夕暮れ時の困惑

「はぁぁ」


 アレットは書き物机のうえで盛大にため息をついた。

 舞踏会から数日が経過している。


 ダガスランドは夏真っ盛りで、毎夜どこかの屋敷では舞踏会が開かれ、劇場では歌劇やら楽団の演目が上演されている。

 カイゼル夫妻のもとにも各種催し物の招待状が舞い込んでおり、私生活では若干気まずいこともあるけれど、人の前に出ればアレットも顔に笑みを浮かべて仲睦まじい夫婦に見えるよう振舞っている。


 おそらく気まずいと思っているのはアレットだけだ。

 なにしろヴァレルは口論となったあの日の夜のことを無かったことにした。お互いに別の部屋で眠った翌日、面と向かって「昨日のことは聞かなかったことにするよ。だからきみも普通にしてほしい」と言われたし、実際に何事も無かったかのように彼はアレットを抱いた。


(まさか、本気で無かったことにされるとは……)


 アレットはもう一度長い息を吐いて日記帳にペンを走らせた。

 もう何年も前から書いている日記だ。これで何冊目になったのか。


『ヴァレルのことが好き。大好き。あなたと結婚出来てわたし幸せよ、って言いたいのに言えない……』


 先ほどから似たようなことばかり書いている。

 日記なのだから洗練された言葉を使う必要もない。まるで一人の友人に話すようにアレットは毎日とまではいかないが頻繁に日記帳に日々の出来事や自分の思いを書いている。

 読み返すと拗らせた初恋の話題が八割がたなのはご愛敬だ。


『わたし、かなり頑張ってヴァレルに思いのたけを言ったのに―』


 アレットはそれからも一心不乱に日記に自分の気持ちを書き綴っていく。好きを拗らせた文面はおおよそ人には見せられない。いや、誰かに読ませるつもりもないけれど。

 ため息と日記を書くのとを交互に行っていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。


「どうぞ」と言うとソレーヌが入ってきた。

「奥様、そろそろ準備をする時間です」

「そうだったわね」


 奥様、というのもまだちょっと慣れない。特にソレーヌみたいにアレットに結婚前から仕えてくれている人が言うと尚更だ。

 アレットは日記帳を閉じて立ち上がる。

 今日は夕方からウィリアム・ガスト公園へ出かけることになっているのだ。ヴァレルがアレットを迎えに、一度屋敷へ戻ることになっているためそれまでに支度を整えておかなければならない。


「夕暮れ時とはいえ、野外のためあまり露出はしないドレスにしましょう」

 舞踏会の日にシレイユたちから教えてもらった夏のフェスティバルの開幕前夜祭に招待されているのだ。


 これは毎年この時期にダガスランドの北側に位置するウィリアム・ガスト公園で行われている大規模なお祭りで、元はちょうど夏のこの時期にアルメート大陸への移民第一号船がこの地へ到着したことに由来する。

 先祖の活躍と開拓の歴史を祝う集まりがいつの間にか夏を楽しむお祭りになった。


 チェルスト地区からもほど近いウィリアム・ガスト公園は園内には林や人工の湖や池が存在するほどの大きな公園で市民の憩いの場になっている。アレットは今日が初めてで、お祭りに行くというのも初めてでとてもわくわくしていた。これでヴァレルとの関係が良好ならば言うことは無いのだが、いかんせん色々と腹に何物も抱えている。

