きみは誰かと会っていたのか……」
ヴァレルの声が途切れた。それから灯りが近づいてきた。アレットはまだ振り返ることができない。
「そこにいるのは、アレットか? フィアンメータ、どうしてきみが彼女と?」
ヴァレルがアレットの元にやってきた。自分の顔を覗き込んだヴァレルは顔をあげてフィアンメータとアレットを交互に見た。
「あなたの奥さんに興味があったのよ。フラデニアの大きな家のお嬢様なのでしょう。わたし、ルーヴェに一度は行ってみたいもの。お話を聞いていたの」
(嘘ばっかり)
フィアンメータのしらじらしい嘘にアレットは内心悪態をつく。よくもまあそこまで流暢に出まかせを言えたものだ。
「こんな暗がりで?」
ヴァレルのほうが不審げな声を出す。
前夜祭の輪からだいぶ外れた公園の奥地である。灯りも心もとないし、人気もない。
「ちょっと道に迷ったの」
アレットはようやく口を開いた。
「そうしたら……彼女と会ったの」
別にフィアンメータに合わせているわけではない。話の内容を夫に聞かれたら、なんて答えたらいいのかアレットには分からない。
「そう……か。とにかく、ここは暗がりだし、あちらへ戻ろう」
ヴァレルは当然のようにアレットの腰に腕を回す。それが当たり前のように自分の方へアレットを引き寄せる。アレットは身をよじった。
「アレット?」
「大丈夫。一人で歩けるもの」
「暗いから危ないよ」
ヴァレルは優しい声を出す。アレットに気を使っているのか、それともフィアンメータに妻を大事にしているところを見せつけたいのかどちらなのだろう。
「仲がいいのね。当てられないうちに、わたしはお暇するわ」
フィアンメータは何かを言うわけでもなくあっさりと身を引いた。さくさくと一人で先に歩いていってしまう。アレットはあっけにとられた。
てっきりまたヴァレルにちょっかいをかけると思っていたのに。
アレットは一人で歩いていこうとしたけれど、暗い夜道で小石に躓いてよろけそうになる。足元まであるドレスを着ていると足元が覚束なくなるのだ。
こけそうになったところをヴァレルがさっと近づいてきて支えてくれた。
「ほら、言ったそばから。危ないだろう」
ヴァレルの声が若干呆れたものになる。アレットは恥ずかしくて穴があったら入ってしまいたかった。
ヴァレルはアレットの背中に腕を回し、結局一緒に歩くことになってしまう。惨めで悔しくて恥ずかしくて、アレットの心はぐちゃぐちゃだった。
静かな公園を夫婦で歩く。
ヴァレルの足取りは緩やかで、ドレスを身にまとっているアレットに合わせてくれている。まだ前夜祭の喧騒は程遠い。
「……彼女と何を話していたの?」
ヴァレルが口を開いた。
「……べつに、普通のことよ」
「普通?」
ぽつりぽつりと会話が続いていく。周りが静かなせいでアレットが発した小さな声もヴァレルは正確に拾っていく。
「あなたと、お友達だってこととか。彼女……きれいな人ね……」
(わたしよりも大人っぽいし。胸だって大きいし)
さすがに続きは胸の中に留めておく。悔しくて、言葉にすることができない。だって、それを彼に言ったら負けを認めているようだから。
「フィアンメータはダガスランドで一番人気といっても過言ではないからね」
ヴァレルの言葉はあたりさわりのないものだった。ヴァレルはフィアンメータの客観的な評価を口にした。彼自身の言葉を避けた物言いにアレットは、逆にヴァレルとフィアンメータの仲を勘繰ってしまう。
(ヴァレルの、ばか……)
アレットの心は沈んだまま浮かび上がる気力もなかった。
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