夫婦の迷走
家路へ到着をしたアレットはヴァレルによって宝飾品を取り外されていた。髪の毛をまとめていた飾りを取り外し、慎重にピンを抜いていく。
それが終わるとヴァレルはアレットの首飾りを外していく。
彼の指がアレットの首の後ろをかすめる。少し乾いた指先の感触はアレットのよく知っているもの。この指が何度もアレットの肌の上をすべり、何度も溶かしていった。
そこまで考えてアレットはひとりでに体を熱くする。
「女性には恐れ入るね。こんなにもたくさんの飾りを身につけているのだから」
ヴァレルはアレットの耳飾りを外しながらぼやく。
どちらの装飾品も結婚するときに彼がルーヴェの人気店で買い求めたもの。質の良い宝石は色が濃く、アレットを上品に飾り立てる。
「だったら、ソレーヌを呼ぶ?」
時刻はまだ零時を回っていない。舞踏会の帰りにしてはお行儀のよい時間だ。
「舞踏会のあと、ドレスを脱がすのは夫の特権だよ」
ヴァレルの声の中にほんの少し甘さを見つけたアレットは心臓をとくんと跳ねさせた。
ダンスの最中は、彼の一言で悲しくなったのに。今、ヴァレルの言葉でアレットの心はあっという間に跳ね上がる。
ヴァレルはゆっくりと丁寧にアレットの手袋のボタンを外していく。
「フラデニアの格式ばった舞踏会に比べるとこっちのは見劣りするんじゃないかな」
自嘲するような声色。どうして、彼はそうやってアルメートのことを貶めるようなことを自ら言うのだろう。アレットはなにも言っていないというのに。
「そんなことないわ」
「結構楽しんでいたみたいだね。次から次へとダンスに誘われて。さっきも、最後に踊ってくればよかったのに。俺とは違って奴は貴族の血を引いている」
「舞踏会で踊るのは義務だって習ったもの。あなただって楽しそうだったじゃない。たくさんの女の子と踊っていたわ」
「俺の方こそ義務だよ。結婚をしても、記念に踊りたいとかなんとか。おかげで今日はあまりあいさつ回りができなかった」
「そのわりにはわたしが気が付いたときには大広間にはいなかったようだけれど」
「そうだったかな。まあ、俺も色々と忙しいからね。けれど、俺がいない方がきみも羽目を外せただろう?」
「羽目なんて外さないわ。知らない男性と踊っても疲れるだけだもの」
「その割には律儀に申し込まれるたびに踊っていたじゃない」
「あ、あれは上手な断り方がまだできなかったからよ。あなたのお仕事に差しさわりが出ても困るし」
「俺を言い訳にしないでくれ。今日の舞踏会にはディルディーアの貴族の血を引いた連中も少なからず出席していた。きみにとっては懐かしいんじゃないのか。同じ貴族の血を持つ者同士話も弾むだろうし、俺と過ごすよりも楽しいだろう」
ヴァレルが、アレットが同じ貴族階級の男たちとよろしくしていた、とでも決めつけるような言い方をして、さすがにアレットはカチンときた。ヴァレル以外の男なんて眼中にないというのに。ムッとしてからすぐに悲しくなる。
舞踏会を憧れるとき、思い浮かべるのはいつもヴァレルの姿だった。
私のお相手をしてください、とアレットの前に進み出て丁寧にゆっくりとお辞儀をするヴァレル。アレットははにかみながらその手を取るのだ。そんな妄想を何度したことか。
「わたしは! わたしは……あなたと踊るのを楽しみにしていた。あなたが好きだから」
ヴァレルの動きがとまる。
アレットは夫に向かって自分の正直な気持ちを伝えた。
だって、こんなことで喧嘩をしたくない。
今日はせっかくの舞踏会だったのに。最初の一曲しか踊れなかったけれど、それでもアレットにとっては夢心地だった。ずっと夢に見ていた。好きな人と初めての舞踏会でダンスを踊ることを。
「ずっと、ずっと好きだったの。あのときは……わたしはまだ自分の恋心に気が付いていなくて。それを友達から指摘をされて……驚いてしまって。恥ずかしくなったの。だって、わたしに恋なんて話題はまだ早かったから。だから、ついあんなことを言ってしまったの。言ってすぐに後悔したわ……。あなたを傷つけるつもりはなかった」
