愛おしいきみへ

 その日の晩ヴァレルは待ちきれないとばかりにアレットにむさぼりついた。

 実家の庭で少し意地悪を仕掛けたら自分の方が待ちきれなくなってしまったのだが始末に悪い。


 今はまだ見えないけれど、彼女の夜着の下には自分のつけた赤い花がいくつも散っている。その赤い印をもう一度辿っていく。


 アレットはかわいい。

 十六の頃も可愛かったけれど、十八になった彼女は可憐さの中に初々しく成長した色気のようなものあって、船旅の間ずっと悶々としていた。

 我ながらよく耐えたと思う。

 寝室を分けたからこそ出来得たことである。アレットの体を知ってしまった今はもう無理な話だ。


 ヴァレルの下でアレットの声が徐々に熱を帯びてくる。

 アレットに出会ったとき。ヴァレルはもういい大人だった。二年前の夏、ヴァレルは商用でディルディーア大陸を訪れていた。ちょうど鉄鉱石の鉱山運営が軌道に乗ったところだった。鉱山を買ったのは自分だが、年若いヴァレルでは各方面への顔がまだ利かず、カイゼル家として財産をつぎ込み鉱山運営にあたった。産出した鉄鉱石は高品質で高い値が付いた。


 父の勧めもあり物見見物がてら西大陸と呼ばれる(アルメート大陸からしたら東にあるのにおかしな話だ)ディルディーア大陸へと渡ったヴァレルはフラデニアで知り合ったフェザンティーエ公爵家に招待された。

 公爵家は当時から金策に喘ぎ、各方面に働きかけていた。故郷に帰ったときのよい話のネタになるか、と公爵家の招待に応じたヴァレルは公爵家のお城でかわいらしいお姫様と出会った。


 十六歳の少女はまさに開きかけたつぼみの少女だった。

 金色の髪に、澄んだ空色の瞳。白い肌はシミ一つなくすべらかで、健康そうな赤い頬をしている。無垢でこの世の穢れなど一度も浴びたことのないような、聖女のような少女。

 彼女は好奇心旺盛で、庭を散策しているヴァレルに臆することなく話しかけてきた。

 知らぬ土地の冒険譚がお好きらしい。ヴァレルも快く彼女の求めるままに自分の知る知識を提供した。


 ヴァレルは寝台に組み敷いた少女を眺めた。

 自分でも屈折していると思う。


 アレットを愛おしく思うのに、彼女の心が自分に向いていないことを自分自身に言い聞かせるように、あえて彼女との心の距離があいてしまうような皮肉や嫌味を言ってしまう。


 すぐ下に組み敷いている、己の妻とした少女はいま何を考えているのだろう。


 ヴァレルとアレットは、あの夏の休暇のとき、仲睦まじく過ごした。

 アレットにアルメート共和国の自然や開墾の歴史を教え、彼女は自分の住まう寄宿舎の規則がどれだけ厳しいかを聞かせた。


 はつらつとした瞳でヴァレルを見つめるその表情に一切の翳りは無かった。

 アルメート共和国に渡る人間は基本的には労働者階級だ。ともすれば犯罪者もいる。それこそ開墾初期のころは西大陸の流刑地として罪人が送り込まれた。

 こちらの国の人々、特に上流階級の人間はアルメート共和国の人間を成り上がりと見下す。礼儀も知らない人間だと。ヴァレル自身そういう陰口をいくつも聞いた。近年ではフラデニアや近隣諸国の有閑階級の人間だってアルメート共和国で新事業を立ち上げようとあえて移民をしてくる人間もいるが、それはまだごく少数。

 陰口を聞き流す能力を身につけたヴァレルだったが、あのときはつい心を許してしまった。可愛らしい無垢なアレットに。


 自分を無邪気に慕って来る少女が可愛いと、恋をした。あれはたぶんヴァレットにとって本当の意味での初恋だった。

 二十六の男が初恋などと、どの口が言うかと突っ込まれることは必死だろうが、ヴァレットはしみじみと思ったのだ。今まで恋だと思っていたのはなんだったのか。こんなにも可愛くて守りたいと思う女の子がこの世にいるものなのか、と感じた。

