初夜

 薄い夜着が心もとない。

 ルーヴェで結婚式をあげたのだから、夫婦が同じ寝室で眠るのはごく当然のこと。

 二人きりの寝室で、アレットはヴァレルに抱きしめられ、身を固くした。

 夫から求められたら応じるのが妻というもの、と聞かされた。求めとは具体的にどういうことなのか、と尋ねたらとにかく身を任せなさいと言われた。


 それが、こういうことなのかもしれない。

 アレットはヴァレルに抱きしめられたまま。

 ヴァレルの両腕の中に閉じ込められて、アレットは身動きができない。最初に動揺して、けれど相手は恋するヴァレルだから最初の驚きが過ぎ去れば拒否感はなかった。ただ、これまでの彼の行動とは違っていて、そのことが胸の中に小さなわだかまりを生んでいる。

 力強い腕から、いつものヴァレルとは違う何かを感じ取っている。


「アレット、顔を上げて」

 ヴァレルに言われるままアレットは彼を見上げる。

 すぐに口づけが落ちてきた。

 結婚式で形式的に交わした触れるだけの口付けを何度も繰り返される。何度も唇をついばまれる。アレットが戸惑っていると、「口を開いて」と言われた。

 言う通りにするとすぐにヴァレルがアレットの唇に覆い被った。今までにない深い口づけにアレットは動転する。


 びっくりして、アレットは身をよじった。逃れようとすると、ヴァレルはアレットを強く抱え込む。頭の後ろを抑え込まれ、彼はアレットの呼吸ごと飲み込む様に舌を絡めていく。

 首を振って逃れようとしても結果は同じ。それどころかぎゅっとアレットを抱く腕に力がこもる始末。

 こんな口づけの仕方なんて、知らなかった。


「っ……」

 こんな感覚知らなくて身をよじった。それに呼吸ができなくて苦しい。

 ようやくヴァレルが唇を離してくれて、アレットは何度も呼吸をした。空気が美味しい。

「こういうやり方ははじめて? それとも、俺との口づけは嫌?」

「わたし……こういう……の、はじめてで」

 アレットは必死になって反論をした。

 空気を吸いながら、息も絶え絶えに。

 ヴァレルはふっと微笑んだ。

「わかっているよ。公爵家のうぶなお姫様だからね。きみは。やさしくしてあげるよ」


 なにが、とは聞けなかった。

 抱きしめられたままヴァレルによって寝台の端まで連れてこられ、なし崩し的にすとんと腰を落とし、その上にヴァレルがのしかかってくる。

 仰向けに倒され、彼の瞳とかち合った。

 ヴァレルはふっと息を吐いた。蠱惑的な微笑みに、アレットは思わず見とれてしまった。


 ヴァレルはゆっくりとアレットの髪の毛を梳いていく。アレットに覆いかぶさったままの彼の双眸に射抜かれて、アレットは目をそらすことができない。

 もう一度彼の顔が近づいてきて、今度はアレットの首筋に唇を押し付ける。それと同時にアレットの纏う薄布を持ち上げた。

 ヴァレルの固い手がアレットの柔肌をなぞっていく。

 アレットは身じろぎをした。


「アレット。きみはもう俺の妻になったんだ。夫婦が寝台の上で何をするのか、きみだって聞かされているはずだろう?」

「しら……しらない。……こんなの……聞いていないわ」

 アレットは必死になった。

「ふうん。公爵家の嫌がらせかな……。ちなみに、結婚について、何を教えられた?」

 アレットは頬を赤くし、瞳を潤ませながら「夫に……求められたら……身を任せなさいって……」と小さな声で伝えた。

「まあ、合っているといえば合っているね」

「え……?」

「いいかい。アレット。これが夫に求められているということだよ。きみは、これから俺の求めに応じるんだ」

 ヴァレルはアレットの髪の毛を後ろへ梳いた。

 彼の姿が少しかすむ。ゆっくりと近づいてきて、それからアレットと肌を重ねていく。

 はじめての夫婦の営みを終えたアレットは、さいご意識を手放すように眠りについた。



◇◆◇


 自分がいつ眠りについたのかもわからなかったアレットは翌早朝に夢と現の狭間を行き来した。

 なんだか体がすーすーして心もとない。

 アレットは熱を求めてすぐ近くの暖かいものに抱き着いた。

 それはちょうどよい温度加減で、アレットは安心して再び夢の中へと舞い戻る。

 それから少しして、アレットの隣で何かが動く気配がした。


「んんー」

 アレットは寝台の振動にくぐもった声を出す。

「おはよう、アレット。まだ寝ておいで」

 優しい声が落ちてきた。それから、少しだけ固い手のひらの感触も。

 ゆっくりとアレットの髪の毛を後ろへと梳いていく。


「……朝……?」

「まだ早いから、アレットはゆっくり寝ているといいよ」

 ずいぶんと柔らかな声で、その声が懐かしくてアレットは小さく頷いた。

「……撫でて」


 懐かしい声に嬉しくなってアレットは甘えた。そうしたら空気が緩んだ気配を感じて、その直後にもう一度ゆっくりと頭に手のひらが添えられた。


 嬉しくてアレットは夢心地になる。

 ああもしかしたら、これも夢のなのかもしれない。だって、ヴァレルの声がとてもやさしい。あの夏の日のように、アレットに優しく接してくれている。だからきっとこれは夢。夢ならまだ寝ていなくちゃ、と思ってアレットは再び眠りについた。


