お茶会
その日もアレットは朝遅くまで寝台の中にいた。
ヴァレルに抱かれた翌朝はいつも寝坊になってしまう。早く起きて夫を見送りたいのだが、体の方がついていってくれない。ヴァレルはアレットを抱いた翌日も朝早くに起き上がって仕事に行くのだから体力があるのだなと感心してしまう。
(昨日のあれ、夢……じゃ、ないわよね……?)
アレットは掛け布の中で微笑んだ。
昨晩ヴァレルと肌を重ねた直後のことだった。いつもよりも深い営みはまるで本物の恋人同士の行為のようでもあり、アレットはつい彼に甘えた。
レティと呼んでほしいなんて、混濁した意識の中口にした。
そうしたらヴァレルがいいよ、なんて言ってくれて本当にレティとアレットを愛称で呼んでくれたのだ。
ばあやのコニーにそう呼ばれるといつまでも子ども扱いされて、なんて思うのに、ヴァレルに呼ばれると胸の中が喜びでいっぱいになった。夫婦だけの呼び方みたいで素敵だと思った。レティと呼ばれて嬉しくてヴァレルに体を引っ付けると彼は優しく抱き寄せてくれて何度もレティと繰り返し呼んでくれた。
今となっては夢なのか本当に起こったことなのか判別がつかない。
(ううん。夢じゃないわ。現実にあったことよ。そう思うことにしよう。そっちのほうが幸せだし)
とろとろとしたまどろみの時間を享受して、そろそろ起きないとまずいか、と思い寝台の傍らの紐を引く。
ほどなくしてソレーヌが「おはようございます。奥様」と言って寝室へと入ってきた。
幼少時から多くの召使に傅かれて生活をしてきたアレットである。朝の身支度も朝食も己で指示しなくとも必要なものは用意されている。
「最近、胡桃入りのパンの登場が多いわね」
寝台の上に簡易テーブルを置いての朝食が結婚してからの習慣になりつつある。
昨日もたっぷりとヴァレルに愛されたアレットは気だるさがのこる体を起こして、背中にたっぷりのクッションをあてがってもらって、寝台から移動することなく朝の栄養補給を行っている。
「お嫌いでしょうか」
「ううん」
「それに、このヨーグルトも美味しいわよね」
結婚した当初の朝食にはいくつもの種類のパンが用意されていた。バターをたっぷりと使ったクロワッサンに同じ生地にカスタードクリームを練り込んだ甘いものや、乾燥果実とナッツを練り込んだ固焼きのパン、それからふわふわの丸パンに胡桃入りのパンにゴマ入りなんていう珍しいものもあった。それがここ最近はアレットの好みに合わせるかのようにパンの種類は絞られていた。
「料理番に申しておきます」
ソレーヌはアレットの言葉に律儀に反応する。
「あ、もしかしてソレーヌがいろいろと助言をしてくれているの?」
「いいえ。わたくしにそのような権限はございません」
「そ、そうなの……」
ソレーヌは至極真面目な顔と抑揚のない声で答えた。それが彼女の通常の態度である。よく躾をされた侍女というのは余計な感情を主人の前で見せない。ソレーヌの家系は代々使用人を輩出しているのだ。
アレットは黙々と朝食を口に運んだ。
パンも卵料理もジュースもヨーグルトも美味しい。
美味しいけれど、ちょっと寂しい。たまにはヴァレルと一緒に食べたい。
やはり早起きをしなければならない。アレットは心に刻んだ。
「今日の予定をお伝えします」
アレットの皿の中身があらかた片付いた頃合いにソレーヌが本日の予定を伝え始める。間近に迫ったダガスランド評議会議長主催の舞踏会に向けた挨拶の練習とダンスの練習。それからシレイユからのお茶のお誘いがアレットのここ数日の予定だ。
ちなみにドレスはフラデニアで大量購入してきたドレスを着ることになっている。
予定を聞き終わり、ソレーヌが朝食を下げる準備をする。
アレットも朝の支度をしなければならない。
「そういえば、ソレーヌはどうしてわたしと一緒にダガスランドに付いてきてくれたの?」
アレットは素朴な疑問をぶつけた。
