新しい街
ルーヴェでの結婚式を終えて結婚契約書に署名をし、アレットはヴァレルの妻になった。
結婚式が終わると早々にアレットは船に乗せられた。
フラデニアの西海岸から出ているアルメート共和国行の大型客船である。
船の旅は約三週間。人生初めての船の旅である。
アレットは頭の中に地図を思い描く。
フラデニアの南西の港から、隣国を経由しての船旅。西端海を三週間ほどかけて航海した先にたどり着くのはアルメート大陸という新大陸。
新大陸と呼ばれるのは、彼の地にディルディーア大陸から入植を始めてまだほんの百五十年だか六十年だかしか経っていないから。もちろんかの大陸には先住民族もいるし、王国もあるのだが。先住民族が、何かの理由で定住していなかった土地をこちらから移住した人々が開墾し国を作り上げていった。それがアルメート共和国である。
「新婚生活が船旅というのはさすがに申し訳ないからね。先に謝っておくよ。船の上だと色々と不便もあるだろうし」
結婚式が明けた翌日にはもう移動のための馬車に乗せられて、数日後には船の上。
慌ただしいことこの上ない。
もうすこしゆっくりしていてもよいのでは、と思わなくもないのだがヴァレルにも予定があるのだという。これから夏にかけての季節はアルメート共和国の首都ダガスランドも社交期なのだ。
ダガスランドに生活基盤のあるヴァレルはフラデニアでの社交よりも故郷で妻を見せびらかしたいらしい。
何しろそう本人に言われたから。
(せっかくの戦利品なのだから、思い切り自慢したいとか……わたしは最初からもの扱いよね。いえ、わかっていたけれど)
はあ、とため息を吐いた。
結婚したのだからもうちょっと甘い雰囲気になるかも、などと期待したのが間違いだった。
「きみはもう俺の妻になったんだから、そんな嫌そうにため息を吐かないでほしい」
「これはべつにそういう意味では」
「どういう意味でもいいけれど。人前では演技でもいいからにこやかにしていてもらわないと困るよ」
部屋に入ってきたヴァレルにため息を見咎められたアレットはさっそく注意を受けた。
彼は人前だとアレットをとても大切に扱うのだが、二人きりになると途端に態度を切り替える。嫌味は朝飯前。皮肉気に口元を持ち上げて、アレットに対して己の立場をきちんと自覚するようにと言い聞かせてくる。
「わかっているわ」
アレットはヴァレルを見つめた。
船旅の部屋は一等で、船の中だと思えないくらい豪華な設えになっている。
「俺だって一応きみには気を使っているつもりだよ。新婚初夜が船の上というはさすがに悪いかな、と思って船旅の間は寝室を分けたし」
ヴァレルの言葉にアレットの胸が跳ね上がる。
もう夫婦になったのだから、彼とそういう仲になってもおかしくは無いのだ。夫婦となれば夫と同じ寝台で眠り、夫からの求めに応じるものだと教わった。しかし、肝心の何に応じるのかまでは教えてくれなかったけれど。
ヴァレルと同じ寝台で眠ることを考えるだけでアレットの心臓は口から飛び出してしまいそうだ。今だって考えるだけで胸がばくばくしているのに。一緒に眠るだなんて、緊張で一睡もできないかもしれない、とアレットは真剣に考えている。
ヴァレルはアレットの方に歩み寄る。
「アレット。もう船の上だ。逃げようだなんて思わないことだね」
「べつに、逃げようとは思っていないわ。わたしが逃げると……その。公爵家がまずいのでしょう?」
「よくわかっているじゃないか。お姫様」
ヴァレルは鷹揚に頷いた。
アレットはヴァレルの戦利品。きちんと理解している。
あれから何度かヴァレルに謝罪しようと試みた。けれど、何度言っても結果は同じ。ヴァレルはアレットが口先だけで謝ろうとしているとしか思ってくれない。ヴァレルにアレットの声は届かないのだ。最初から彼はアレットがヴァレルを嫌っていると決めつけている。だから最近ではアレットの心も少しささくれ立ってきた。
彼は結局アレットを自分の家の箔付けのためにしか見てくれていない。
ヴァレルは身をかがめて、アレットの瞳を覗き込む。彼の指先がアレットのこめかみのところをかする。触れるかどうかというようなしぐさにドキリとした。
「そろそろ出航だよ。ディルディーア大陸ともお別れだ」
ヴァレルに促されるままアレットは甲板へと向かった。
大勢の人でにぎわっている甲板で、ヴァレルは大切な女性を守るかのようにアレットの背中に腕を回す。
「相変わらず混んでいるな」
甲板には紳士淑女が溢れかえっていた。皆旅行者だろうか。色とりどりのドレスを身にまとった女性に、紳士や中には子供もいる。港にも多くの人が見送りに来ている。
もうすぐ、この船は旅立つのだ。アレットを乗せて。
公爵家の人間とはすでにお別れを済ませてきた。旅の供は夫となったヴァレルの従者と従僕に、アレット付きとして付いてきてくれたソレーヌだけ。
見送りに来てくれている人なんていないはずなのに、アレットはどこか寂しく感じて陸地を凝視する。
もうまもなく、生まれ故郷を離れるのだ。
新しい国へと旅立つ。夫となったヴァレルと一緒に。
アレットはずっとフラデニアか、遠くても隣国の貴族の家に嫁ぐことになるのだろうと考えていた。もちろん、アレットだって想像することはあった。