 とはいえ公の場ではヴァレルはアレットに対して優しくしてくれる。

 それを期待してしまう自分もいてアレットは、またため息をついてしまう。我ながら浅ましいと思うからだ。


 アレットはシレイユの見立てのドレスに着替えて上から同じ素材で作られた薄手のジャケットを着せてもらった。髪の毛を結ってもらい帽子をかぶれば出来上がり。

 アレットの支度が終わってほどなくしてヴァレルが迎えに戻ってきた。アレットは彼の手のうえに自分のそれを重ねて屋敷を出た。


 夏のこの時期、日没は遅い。太陽はまだ空の高い位置におり、強い光を地面に打ち付けている。ぴりりと肌を焦がすような鋭い日差しにアレットは目をすがめる。

「まだこの時間だと暑いな」

 ヴァレルの独り言が聞こえてきた。



◇◆◇


 ウィリアム・ガスト公園の一角は着飾った人々でにぎわっていた。

 夏用のドレスを着た婦人たちの中には子供を連れている者もいる。今日はダガスランドの夏のフェスティバル開幕の前夜祭。サーカスや遊技場など、飲食店が集まるこのお祭りをいち早く楽しめるとあって、連れてこられた子供たちは目を輝かせている。


「アレット、友人たちを紹介するよ」


 人の大勢いる場所なのでヴァレルの声は朗らかだ。彼がアレットの腰に腕を回す。ぴたりと寄り添う二人を、幾人かの女性が羨ましそうに眺めている。

 アレットは紹介されるままに笑顔を振りまき、ヴァレルが求める新妻を演じる。

 演じるとはいっても、アレットはヴァレルのことが好きなのでその気持ちが駄々洩れなだけなのだが、それでも先日の一件がまだ堪えており、ヴァレルが人前だからといつも以上に惚気話を披露したりすると頬が引きつりそうになる。


 人のことを信じないとか言っておいて、どうしてこうも妻が大事だというふうに振舞えるのか。というか甘い言葉を吐くなら夫婦二人きりの時に言ってほしい。

 ようやく日が陰ってきた頃、アレットはあいさつ回りから解放されてシレイユと合流した。ヴァレルはダガスランドの議員と話があると言って行ってしまった。彼は仕事が大好きなのだ。そこがまた素敵なのだけれど。


「アレット、お疲れ様。まだあまり回れていないんでしょう。そろそろサーカスが始まる頃合いよ」

 シレイユがアレットのために冷たい飲みものを持ってきてくれた。グラスに注がれているのはレモンのソーダ水。しゅわしゅわとした炭酸が疲れた体に染みわたる。

「ええ。挨拶だらけだったわ」

 アレットは喉を潤して、ふうっと息を吐いた。

 シレイユの二人の娘も今日は同行しており、先ほどから乳母を相手に「遊びたぁい」とか「ケーキが食べたいの」などという主張を繰り広げている。


「はいはい。エルサ、ケーキはさっき食べたでしょう」

 見かねたシレイユが娘に注意を促す。

「むぅぅ。今日はお祭りだもん」

「だもん」

「って言ってさっき二つも食べたでしょう」


 母の鋭い指摘にエルサがぐぐっと言葉に詰まる。

 シレイユは小さく肩をすくませる。アレットは微笑んだ。義理の姪たちはとても可愛らしい。


「少し休んだらサーカスを観に行きましょう。珍しい動物たちがたくさんいるのですって」

「わたし、サーカス初めて観るわ」

「本当? ダガスランドの毎年の名物よ」


 シレイユが目を輝かせてサーカスのすばらしさを教えてくれる。いつの間にかエルサとシレナも母親の言葉に聞き入っている。ケーキのことは忘れる勢いだ。

 その後アレットはレモンソーダを飲み干して天幕へと移動した。


 その後アレットはレモンソーダを飲み干して天幕へと移動した。エルサの小さな手をきゅっと握ってサーカスの開始を一緒に待っていると、子供を連れたアウラと合流した。

 サーカスを初めて観たアレットは興奮しっぱなしだった。


 人間が、あんなにも高いところから綱渡りをしたり、ジャンプをしたり飛び降りたり。細い綱の上で逆立ちをした人間を肩に乗せて歩くのだ。信じられないと思い何度もひやひやした。もちろん下に落ちることなく無事に反対側に渡り切った演者のためにアレットは惜しみない拍手を送った。他にも動物たちが器用に芸をして、そのたびにアレットはくちをぽかんと開けたり、歓声を送ったりした。