何しろ大陸を渡る大移動なのだ。嫁ぎ先にお気に入りの侍女を連れて行く令嬢はいるけれど、それでもさすがに大陸間を跨いだ結婚となると、侍女の方も躊躇うのではないか。何しろ船で三週間ほどかかるのだ。船代もそれなりにするからおいそれと里帰りできるわけでもない。
アレットとしてはソレーヌが側にいてフェザンティーエ公爵家時代と変わらずに接してくれるのは心強いが。
「提示された給金が公爵家の三倍だったからです」
ソレーヌはあっさりと事情を暴露した。
「あ、そうなの……」
身も蓋もない理由にアレットは拍子抜けした。
(うぅ……でも。ここは嘘でもアレット様が心配でしたので、とか嘘でも言ってほしかった)
給金に釣られたと言われたら、それはそれで切ない。
◇◆◇
翌日の午後、アレットはシレイユの住まいを訪れた。
「まあ、『夕焼け色』のかりかりナッツのタルトね! ここのお菓子は美味しくて評判がいいのよ」
シレイユはアレットの持参したお菓子に目を輝かせた。
用意してくれたのはベンジャミンである。彼曰く、夕焼け色のお菓子を持って行けば間違いないとのことだ。シレイユのこの食い付き具合を見れば彼の言葉は真実なのだろう。「今日は天気が良いから窓を開けているのよ。お庭から吹く風が気持ちいいもの」
シレイユは上機嫌でアレットを屋敷の庭に面した応接間に案内した。チェルスト地区にあるシレイユの住まいもアレットの現在の自宅と同じようにややこじんまりとしているが、庭はよく手入れがされておりいくつもの種類の花が目を楽しませてくれている。
今日の茶会はシレイユの友人たちが招かれており、アレットはそこにお邪魔をする形だ。気さくで裏表のないシレイユの友達だけあって、みんなアレットを暖かく迎え入れてくれた。どこかのヴァレルのように人のことをお高くとまった貴族のお嬢様という色眼鏡で見ることもない。
(うう~負けないもん。い、一応ヴァレルも話口調は朗らかで優しいし。油断すると嫌味が降ってくるだけで)
アレットは心の中でこぶしを振りあげる。
「こんにちは、アレット」
「こんにちは。アウラ、クラリス」
アレットは年上の友人たちに挨拶をした。
今日はもうあと何人か参加するとシレイユが伝えた。
金髪に灰青色の瞳の女性がクラリスで銀髪に紫色の瞳の女性がアウラである。どちらもシレイユと同じ年で既婚者だ。
「今日は夫の働くラ・メラートのケーキを持ってきたの」
アウラが楚々と微笑んだ。彼女の夫が働くホテル、ラ・メラートにある喫茶室のケーキはフラデニア風のケーキを出すことで有名なのだ。
「それって新作?」
クラリスが尋ねる。
「ええ。夫がそう言っていたわ」
「楽しみね」
「あら、アレットも夕焼け色のタルトを持ってきてくれたんだから。みんなたくさんのお菓子を持ってきてくれるから嬉しいなー」
「夕焼け色のケーキはわたしも夫も好きよ」
「二つの人気店のケーキを一日で食べられるなんて贅沢だわぁ」
いくつになっても甘いお菓子は女性を虜にするもの。
みなそれぞれに喜びを表す。
シレイユがそれぞれが持参した菓子を皿に盛るよう召使に指示を出す。
ほどなくすると、陶器の皿にケーキが乗せられてアレットたちの前に姿を現した。繊細なケーキを前にすると心が浮き立つ。アレットの瞳も釘付けだ。
「わたし、寄宿学校を卒業したばかりだからこうして先生たちのおとがめなしにケーキを食べることができて今とても幸せよ」
「わかる、その気持ち」
シレイユが大きく頷くとほかのみんなも同じように顔を上下に動かした。
みな寄宿学校経験者なのだ。十代の少女たちの教育は大まかに二つに分けられる。家庭教師を雇って自宅で教育を施すか、集団生活を経験させるために寄宿学校に入れるか、だ。ここに集う面々はみな寄宿学校での集団生活を経験している。学校は違えど、厳しい規則に耐えた者同士の共通の話題もあってアレットはクラリスやアウラともすぐに打ち解けることができた。
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