実家訪問

 その日の夕暮れ時。

 仕事から帰宅をしたヴァレルがアレットの元へ姿を見せた。


「体の具合はどう?」

 部屋に入ってくるなりアレットのことを気遣うものだからアレットは目を瞬いた。彼がアレットに対して優しい発言をするだなんて。しかも二人きりの時に。

「……」

 アレットの訝し気な視線に気が付いたのだろう、ヴァレルは小さく咳払いをした。


「俺だって、一応妻の体調を気遣う気概くらい持ち合わせているつもりだよ」

「別になにも言っていないけれど」

「ああ、そうだね」


 つい可愛くない返事をしてしまうアレットである。

 もっと可愛らしく甘えられたらいいのに、どうせ彼は自分のことを嫌っているからと思うとなかなかそれらしくも振舞えない。


「それで、体調は?」

 彼は再び尋ねてきた。

「平気よ」

 アレットは平静に答えた。

「ふうん。てことは今日もきみを抱いても構わないっていうこと?」

「えっ?」


 アレットは目に見えて狼狽した。

 まだ自分の中でいろいろと割り切れていないのに。

 アレットのあからさまな動揺をヴァレルはどう思ったのか。


「初めての次の日は色々と体に違和感があるって聞くから、今日はがっつくつもりはないよ」

「……そう」


 アレットは肩の力を抜いた。

 実はまだ足の付け根に違和感があるからだ。

 ヴァレルがアレットとの距離を縮める。ずいっと前に進み出てくる。


「俺に抱かれるのは嫌だった?」


 ヴァレルはアレットの頬に手を添えた。

 身をかがめたヴァレルはアレットの耳元でそんなことを聞いてくる。

 アレットは思わず目をつむる。

 恥ずかしくて答えられない。そんなこと、淑女の口から言えるものではないというのに。


「……嫌でも、きみはもう俺の妻だよ」


 アレットが答えられないでいると、再びヴァレルのつぶやきが落ちてきた。

 アレットは顔を上げる。

 少し冷淡な瞳をしたヴァレルの視線と絡み合う。

「……あ」


「そういえば、今日は何をしていたの?」

 戸惑ったアレットのことなど眼中にないように、彼は話題をするりと変えた。


「え、っと。特に何も」

「ふうん? ダガスランドはきみには退屈な街かな?」

「そんなことないわ。でも、わたしこの地に到着したばかりなのよ。誰の案内もなしに、どこに出かけたらいいのかもわからないわ」

 言える時に言っておかないと、の精神でアレットはすこしばかり強気な声を出す。

 アレットの言葉にヴァレルはしばし押し黙る。

「それは、たしかにそうだね」

「あなたが、ダガスランドの街を案内してくれる?」

 アレットはそろりと切り出した。

 もしかしたら、という淡い期待に胸が膨らむ。


「あいにくと俺は忙しくてね。適任がいるから紹介するよ」


 あっさりと躱されてしまいアレットは内心がっかりしたが顔には出さなかった。

 それにしても適任者とは誰だろう。

 アレットは首をかしげた。


「俺の妹のシレイユ。着いて早々だけれど、明日紹介するよ。俺の母と妹だ。二人の前では、仲の良い夫婦役を演じるようによろしく頼むよ」


 ヴァレルは共犯者にするような少しだけ人の悪い笑みを顔に張り付けた。


◇◆◇


 翌日、アレットはソレーヌによって飾り立てられた。既婚女性らしく露出の少ない、けれども若々しいすみれ色のドレスだ。

 完成した姿をアレットは姿見で確認する。


(うーん……既婚女性に見えるかしら……。胸がもうちょっとあればいいのになぁ)