 他の観客たちも同様で、会場は大いに盛り上がった。

 最後に団長が挨拶をし、今年もダガスランドのフェスティバルで公演できることを誇りに思うと言うと、大きな拍手が沸き起こった。

 サーカスの公演が終わると、外は薄暗くなっていた。


「楽しかったわね」

「ええ! とても素晴らしかったわ」

 シレイユの言葉にアレットは間髪入れずに答えた。フラデニアにいた頃は観たことが無かった。サーカスという公演は知っていたが故郷では観劇の方が圧倒的に人気だったためだ。


「おかあさま、動物たちすごかったの!」

「しゅごかったの」

「ほんとう。今年も面白かったわねー」

「また観たい」

「みたい!」

 エルサとシレナも大興奮でぴょんぴょんと跳ねている。

「じゃあ今度はお父様と一緒に来ましょうか」

「うん! 行く」

「いくー」

「おとうさまに頼む」

「シレナも」

 小さな二人はその場で飛び跳ね回り出す。


「可愛いわね」

 アレットが漏らすと「そうね」とシレイユが微笑んだ。


 子育ては乳母に任せることが多いが、やはり母親なんだな、とアレットはしみじみと思う。シレイユが娘に向ける視線はとても優しい。そして子供たちも母親のことが大好きだ。


「じゃあお母様とお父様と一緒!」

「いっしょー」

「楽しみね!」

 シレイユはその場でしゃがみ娘二人の頭をくしゃくしゃと撫でまわす。

「もうー。せっかくおめかししたのにー」

「くしゃくしゃしないの」

「あらぁ、二人とも言うんだから」


 ぷうっと頬を膨らませてこまっしゃくれたことを言うエルサとシレナにシレイユが苦笑する。

 アレットは内心羨ましく思った。シレイユは幸せな結婚をしたのだろう。


(いいなぁ……)

 つい本音を零してしまう。アレットもヴァレルとの間に子供を授かることができるだろうか。

 そういう行為は行っているので、おそらく授かる可能性はあるだろう。そうしたらヴァレルに似た男の子がいいなあ、とかアレットは想像してみる。子供ができたらヴァレルも少しはアレットに寄り添ってくれるだろうか。