 実際にアレットはまだ疲れていたから。

 次にアレットが目覚めたのは昼前のことだった。

 ずいぶんとよく寝ていたようで、隣にいるはずの夫ヴァレルはすでに出かけたあとだった。


 アレットはゆっくりと身を起こした。何も身につけていない自分の身体を見下ろした。

 足の付け根に違和感を感じる。

 アレットはゆっくりと昨晩の出来事を思い出す。

 夫に身を任せなさいと言われたことの意味を考える。彼との行為を思い出してアレットは顔を真っ赤にする。


 アレットは寝台の上で固まった。

 どのくらいそうしていたのだろうか。

 しばらくすると控えめに扉が叩かれて、アレットは「起きているわ」と答えた。

 ほどなくしてソレーヌが入室をしてきた。アレットは慌てて上掛けをかき寄せた。侍女相手だが、なんとなくいけないものを見られたような感覚に陥った。


「アレット様。お加減はいかがでしょうか」


 こんなときでもソレーヌは使用人として完璧に自我を消し去り、いつも通り抑揚のない声で主人の調子を尋ねてくる。

 昨日となんら変わらない彼女の様子にアレットは内心ほっとした。


「ええと……」


 ホッとはしたが、今日のお加減がどんな具合なのか言うのは躊躇われた。

 アレットが躊躇しているとソレーヌは「朝食の準備ができておりますのでお持ちします」と言って扉を閉めた。


 一人取り残されたアレットはあたりを見渡した。

 自分の夜着はどこにいったのか。きょときょとと首を回していると、ガウンを見つけたのでそれを体に引っかける。


 それにしても体がだるい。倦怠感のせいで動く気にならない。

 もう一度寝台に横になっているとソレーヌが戻ってきて、寝台の上に簡易テーブルが置かれた。テーブルの上にソレーヌは無言で朝食の乗った皿を置いていく。温めなおしたパンや卵料理などを見ていてもあまり食欲がわかない。


「食べたくな……」

「アレット様。少しでも良いので召し上がってください」


 アレットは仕方なしにオレンジジュースの入ったグラスを手に持つ。一度口をつけるとぐびぐびとグラスの中身を飲みほした。

 昨日の夜はたくさん声を出した。喉が渇いていて当然だった。

 一度空腹を刺激されると次々に手が伸びていって、アレットは用意された朝食を食べきった。ちょうどよい量を持ってきたソレーヌの勝ちである。


 人心地着いたアレットは意を決してソレーヌに尋ねた。

 内容は主に夫婦の営みについて。貴族家の娘は、夫婦の営みの核心について伝えられることのないままに嫁ぐことがままある。今回のアレットもその典型で、彼女は大いに混乱をしていた。今この屋敷で頼りになるのは実家から付いてきてくれたソレーヌだけ。


 ソレーヌはアレットの言いたいことを察し、簡潔に答えてくれた。

 彼女の話を要約すると、昨日の夜の行為は夫婦間で交わされる営みのとのことで、子供を授かるには避けては通れないこととのことだ。

 あんな恥ずかしい行為が子供を授かるためのものだなんて、アレットは少なからずショックを受けた。今までこの手のことは何一つ教えられずに暮らしてきたのだ。


 ソレーヌに促されるまま湯に浸かり朝の支度を整えたアレットは部屋から出てあらためて屋敷の中を探検することにした。

 探検が終わるとアレットはこじんまりとしたサロンへと足を向けた。ソレーヌが冷たいお茶を用意したと伝えてきたからだ。

 お茶で喉を潤していると、扉が控えめに叩かれた。入室を許可すると、実年齢以上に老成した雰囲気を持つ執事、ベンジャミンが静かに部屋へと入ってきた。


「アレット奥様。あらためてよろしくお願い致します」

 ベンジャミンが丁寧に頭を下げてきた。

「こちらこそ、これからよろしくね。至らないところもあると思うけれど、早くアルメートに慣れるよう、頑張るわ」


「フラデニアとは少々勝手が違うこともありましょうが、なにかあればわたくしめにお知らせください」

「このお屋敷はあまり大きくはないのね。この辺りの家はみんなこのくらいの規模なのかしら」

 ダガスランドのチェルスト地区にあるというこの屋敷はアレットの知る貴族の屋敷に比べるとこじんまりとしている。とはいえ、屋敷の広間は舞踏会も開けるくらいの大きさではあるのだが。