 空色の瞳がヴァレルのみに注がれて、さくらんぼのような赤い唇からヴァレルと名前を呼ばれることに歓喜した。


 それなのに。


「きみは俺のことを内心蔑んでいたんだろう? 元は労働者階級の家柄の男なんて、お断りなんだろう?」


 彼女はその愛らしい唇でヴァエルを拒絶した。彼女はほかの貴族の令嬢とは違うと思っていた。眩しいくらいにはつらとした瞳で笑いかけてくれたアレット。思えばあの時からヴァレルはアレットに囚われているのだ。


 嫌いになれればよかったのに。結局きみも陰では成り上がりものを蔑んでいるんだろうと罵ればよかった。

 けれどもあのときすでにヴァレルは金色の髪をした美しい姫君に心を奪われていた。

 たとえ自分のことが嫌いでも、好きになってくれなくてもヴァレルはアレットを欲した。可愛らしいアレットを自分以外の人間が抱くなど、想像しただけでその誰かのことをヴァレルは撃ち殺したくなる。


 だからフェザンティーエ公爵家が債務過多でいよいよ破産寸前だと知ったときは内心歓喜した。高貴な血筋ではないけれど金ならある。自分で買った土地から出た鉄鉱石を売って稼いだ金だ。古めかしい貴族の中には地代以外の領地運営以外の収入を持つことを忌諱する者もいるが、ヴァレルにしてみたらそちらのほうがおかしい。生きるためには金が要る。稼ぐことの何が悪い。


 自分で稼いだ金のおかげでヴァレルはアレットを手に入れることができた。

 公爵家に恩を売ったのだ。最初は渋っていたガブリアスだったが、最終的にはヴァレルの申し出を受け入れた。債務の返済期限が迫っており、抵当に入れていたルーヴェの屋敷を売らねばならぬところまできていたからだ。それに彼には子供が四人もいる。アレットの下にもまだ娘が一人いる。どこぞの貴族に嫁がせたいなら二番目の娘を嫁がせればいい。アレットを自分にくれるだけで公爵家は破産の危機を逃れるどころか、定期的な金銭支援も約束する、とヴァレルはガブリアスに囁いた。


 結果、公爵はヴァレルにアレットを売り渡した。

 そう、ヴァレルはアレットを買ったのだ。フェザンティーエ公爵家に取引を持ち掛けたのは自分だから。


 そうまでしてもアレットを手に入れたかった。

 可愛らしい、愛するアレット。彼女を側に置いておきたい。幼稚な独占欲を発揮したヴァレルは彼女の寄宿学校卒業に間に合わせるためにこの数か月忙しく立ち回っていた。


 意識を手放した妻を、ヴァレルは優しく撫でた。


「可哀そうなアレット。こんな男に買われてしまって」


 本当に、彼女が可哀そうだ。

 たとえ彼女が内心自分のことを嫌っていても。金で妻を買うような男だと蔑んでいても。それはしかたのないことだ。


 それでもヴァレルはアレットを欲した。

 美しい公爵令嬢を自分のものにしたかった。

 これは復讐なのか、愛なのか。どちらなのだろう。

 幼稚な独占欲を発揮した自覚なら十二分にある。


「どっちにしても、きみの心は永遠に手に入らないんだろうな」


◇◆◇


 早朝目が覚めると、ヴァレルの隣でアレットがすぅすぅと穏やかな寝息を立てていた。こちらにしがみつくような形で睡眠をむさぼるアレットにヴァレルは口元をほころばせる。


「おはよう、可愛いアレット」


 無垢な寝顔の妻を見下ろし、ヴァレルは額に口づける。

 彼女がまだ眠っていることをよいことにヴァレルは何度も髪の毛を梳く。金色の細い絹糸のようなそれは柔らかで、いつまでも触れていたくなる。

 よほど疲れているのかアレットは目覚める様子もない。


(まあ無理もないな。あれだけ抱きつぶしたんだから)


 娼婦相手でもあそこまで激しくしないのではないか、というくらいヴァレルは思い切りアレットを抱いた。この年になって手加減なしに、欲望のままに愛おしい人を抱くなんてほんとうにしょうもない。


 アレットの寝顔は天使のようで見ていて飽きない。

 白い肌には点々と赤い鬱血痕が散っている。昨日ヴァレルが付けたものだ。

 ヴァレルはもう一度彼女の頭を撫でたあと寝台から起き上がった。

 貴族と違って実業家の朝は早い。

 着替えて食堂に降りていくとベンジャミンがやってきた。


「おはようございます、旦那様」


 父が亡くなった後、ベンジャミンはヴァレルのことを旦那様と呼ぶようになった。カイゼル家の新たな当主になったのだから、ということだ。ヴァレルはまだこの呼ばれ方に慣れない。自分はまだ二十八で、おぼえることもたくさんあるし経験も浅い。しかし、彼からこう呼ばれるとこれからは自分がカイゼル家を背負っていくのだとより強く胸に刻むことができる。