 くるりと回って、それから胸元に視線をやって少し落ち込む。

 無くはないけれど、もうちょっとあったらドレススタイルももっと完璧なのに、がアレットの己の胸の大きさに対する評価だ。


「アレット様。旦那様がお待ちです」

 まだ鏡の前でにらめっこをしているアレットをソレーヌが急かしてきた。アレットは我に返り、ソレーヌからレースの手袋を手渡された。

「おっと。いけない」

 アレットが玄関に到着をするとヴァレルがすでに待っていた。

「ごめんなさい。遅れてしまって」

「いや。いいよ。女性は支度に時間がかかるものだからね」


 ヴァレルは朗らかに答えた。

 玄関には彼の他にもベンジャミンの姿がある。

 彼の前だからいい格好をしているに違いない。

 ヴァレルはアレットの手を取り、そっと口づけを落とした。


「可愛いアレット。では、行こうか」

「え、ええ」


 人前でのヴァレルの愛想の良さにアレットの頬が若干引きつった。ヴァレルは俳優の資質があるのではないだろうか、などと考える。

 それに悔しいのは、こうして口づけを落とされるとアレットの胸の奥が高鳴ることで。淑女として扱ってくれることが嬉しくってアレットの鼓動は鳴りっぱなしだ。


「それではいってらっしゃいませ。旦那様。大奥様とシレイユ様によろしくお伝えください」

 ベンジャミンが見送る中、馬車はゆっくりと動き出す。


 馬車が通りを走り出すと、さっそくヴァレルから忠告が飛んできた。

「いいかい。母と妹の前では、くれぐれも愛想よく振舞うように。俺だって、きみと仲睦まじい夫婦に見えるよう努力をしているんだ。きみも俺にきちんと合わせるように」

 もうちょっと言い方があるのではないだろうか。アレットは悲しくなった。仲睦まじい夫婦に見える努力だなんて。


「返事は?」

「はい」

「そういうことでよろしく」


 アレットに念押しをして満足したのか、それ以降彼がアレットに話しかけてくることは無かった。

 アレットはこっそり隣を伺ったが、彼はアレットではなく反対側の窓から外を眺めている。今こうして二人きりの空間が苦痛なのかもしれない。アレットの心はいくつもの小さな針でちくちくと刺されているような感覚になる。態度で示されると、悲しくなる。

 車輪の回る音と、馬の蹄の音だけが響き、アレットも何とはなしに窓の外に視線をやった。煉瓦造りの家々を通り過ぎ木立に出る。それを抜けると小さな民家がぽつぽつと現れ、目抜き通りと思しき道を通り過ぎ、今度は坂道になった。


 そうすると大きなお屋敷街が現れた。

 馬車は屋敷街のうちのとある屋敷へと侵入していく。

 馬車寄せに停まり、アレットはヴァレルの手を借りて降り立った。


 大きな屋敷である。

 中に案内をされ、応接間へと入る。大きなガラス窓の向こうには青く輝く海が見えた。西端海である。あの大海原の向こう側にアレットの故郷ディルディーア大陸、そしてフラデニアがある。


「ようこそ、お越しくださったわね」

 応接間で待っていたのは、黒髪を後ろで一つにまとめた壮年の女性。顔立ちがヴァレルと少し似ている。

「はじめまして。アレット・カイゼルと申します。ヴァレル様の妻になりました。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません、エルヴィレア様」

 アレットは慌てて挨拶をした。少しぼんやりとしてしまった。

 エルヴィレア・カイゼル、ヴァレルの母はアレットの挨拶に瞳を和ませた。


「はじめまして。こちらこそ、こんななりでごめんなさいね。それと、ルーヴェにあなたを迎えに行けなくてごめんなさい。商会のほうもあるし、一家全員大陸越えというわけにはいかなくて」

「いえ。とんでもありません」


 アレットは慌てて手を振った。

 今エルヴィレアは黒色のドレスを着ている。ヴァレルの父であり、彼女の夫は約一年前に事故死している。故人の喪に服しているのだ。


「ああそれと、紹介するわね。ヴァレルの妹のシレイユで、こっちが娘のエルサとシレナ。はいはい、二人ともご挨拶できるかしら」


 エルヴィレアは同じ室内にいた年の若い女性を紹介する。

 栗色の髪を既婚女性らしく結い上げた目の大きな女性だ。少しふっくらした頬はピンク色に染まっている。彼女はアレットの方を物珍しそうに見つめている。


「はじめして。アレットおねえさま」

「こんちゃ、おねちゃま」


 幼い女の子が二人、立て続けに挨拶をする。上の子が四歳で下が二歳だと聞いていた。舌足らずなしゃべりかたが可愛すぎてアレットの胸が撃ち抜かれた。


(か、かわいい。可愛すぎる)


 そういえばうちにも可愛い弟がいたっけ、なんて思い出す。アレットは四人弟妹の長女なのだ。

 二人ともそれぞれ金茶色の髪と栗色の髪をしている。透き通る肌に、レエスのたっぷりとついたエプロンドレスが愛らしい。

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