妹の忠告
ダガスランドの商業地区のとある建物にカイゼル商会の事務所は入っている。
先代が小さな商会を開いてから少なくない年月が経過をしていた。商会の売り上げが右肩上がりに増えていくのに従ってカイゼル商会の事務所も拡大を続けてきたし、ヴァレルが買った鉱山が当たったこともあり商会の規模は昔よりも大きなものになった。
それに伴い、数年前に事務所も引っ越しをしたのだ。中心部の商業地区の中でも大きな建物にカイゼル商会は入っている。
その事務所の商会長室、ようするに代表室に入ってくるなりシレイユはヴァレルに対してぴしっと右手を突き出した。
「ちょっと! どうしてあの歌姫がいつまでもあんなにも大きな顔をしてわたしに突っかかってくるのよ! お兄様、結婚をしたのならきちんとあの女とも関係を清算しておくべきだったわね!」
高い声を出す妹にヴァレルはさっそくげんなりした。
色々と誤解が混じりすぎている。ヴァレルは妹に着席を促しつつ口を開く。
「俺とフィアンメータはただの友人だ。誤解のないように」
「ただの友人ではないでしょう。大人の関係の、友人、でしょう」
シレイユも負けじと反論する。というか誤解しかない。
たしかに彼女とは友人だが、関係を持ったことが無いと言えばうそになる。とはいえ誤解は正しておかなければならない。
「……それはアレットと婚約をする前の話だ」
「婚約と同時に結婚したんだから限りなく黒に近いグレーよね」
「ここ一年以上彼女と関係を持ったことはないよ」
「お兄様のそういう事情はどうでもいいわ」
さすがに兄妹間で生々しい話はしたくないのかシレイユが眉間にしわを寄せる。それはヴァレルも同じなのでこれ以上余計な情報を与えるつもりはないが。
「それよりも、アレットを海に連れて行ったそうだね」
「え、ああ。昨日のこと?」
朝一番に手紙を書いて妹を呼び出したヴァレルである。その前にシレイユから詰問をされたわけなのだが。ヴァレルは本日の本題に入ることにした。
シレイユの問いかけにヴァレルは大きく頷いた。
「ああ。港に連れて行くなんて、どういう了見だ」
「え、ダガスランド観光案内といえば港じゃない。いいなぁ。わたしも一度でいいから大型客船に乗ってみたいなあ。ディルディーア大陸に行ってみたいなぁ」
シレイユが一転してうっとりとした声を出す。
シレイユは昔からディルディーア大陸に憧れているのだ。お転婆で突拍子もない行動をすることも多い彼女だが、そこは多くの女性と共通しているのか年頃になったころからかの大陸への憧れを強めている。
「それは俺じゃなくて自分の夫に言うことだな」
「わかってますよぉーっだ」
シレイユは頬を膨らませた。
「とにかく、今後安易にアレットを港に連れて行かないように」
ヴァレルはごほんと咳払いをして話を元に戻した。これを言いたくてシレイユを呼び出したのだ。
「えええ~。お兄様、いちいちうるさいわよ」
「うるさくない。アレットが逃げたらどうする」
跳ねっかえりの妹から素直な返事を貰えなくてヴァレルはつい感情的になった。
「逃げるって……なんでそうなるのよ」
「とにかく、だ。サメの顎骨標本に興味があるらしいからそれを見せてやった後は絶対に港には近づかないようにすること。いいね」
「いや、一方的すぎるでしょう。だいたい、何よ、アレットが逃げるって」
そこ、引っ張るのかとヴァレルはうんざりする。しかし口を滑らせたのはヴァレルの方だ。
ヴァレルは息を吐いた。
「この結婚は恋愛結婚ではないからね。彼女は実家の借金と引き換えにカイゼル家に嫁いできたんだ。表面では取り繕っているけれど、内心どう思っているかは分からないだろう?」
ヴァレルは表向きシレイユが納得しそうな理由を挙げた。案の定彼女は眉間に眉を寄せながらも兄の言う言葉を最後まで聞き終えて、「そういえばそんな裏話もあったっけ」とつぶやいた。