「おはよう、ベンジャミン」

「そろそろ新婚ボケも返上する時期でしょうか」

「あはは。そうだね。書類が溜まっていくばかりだから本腰を入れて消化していかないとね」


 鉱山運営の他に、父の始めた商会の運営も今はヴァレルが行っている。

 ほかにも投資やら商談やら、放っておくとスケジュール帳から空白が無くなる。


「さすがは旦那様です」

 ヴァレルは朝食もそこそこに立ち上がる。

「そうだ。アレットは今日も朝遅いと思うから寝かせたいだけ寝かせてあげるように。あと、退屈そうにしていたら近くを案内してあげるといいよ。ドレス商をここに呼んでもいいし。なにが好きかな、彼女は。いっそのこと菓子店を買収しようか」

「そういえばいくつか招待状が届いております」

「誰から?」

 ヴァレルが聞くとベンジャミンはダガスランドの有力者の名前を挙げていく。

 議員や実業家の名前をヴァレルは右から左に聞き流していく。


「お披露目会、もしくはこちらでの結婚式はどうなさいますか?」

「そうだね。二度も結婚式を挙げるのはどうかと思うけど、一度は何かしらやらないといけないね」

「でしょうとも。それに、夏の舞踏会のこともございます」

「ああ、あれか」

 ヴァレルは嘆息した。


 一応ダガスランドにも上流階級というものが存在する。共和国のこの国には王様はいない。議会で選ばれたアルメート最高議長が実質のトップだ。


「夏の舞踏会の日程を考慮して奥様をフラデニアまで迎えに上がったのでしょう?」

「……まあ。そうだね」


 ヴァレルは適当に相槌を打つ。本当のところは寄宿学校を卒業したアレットがフラデニアの社交界に顔を出す前にさっさとダガスランドへ連れて帰りたかっただけなのだが。


 毎年夏になるとダガスランドは人でにぎわう。

 ディルディーア諸国を真似た社交界なるものも一応存在し、その中でも一番格式高いのが議長夫妻の主催する舞踏会だ。フラデニアやそのほかの国でいうところの王室主催の夜会という位置づけか。多忙な議長に代わり舞踏会を取り仕切るのは議長夫人で、彼女に挨拶をすることで少女たちは社交界デビューを果たす。


 なんでも歴史ある国の真似をしたがるこの国らしい発想である。

 去年までのヴァレルは適当に顔を出して、適当に何人かと踊って適当な時間に退出をしていた。今年は夫婦そろって、アレットにとってはダガスランド社交界初の顔見世ということか。


「たしか拝謁を真似した議長夫妻への挨拶なるものがデビューの娘には必要だったんだっけ」

「そうでございますね。シレイユ様もあのときばかりは大変に努力をなさっておられました」

 ヴァレルは数年前の出来事を思い出す。お転婆真っ盛りだったシレイユもあのときばかりは長いドレスの裾を踏まずに歩く練習ばかりをしていた。


「懐かしいな。アレットにも必要だろうか」

「念のため教師を手配しておきましょう。毎年挨拶の手順が微妙に変わるとのことです」

「……面倒だな」

 ヴァレルはぼそりと呟いた。

「旦那様」

 ベンジャミンはやんわりと主人をたしなめる。


「ああ、よろしく頼むよ。あとは、そうだな。舞踏会で話す相手がいないと寂しいだろうからシレイユに言って彼女の友達を紹介してもらうなり茶会に招待してもらうなり頼むか。ベンジャミンあいつにアレットの世話を頼むと伝えておいてくれ」

「それがよろしいですね。さすがの采配です、旦那様」

「どうかな」

「いえ、ご立派です」

「俺はそろそろ出る。くれぐれもアレットのことをよろしく頼むよ」

「存じております」


 ベンジャミンは恭しくお辞儀をしてヴァレルを送り出した。

 ヴァレルは馬車の中で独り言ちた。「いや、絶対にわかっていない」と。

 ヴァレルのよろしく頼むという意味は、アレットが自分の元から逃げ出さないようにしっかりと見張っておけ、ということなのだから。

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