「どうしたの、アレット」

「えっ。ううん。なんでも」

 物思いに耽り過ぎていたようだ。アレットはシレイユの問いかけに慌てて返事をした。

「わたしたちはそろそろ帰るけれど。アレットはどうする? 一緒に帰る?」

「わたしはヴァレルのところに戻るわ」

「じゃあ途中まで一緒に行きましょう」

「ええ」


 フェスティバルの催し物を冷やかしつつアレットはシレイユたちと途中まで一緒に歩いて、それから別れた。

 会場のあちこちには角灯が設置されており、またかがり火も用意されており、濃い青色の空に代わりつつあるこの時分、係の人間が火をつけて回っている。


 ヴァレルはどこにいるのだろう。アレットは会場内を歩いて探す。

 子供連れで楽しむような出し物や遊戯施設の営業はそろそろ終わりで、これからは立食形式のパーティーの時間になる。おのずと人の集まる場所も限られてくるというわけだ。

 アレットは紳士淑女の集まる一角へ向かうことにする。

 一応公園内の地図とスケジュールは頭の中に入れてきてある。


「まあ、カイゼル氏の奥方よ」

「ほんとう。一人で歩いているけれど。ヴァレルには放っておかれているのかしら」


 夫を探して歩いていると、何やらうわさ話が飛び込んできた。

 アレットは慌てて声の主を探そうと振り返える。しかし、人が多くて誰の声だかわからない。

 アレットは気にすることを止めにした。


「やっぱり政略結婚だから夫婦仲は冷めているのかしら」

「だって、ほら。さっきも歌姫が彼にべったりだったじゃない?」

「カイゼル氏もああいう女に弱いのねえ。それはそれで悲しいけれど」

「あら、あなたなんてカイゼル氏は相手にもしてくれないわよ」

「ひどいわっ。少なくとも、あんな取り澄ましたお貴族さまよりかはましよ」


 アレットはぎくりとした。

 誰が誰とべったり、ですって。アレットは振り返りたかったけれど、なんとかそれを押しとどめた。妻の意地というやつだ。その代りヴァレルを探す足取りが少しだけ早くなる。


 ヴァレルの隣に誰がいるというのか。きっと友人とか仕事で付き合いのある人間に決まっている。彼はダガスランドでも有数の実業家なのだ。毎日忙しく働いていることを知っている。

 それでもアレットの気は急いた。ヴァレルを探して、顔をあちこちに向けていく。

 そういうことを何度か繰り返して、ようやくヴァレルを見つけた。黒い髪に高い背の彼が人の輪の中で目立っている。


「ヴァレ―」


 アレットは夫の名前を呼ぼうして、しかし最後まで続くことなかった。

 男女に取り囲まれたヴァレルの側にはぴたりと女が張り付いていた。仲が良いことをアピールしているのか、真正面に向き合い、話をする合間に彼の胸に自身の手のひらを押し付けている。

 金髪の、女性だった。

 アレットはその場で凍り付いた。ヴァレルを取り囲む人たちは、面白おかしくヴァレルをはやし立てている。風に乗って声の一部が聞こえてくる。


「―おまえ、相変わらず隅に置けないなあ―」


 ヴァレルはアレットに気づきもしない。

 アレットはその場で立ち尽くす。彼らの輪の中に入っていけない。アレットはよそ者だから。

 と、周囲から声が上がる。どよめきに気を取られた瞬間、アレットの体に小さなものがひっついた。


「えっ、ちょっと」


 びっくりする間もなく、アレットから離れたのは小さな猿だった。たぶんサーカスにいた子。小さな猿は、アレットからハンドバッグを奪い取ってぴょんと跳ねて逃げ去った。

 人が集まる場所に突如現れた小動物に、周囲の人々がどよめきの声をあげる。アレットも小さな悲鳴をあげてその場で小猿を見送ってしまった。

 本当に見事な手腕だった。


「ちょ、ちょっと! 待って」


 一拍後。我に返ったアレットは猿を追いかけようと駆け出した。

 一瞬ちらりとヴァレルの方に目をやる。彼は誰かに話しかけられていて、こちらの騒動に気が付いてもいないようだった。

 その代りに、先ほどまでヴァレルの正面にいて、甘えるように彼に触れていた金髪の女性の方がアレットの方をちらりと見ていた。本当に一瞬のことだったのに、アレットにはそれがスローモーションのように映った。こちらを、アレットに視線を据えている。それから、彼女はゆっくりと唇を持ち上げた。


(な、なによ……)


 きれいな女性だった。アレットよりも年上で、そして。

 その顔に見覚えがあった。

 いつかのお昼に、レストランで。彼女とアレットは相対した。それから。たしか、新聞でも彼女と似た女性の絵姿を見たはずだった。


(まさか歌姫って……)


 ふと、ヴァレルの気がそれた。突然の小さな闖入者に、会場の人間が気を取られてがやがやとしていたからだ。彼もこの空気に気が付いたのだろう。

 しかし、彼がこちらを向く前に、あの女性がヴァレルの両頬に手のひらを添えた。


(な、何を!)


 馴れ馴れしいことを! そう言ってあの輪の中に入って行きたかった。いきり立つのに、体は竦んで足が動かない。

 あの輪の中に、アレットの居場所はない。そんな風に感じた。


 アレットは踵を返した。

 とにかく、猿を追わないと。

 だからこれは決して逃げているわけではない。アレットは必死にそう言い聞かせた。

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