「彼女はフラデニアの名門公爵家のお嬢様だよ。一介の商人の家に嫁がされて、逃げだす機会を窺っているかもしれないじゃないか」
「お兄様って案外ひねくれた考えをするんだ。意外……。っていうか、彼女いい子よ。一緒に過ごしてわたしはそう思ったもの」
「きみの感想はどうでもいい」
大事なのはアレットがヴァレルの手元から逃げて行かないことだ。ある程度の自由は許しているけれど、もしも彼女が不審な行動をするようなことがあれば、ヴァレルも考えなければならない。
「ああそうですか。お兄様こそ、可愛いアレットを悲しませないようにね! 大人のお友達のことも、もっとちゃんとあと腐れなく清算しておいてほしかったわ!」
「だから彼女とは終わったことだと言っただろう」
「ふぅぅぅん」
シレイユは疑り深い目を向けてきたが、ヴァレルはこの件に関しては潔白だ。
しっかりと目を見据えてシレイユからの追及の視線を受け止めた。彼女はしばらく正面から兄を睨みつけていたが、兄の視線がぶれることが無かったことで溜飲を下げたのか、「じゃあわたし帰るわね」と言って出て行こうとしたので建物の出入り口まで見送りに行った。
戻ったヴァレルは室内にある革張りの重厚な椅子に座った。
一年前までは父の席だった商会代表の部屋と椅子。この席に座って仕事に精を出す父のことを誇りに思っていた。彼は馬車の事故で亡くなってしまった。急なことだった。
せめて妻の顔を見せたかった。ヴァレルは父にフラデニアの公爵家の娘を娶ろうと考えていると伝えていた。それを聞いた父は、「おまえは将来議員にでも立候補するつもりか」などと軽口をたたいた。素直に好きな女性だから、と伝えるには年を取りすぎていたヴァレルは、「議員はともかく、貴族の娘を妻にすれば箔はつきますから」と嘯いた。その言葉の奥の、ヴァレルの気持ちに父が気が付いたのかどうか。特に反対することもなく、まあ頑張れとだけ返された。
ヴァレルは書類に目を通す気になれなくて物思いにふける。
女性という生き物は本音と建て前を上手に使い分けることに長けている。なにしろ、あの純粋無垢な十六歳のアレットでさえ、内心ヴァレルのことを蔑んでいたのだ。いや、純粋無垢を演じていたのだ、彼女は。女とは恐ろしい生き物だ、とヴァレルは傷ついた心で思った。
昨日彼女にブローチを贈ったのだって、単に商売上付き合いのある人間に紹介された宝石商だったから買ってやったという意味しかない。アレットのことを考えて、というわけではなかった。
ものがダイヤモンドだったからだろう、アレットは目を輝かせて喜んだ。ヴァレルとの確執も忘れたかのように似合う、などと問いかけてきた。やはりアレットも光ものが大好きなそのへんの女性と変わらない。ヴァレルと仲良くなろうとする女は大抵物をねだってくる。
あまり贅沢をさせるつもりもないが、それでも一応ヴァレルの妻としてふさわしい装いは必要だ。今度二人で買い物に出かけてもいい。夫婦仲が順調だというアピールにも繋がる。
間違っても昨日のアレットの弾んだ声とにっこり笑った顔が可愛すぎた、というわけではない、とヴァレルは頭の中で念を押す。
大体、ダガスランドに連れ帰ってきてまだ十日も経っていないのだ。公爵家から売られたも同然にヴァレルの元に嫁いできて、ほぼ知識も与えられずに初夜を過ごして、きっとアレットは内心ヴァレルのことを忌諱しているに違いない。
だから昨日の笑顔に取り乱すなんてことはおおよそ自分らしくないのだ。早く忘れてしまえばいいのに、十六歳の頃の可愛らしい(いまも十分に愛らしいのだが)アレットの姿がちらちらと浮かんできてしまってヴァレルは何度も頭を横に振った。
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