ダガスランドの歌姫
途中人に聞きながらアレットは猿を追った。
それにしてもすばしっこい猿である。まずはサーカス団に訴えた方がいいだろうか。しかしサーカス団に知り合いもいないし、関係者がどこにいるかもわからない。それよりも猿を追った方が早いのでは、と思いアレットは目撃情報を頼りに公園内を大股で歩いた。
日が暮れた公園内には灯りがともっている。今日は多くの人が訪れていることもあり、平素より明かりの量が多い。
猿を追って、アレットは公園内の奥まったところへとやってきた。
ウィリアム・ガスト公園の敷地は大きくて、園内には運河や池もある。当然のことながら緑も多い。サーカス団のテントが張られた場所からずいぶんと離れたところで、アレットは自分の持ち物を見つけた。猿はキキキと小さく鳴いてハンドバックをベンチの上に置き、首をかしげたあとぴょんぴょんと跳ねてどこかへ消えてしまった。
「一体なんだったのよ、もう……」
アレットはよろよろとベンチに近づいた。
ハンドバックを見つけた安心感からか、急に疲れが出てきてアレットはベンチに座り込む。
ようやく自分の持ち物を取り返し、落ち着くと蘇るのはヴァレルに近づいていた歌姫のこと。彼女とヴァレルの仲のよさそうな雰囲気と周りを取り囲む彼の友人たちの気安い空気。
(わたし、何をしているのかしら……)
座ったら、途端に弱気になった。
ヴァレルの親しい友人たちの中に入っていけなかった。それに、あんな風に気を許せるような女友達がいただなんて。初めて会ったときに言っていた言葉が今になって蘇る。
『あなたからも言っておいて頂戴。フィアンメータが寂しがっていたわよ』と言っていた。あのときは単なる知り合いだと思っていたのに。あの、さっきの様子からしたら相当に仲の良いお友達ではないか。アレットの知らないところであんな気安い間柄の女友達がいただなんて。胸がとても苦しくなった。
「って、ちょっと待って。彼女、新聞に載っていなかったかしら?」
アレットはふと思い出した。
たしか、新しい恋人がどうのとか、書かれていたような覚えがある。たしかシレイユたちとのお茶会で新聞を広げていた時だった。
恋人がいるのに、別の男性とも仲良くするのだろうか。
「あら、あなたわたしのこと調べていたの?」
独り言に返事が返ってきてアレットは「ひゃっ」と小さく声を上げた。
「驚かせちゃったかしら」
くすくす、と笑い声が聞こえた。美しい声である。
アレットの近くに女性が立っていた。金色の髪の毛に、豊かな胸を惜しみなく晒したドレスを着ている。こうして対面するのは二度目になるだろうか。
「あなた……フィアンメータ」
「覚えていてくれて光栄ね。それとも、夫の素行調査でもしたのかしら」
金髪美女、もといフィアンメータはアレットの方に近づいてくる。
手には灯りの入ったランプを持っている。アレットは居住まいを正した。
「いいえ。この間新聞であなたの記事を読んだだけよ」
「どの記事かしら。わたしの新しい歌の記事だったら嬉しいんだけれど」
フィアンメータはアレットのすぐ隣までやってきて、それから腰を下ろした。
アレットは黙って受け入れることにした。馴れ馴れしい態度に内心眉を持ち上げたけれど、ここで騒いだらなんとなく、負けだと思った。
「いいえ。新しい恋人ができたとか、そういう話題だったわ」
「ああ、そっちね」
フィアンメータはゆっくりと唇を弧のように曲げた。そうすると途端に色香が漂ってくる。アレットには出せない種類のもので、単純に面白くない。
「あなたとは一度お話してみたいって思っていたの」
「わたしは何も話すことはないけれど」
アレットは警戒心を隠すことなく話した。
「やっぱりフラデニアの貴族のお姫様はわたしみたいな歌手とは話すに値しないのかしら」
「そんなことないわ。フラデニアの貴族だって女優や歌手に憧れるわ。とくに人気の劇団のトップ女優ともなればその人気はすさまじいんだから!」
アレットは力説をした。なにしろフラデニアは周辺国の文化けん引役なのだ。歌劇団も他の国とは比べ物にならないほど多いし、トップの女優や俳優はみんな人気だし新聞でも頻繁に特集記事が組まれていた。
「わたしがあなたと話したくないのは、あなたがわたしの夫に馴れ馴れしくしていたからよ」
アレットはフィアンメータの目を見て言いきった。
自分の中にある勇気を全部集めた。実際アレットはヴァレルの正式な妻なのだ。だから、文句も言っていいはずである。
「だって、親しいお友達だもの」
一方のフィアンメータはあっさりとアレットの言葉を交わした。
「だからって、ヴァレルに気安く触らないで」
「ダンスを踊ったらあのくらいの距離感くらい普通でしょう?」
「あのときはダンスを踊っている場面ではなかったわ」
二人の視線が絡み合う。
フィアンメータは口元に緩い笑みを浮かべている。
「あなたって、本当に可愛いのね。わたし、あのとき言ったでしょう。彼とは親しいお友達なのって」
「ええ」
「だから、ね。あなたもあんまりぴりぴりしないでほしいの。だって、所詮は政略結婚でしょう? 結婚と恋愛は違うわ」
「な、なにを……」
「あら、恋愛は楽しむもので、結婚は義務よ」
フィアンメータは楽しそうにアレットを見つめる。まるで幼い生徒に言い聞かせる教師のようだ。教えることが楽しくて仕方が無いとでもいうように、フィアンメータは彼女の答えを口に乗せる。
「あなたはカイゼル家の箔付けのために貰われたのだから、ヴァレルを楽しませる役目まで負う必要無いと思うの」
「な、なにを……」
アレットは二の句が継げなくなる。
「もう生娘というわけでもないのだから、わたしの言いたいことは分かると思うけれど。義務で抱くのと楽しみのために女を抱くのは違うわ」
「あなた!」
「それともヴァレルがあなたのことを好きで抱いているとでも?」
直接的な言葉にアレットの頬が赤く染まる。
「だって、あの行為は……赤ちゃんを授かるものだって! 夫婦でもないのに、そんなことをしたら……だって、その」
アレットはしどろもどろになる。
アレットの認識では夫婦間のあの行為は赤ん坊を授かるためのものだ。それを、夫婦でもない人間同士がすること自体があり得ない。おかしい。
アレットの言葉を聞いていたフィアンメータは次の瞬間、盛大に吹き始めた。口元に手をやり、前のめりになって笑い出す。
「や、やだぁ……ふふっ。おか、しい」
「な、なんで笑うのよ」
アレットはかちんとなった。ここまで馬鹿にされる覚えもない。至極まっとうなことを言ったはずなのに、この女は一体何なのだ。
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