アレットはずっと胸につかえていた言葉をヴァレルに放った。
恋心を自覚する前に友人に指摘をされて十六歳のアレットは混乱した。彼と一緒にいると心の奥の、自分でもまだ分からない場所が疼いて、それからほわんと暖かな気持ちになった。誰にも見せたくない大切な宝箱の中身。大事に大事にしたかった。
名前のわからない正体不明の心なのに、アレットはそれが大切で仕方なかった。
だから、突然にヴァレルとアレットのことが持ち出されて混乱した。
この気持ちが恋だというの? ヴァレルと一緒にいられることが何よりもうれしくて、誰にも邪魔をされたくない。その想いを指摘されてアレットは大いに混乱をしたし、同時に恥ずかしくなった。無防備に心の中を覗かれたような気持になったのだ。そして、誰にもこの想いを共有してほしくないと思った。
アレットは拒絶をするように正反対の言葉を友人にぶつけた。
彼女たちがヴァレルのことをくすくすと嗤っているのも知っていた。彼女たちに知られるのが怖かったし、身の程知らずだと言われるのも嫌だった。アレットは公爵家の娘で、確かな身分差があることも、十分に理解をしていた。
アレットの告白を聞いたヴァレルは身じろぎせずに押し黙る。
アレットのほうから彼を仰ぎ見ることは出来なかった。静まり返った寝室で、夫婦は二人きり立ち尽くす。
「……みは……」
「え?」
かすれた声が落ちてきた。ヴァレルが何かをしゃべったのだ。
「きみは……、残酷な子だね。俺は……きみを信じることはできない」
「どうして……?」
アレットは泣きたくなる。
誠心誠意伝えた。浅はかだった己の行動を。ヴァレルはなおもアレットを拒絶する。
「いま、きみが嘘をついていないと、誰が証明できる? きみは、ここでの生活を快適にするために俺を騙そうとしているのかもしれない」
「そんなことないわ。どうして、そうやっていつもわたしのことを拒絶するの?」
アレットは声を荒げた。
「この間は、レティって呼んでくれたじゃない!」
何日も前にヴァレルに抱かれたとき。彼は最後アレットのおねだりを聞いてくれた。彼から何度も強い刺激をもたらされて、アレットは衝動に任せてヴァレルに甘えた。今なら、言ってもいいのではないかと、何度も絶頂をもたらされて、ぼんやりした意識の中気が付いたら、愛称で呼んでとお願いをしていた。
彼は確かにアレットのことをレティと呼んでくれた。
コニーにいつまでもレティと呼ばれると子ども扱いされているようで嫌だったのに、どうしてヴァレルには、レティと呼んでほしいと思ったのだろう。口から付いて出たお願いだったけれどヴァレルの声でレティと呼ばれたとき。胸に今までにない充足感が広がった。
「あれは……。閨での戯れだよ。本気にされたら困る」
「え……」
ヴァレルの固い子にアレットが息を呑む。
「閨でお互いに気持ちよくなっていたんだ。弾みで普段とは違う行動をすることだってあるだろう? そういうほうが盛り上がる」
「ヴァレルは……なんとも思っていなかったの?」
アレットは震えそうになるのを我慢してヴァレルに問う。問いかける間、祈るような気持になる。ほんの少しでも、彼が自分に気持ちを向けてくれるのなら。
「……この話は無しだ」
どうして。どうしてヴァレルの方が傷ついたように顔を歪めるのか。
アレットは混乱する。どうして、ヴァレルの方が泣きそうな顔をしているの。
「寝ようか。ソレーヌを呼ぶ。ドレスを着替えておいで」
ヴァレルはおそらくアレットを抱くつもりでいたのに、それも今夜は無しにした。完全に興ざめだというふうに、ソレーヌを呼ぼうと呼び紐を引こうとする。
アレットは慌てて彼の腕に取りすがる。
「だめ! あなたが脱がせてくれるんでしょう?」
「どうしたの? ずいぶんと積極的だね。夜の行為はあまり好きじゃないだろう? 嫌いな男に毎晩のように抱かれて内心うんざりしていたんじゃないのか」