初恋のヴァレルが迎えに来てくれて、それで彼の住まう国に一緒に行くことになったらなどと。けれどそれは少女時代の淡い夢想と同じで、現実に父ガブリアスが一介の実業家に娘をくれてやるなんて考えるはずもないと思っていた。
それがどうだろう。
まさか本当にヴァレルの故郷に向かうことになるだなんて。
アレットはヴァレルを見上げた。
背の高いヴァレルと並ぶとアレットの目線にはヴァレルの肩のあたりになるのだ。
「さみしい?」
優しい声だった。
「え、ええ……」
「だろうね。生まれ故郷からダガスランドまで、約三週間だ」
アレットの正直な答えにヴァレルは感情のこもった声を返した。
船で約三週間。それは決して近くはない距離。大海原で隔てられた二つの大陸。
アレットは今ここにきて初めて異国に嫁ぐことを実感する。それは、今までの人生ではまるで想像もできないことでアレットはどうしてだか涙ぐむ。
ぐすりと鼻をすするとヴァレルの、アレットの背中に回した腕に力が入った。
「アレット」
彼は前を見つめたまま。アレットの名前を呼んだきり、次の言葉は無かった。
汽笛が鳴る。
大きな音だった。
歓声が聞こえた。船出を祝う、誰かの嬌声に人々が呼応する。
やがて船が動き出した。
生まれ故郷がゆっくりと遠ざかっていった。
◇◆◇
船旅はおおむね快適だった。
嵐に遭うこともなく、順調に航海すること約三週間。
アレットを乗せた客船はダガスランドへとたどり着いた。アルメート共和国の首都であり、この国の玄関口。
アルメート共和国で一番大きな街ダガスランドは、びっくりするほど普通で、それこそフラデニアの大きな街とあまり変わらない雰囲気だった。
もっと新しい街かと思っていたのに、そうでもない。建物も年季が入っているように思えるし街路樹も幹が太い。
この大地に西大陸とよばれるアレットたちの祖先が入植をしてすでに百五十年以上が経過をしている。
違いといえば、この口の共通語はフランデール語ではないということだろうか。アルメート共和国で話されている言葉は、フラデニアの北の隣国ロルテーム王国で使われている、ロルテーム語。
アレットは貴族の令嬢として教育を受けているので日常会話には困らないくらいにロルテーム語も話せる。社交界でもてはやされる淑女の条件は、近隣諸国の言葉二、三か国語が話せることなのである。
アレットはダガスランドの高級住宅街の一角にある屋敷へと連れてこられた。
「今日からここがきみの住む家だよ。ルーヴェのきみのお屋敷に比べたら狭くて窮屈かもしれないけれど」
「そんなこと、無いわ」
玄関広間を見渡しながらアレットは返事をした。
「そうかな。まあ、慣れないって言われても帰してあげる気はないけれどね」
ヴァレルはどこか楽しげだ。
「おかえりなさいませ。ヴァレル様」
「紹介するよ、アレット。彼はベンジャミン・カスケード。我が家の執事だ。父の代からカイゼル家に仕えている」
「はじめまして、奥様。ベンジャミン・カスケードと申します」
ベンジャミンと名乗った男はゆっくりと頭を下げた。
「アレット・カイゼルよ。よろしく」
「お美しい奥方を貰って旦那様も鼻が高いですな」
ベンジャミンの言葉にヴァレルが「止せ」と短く言った。それからヴァレルは簡単にベンジャミンの経歴をアレットに伝える。十年前からカイゼル家に仕える執事で年は三十七。銀髪に薄紫色の瞳をしている。
「部屋の準備は整っているか?」
「もちろんでございます」
いつまでも玄関広間で立ち話もなんだから、とベンジャミンに促されアレットはひとまず応接間に通され、そこでお茶と菓子を供され人心地をついた。自分が休んでいる間にもたくさんの荷物が屋敷へと運び込まれている。
お茶で喉を潤して、アレットは上階へとあがった。
今日からこの屋敷が自分の住まいになるのだ。ヴァレルは帰宅して早々に書斎に籠ってしまった。実業家らしく忙しいのだ。ダガスランドを留守にしていた間に溜まっていた書類や手紙に目を通す必要があり、コーヒー一杯も飲まずにさっさと書斎に引きこもってしまった。
アレットは夫婦の部屋へとやってきた。
今日からここで眠ることになるのだ。大きな寝台が置かれていて、アレットは少し動揺した。この三週間、アレットは独身時代と変わらずに一人きりで寝台を独占して眠っていたからだ。
ヴァレルと夫婦になったという実感もあまりなかった。
船旅の最中、彼は同じ一等客らと交流を深めていたからだ。
アレットは部屋の中を何とはなしに歩いた。
遠くの方からソレーヌの声が聞こえる。彼女は平素と変わりなく淡々とカイゼル家の召使いに指示をだしている。アレットの持ってきた衣装やらを閉まっている最中なのだ。
それにしても、やはり実感がわかない。
今日からヴァレルと一緒に眠るのだろうか。
「ああ、ここに居たんだね」
寝室の入口にヴァレルが立っていた。
「お仕事は終わったの?」
「まあね。急ぎのものにだけ目を通してきただけだ」
「そうなの」
ヴァレルがアレットの側へと歩いてきた。
目の前までやってきた彼は、どこか知らない男にも見えてアレットは思わず一歩後ろへ下がった。どうしてだろう、彼が未知のものに見えてしまった。
ヴァレルはアレットの側で身をかがめた。
「今日からは遠慮しないよ。きみは俺の妻なのだから」
どこか獲物を狙う狼のようにも思えて、アレットは必死に動揺を隠した。
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