「チェルスト地区のお屋敷群は郊外のそれよりもいくぶんこじんまりとしています。ブレックス地区にあるカイゼル家のお屋敷はここよりも広いですよ」

「そうなの」


 アレットは頭の中でダガスランドの地図を思い浮かべる。

 海に面した都市は、開墾当時は無計画に造成され、都市機能が広がっていったがアルメート共和国がロルテーム王国から独立をし、共和国としての歴史を踏み出した頃に都市計画が制定され区画整備がなされた。

 チェルスト地区はダガスランドの北側に広がる住宅地だ。

 アレットは屋敷の大きさに頓着しない。当分はヴァレルと二人きりなのだから(使用人はいるけれど)そんなに大きな屋敷でなくてもいいだろう。

 地上階は控えの間や応接間、図書室、晩餐室などがあり、上階に夫婦の寝室やそれぞれの部屋に家族用の居間と客間などが設えてある。

 

「旦那様はそれはもう奥様を迎え入れるのを楽しみにしていましたよ」

「だとしたら嬉しいわ」


 アレットは無難に答えておいた。心の中ではそれはきっと自分の家に箔をつけることができるからではないかしら、と皮肉気な言葉を浮かべてしまったが。

 なにしろ、彼から聞かされているのである。この結婚はアレットへの復讐と自分の家の箔付けのためだと。


「入用なものがあれば遠慮なく申し付けてください。なんでも言う通りにするように、と旦那様から言い使っております」

「入用は……とくにないけど」

「ああそうですよね。旦那様はフラデニアで奥様の嫁入り支度をたくさん買いあさってきましたからね。やはり馴染みのある品物の方がよろしいでしょう」


 ベンジャミンはとくと頷いた。

 嫁入り道具として持ち込まれたドレスや宝石、こまごまとした日用品は昨日のうちにすべて屋敷の、アレットの衣裳部屋に運び込まれている。昨日の様子を思い出したアレットは、たしかにあれは大変な量だったとくらりとする。


「あの、ヴァレルはそんなにも……その、お金持ち……なの?」

 実家の債務がどのくらいあるのかなんてアレットには分からない。けれど、用意されたドレスも宝石も値が張るのは一目瞭然の一級品ばかり。

「それはもう。大金持ちですよ」

 二つ名知りませんか、と逆に聞かれた。

 知っている、とアレットは遠慮がちに頷いた。


「旦那様は鉄鉱王と呼ばれておりますよ。ヴァレル・カイゼルといえば、二十三の時に買った土地から質の良い鉄鉱石が産出し、その後の鉱山運営によって巨万の富を手に入れた、まさにアルメート出世物語を絵に描いた人物です」


 ベンジャミンはまるで自分のことのように得意気に語り出した。

 アレットも概要は知っている。

 ヴァレルの祖父が裸一貫でダガスランドへと移住をし、彼の父の代で小さな商会を開いた。ヴァレルの父は地道に商売を広げていき、息子を無事アルメート大学へやった。大学を卒業したヴァレルは父から金を借り、共和国北にある土地を買った。鉱山が眠っているなんて眉唾の話に乗ったのだ。当時周りの人々は彼を嘲笑した。さすがにそこまで都合よくダイヤモンドが出るはずもない、と。結果は、ダイヤモンドではなく鉄鉱石が産出した。


 鉄は近年急速に需要の伸びている工業用品だ。新しい時代に無くてはならない不可欠な鉱物で、質の良い鉄鉱石の産出にカイゼル家は一家を上げて鉱山経営に乗り出した。


「そうして旦那様は鉄鉱王と呼ばれるようになったのです」


 いつの間にか場所を食堂に移動しての、ベンジャミン主催ヴァレル・カイゼル出世物語披露会になっていた。

 その内容はアレットでも調べられる事柄ではあったし、実際に知っていたのだが。アレットはあえて口を挟まなかった。ベンジャミンの語るヴァレルの人物像がとても素敵だったからだ。人望があり、快活で顔の広いヴァレル。横暴な雇い主が多い中、ヴァレルは従業員の労働時間をきちんと管理し、一定の休息日を設けているとベンジャミンは教えてくれた。この時代、従業員の権利などないに等しいのに、彼は鉱山で働く人間の補償問題にも取り組んでいるそうだ。

 一通りベンジャミンの話を聞き終えた頃には夕方近くになっていた。


「ありがとう、色々と教えてくれて」

「いえ。旦那様のことで知りたいことがあればいつでもおっしゃってください」

「ええ、そうね」

 アレットは笑顔を作った。

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