アレットは首を横に振った。
自分から言うのは、まだ恥ずかしい。この行為が好きかと聞かれたらどう答えていいのかアレットは分からない。
「だって……。結婚をしたら必要な行為……なのでしょう?」
アレットは必死だった。どうしたら彼を、ヴァレルに自分の心が伝わるだろう。
舞踏会のためにヴァレルはこの数日間アレットを求めてこなかった。
「ああそうだね。そういう風に教わっているのだから、俺に抱かれるのも仕方がないことだよね」
アレットは唇をかむ。恥ずかしがって、婉曲すぎる表現をしたのがいけなかった。
確かにアレットとヴァレルは政略結婚と言われればそうなのかもしれない。ヴァレルは己の家のため、打算してアレットを妻に迎えた。
アレットは親の決めた相手と結婚をしたに過ぎない。
「わたしは公爵家の娘だったわ。あなたと出会ったとき、身分の差があるのも承知していた。けれど……わたしは一度もあなたのことを蔑んだことは無かった。だって、フェザンティーエ家だって大昔は一介の騎士だったもの。立身出世をしたのが今か大昔かってことでしょう?」
アレットの言い分をちゃんと聞いたヴァレルは至近距離からアレットを見下ろした。
彼の焦げ茶色の瞳はガラス玉のようだった。何の感情も乗せていないようだった。ヴァレルはアレットの腕を掴む。そしてもう片方の手でアレットの頬を撫でた。手袋をつけていない素手の指先のざらりとした、少し乾いた感触が柔らかな頬の上をすべる。
「……じゃあ、きみは。俺に奉仕ができるとでも?」
「奉仕?」
アレットが聞き返すとヴァレルが皮肉気に口元を歪めた。
「俺がいつもきみにしていることを、今日はアレットがしてごらん?」
分かるだろう? と彼は少し屈んでアレットの耳元で続けた。
アレットは羞恥に頬を染めた。
いつもヴァレルがするようなことを、自分から行う? そんなこと、普通じゃない。アレットはそう叫ぼうとした。息を吸い込んだところでアレットは止めた。
彼はアレットを試している。そうやってアレットの出鼻をくじこうとしているのだ。
アレットは身を奮い立たせた。ヴァレルとは夫婦になったのだ。恥ずかしがろうが、夫の希望があれば叶えるのが妻だ。それに、ヴァレルはアレットを信じたがっているのかもしれない。
「わかったわ」
アレットは声を出した。
「わかったって、何が?」
「あなたの言う通りにするわ。あなたがいつもしているように……今日はわたしがあなたにする番よ」
一気に言って、アレットは決心が鈍らないように背中に手を回してドレスを脱ごうとする。夜会用のドレスは一人で脱ぎ着するのは困難な代物だ。
「だから、ヴァレルも脱がせるのを手伝って」
アレットは本気だった。この場の勢いで、なら彼の要求に応えられるかもしれないと本気で思っていた。
ヴァレルはそんな妻の様子を見て、手を伸ばしかけてから、その腕を引っ込めて部屋に垂れ下がっている紐を引いた。使用人を呼ぶためのものだ。
「ヴァレル!」
ほどなくしてソレーヌだろう、寝室の扉が控えめに叩かれた。
「入っておいで」
ヴァレルの声に合わせて扉が開いた。この時間までお仕着せを身にまとったソレーヌが姿を見せた。彼女は丁寧に礼をした。
「ソレーヌ、アレットのドレスを脱がせてやってほしい」
「はい」
ソレーヌは何かを問いかけるような視線をヴァレルに送る。無理もない。アレットは俺が脱がすから、と二人きりで寝室に入ったのだから。
「休む準備をしていたところ、すまないね。アレットは初めての舞踏会で疲れているようだから今日はお互いに別々の寝室で眠ることにするよ。明日はゆっくり寝坊しておいで、アレット。おやすみ」
ヴァレルはアレットの頬に挨拶のキスをして足早に寝室から立ち去った。
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