公爵令嬢の婚約
寄宿学校を無事に卒業した十八の初夏。
「はぁぁ。今日も載っていないわね」
アレットはフラデニアの王都ルーヴェのフェザンティーエ公爵家の屋敷にて盛大にため息をついていた。
ようやくお堅い寄宿学校から解放されたうら若き乙女の態度ではない。
同級生たちはさっそく花の都ルーヴェに繰り出し、お茶会やら観劇やら音楽会やら、自由を謳歌している。もちろんアレットの元にもお誘いはくるのだが。
アレットも観劇やらカフェでのお茶会には参加をするが、素敵な殿方との出会いには今一つ乗り気になれず自室にて新聞を広げている。
今アレットが読んでいる新聞は『ルーヴェ日報』。お堅い政治社会を専門に扱うものではなく、ゴシップ紙である。
「まあ、レティお嬢様! そんなものをお読みになるなんて! 公爵家のお嬢様が読むものではありません」
アレットの部屋に入ってきたとたんに眦を吊り上げたのは乳母のコニー。
白いものが混じり始めた髪の毛に、顔に刻まれた皺。そろそろ五十に届くかという彼女にアレットは育てられた。アレットを筆頭に四人いるフェザンティーエ公爵家の子供たちの面倒を見てきたこの家の重鎮である。
「コニー、いつまでもレティなんて幼い愛称で呼ばない頂戴」
そう呼ばれるといまだに自分がほんの子供のように感じてしまう。
「わたしにとってはいつまでたってもレティお嬢様は小さな子供も同じです」
コニーはアレットのささやかな苦情をくしゅっと丸めてぽいっと放り出す。
さすがに幼少時から世話してくれている乳母は強い。
「とにかく、ルーヴェ日報なんて書かれてある記事の九割がデタラメいんちきという代物なんですから。そんなものお嬢様のような方が読むものではありません」
「デタラメだって豪語するのに、どうして売られているのよ?」
「庶民はここに書かれてある記事を読んで、またルーヴェ日報がくだらない記事を書いているって笑い合うんですよ」
「ふうん」
アレットは仕方なしに新聞を折りたたむ。
机の上にはほかにもいくつかの新聞が畳まれて置いてある。アレットが侍女に買って来いと命じたものだ。新聞の社交欄を先ほどから読んでいてため息を吐いていた。
「レティお嬢様、寄宿学校を卒業されたのに、毎日新聞なぞ読んでため息ばかり。もう少し世間のうら若き乙女を見習って着飾ってくださいまし」
「うーん……」
結局レティと呼ばれているアレットは気のないを返す。
「いまいち、気乗りしないのよねぇ」
「ばあやは悲しいですよ。レティお嬢様はそれはもう美しい金色の髪の毛に空色の澄んだ瞳、陶磁器のような白い肌。そしてなによりもとても美しい容姿をしているじゃなありませんか。どの殿方だってイチコロだというのに!」
「はあ……」
アレットは生返事を返すしかない。
「今からでも遅くはありませんよ。その美貌を生かせばどこぞの王族の貴公子だってお嬢様にぞっこんメロメロですのにっ! やる気を持ってくださいまし」
「やる気ねぇ……」
なぜにコニーがここまでやる気に満ちているのだろう。
寄宿学校を卒業した途端にこれ、である。
お堅い学校では、品行方正に、異性との会話は必要最小限に、淑女というものはつねに控えめでおしとやかで、云々……。男性は敵である、くらいに教師は思春期の乙女たちに口を酸っぱくして言ったものだった。
(どこぞの王族とか……正直、どうでもいいのよね……)
アレットの今一番の関心ごとは、初恋の相手ヴァレル・カイゼルが現在フラデニアに旅行中だということ。風の噂を拾ったアレットは毎日新聞を買って情報収集しているのだ。もしも、どこかの家の夜会に招かれているのなら、偶然を装って再会できるかもしれない。
そうしたら、あの日のことをあやまることができるかもしれない。もう一度、十六の頃のように屈託なく話せる間柄に戻れるかもしれない。
コニーの演説はまだ続いている。
育ての乳母だけあって、コニーとしてもアレットの嫁ぎ先が気になるのだろう。
女性も大学進学をさせろー! なんて、世間の急進派は騒いでいるようだけれど、上流階級の、よいところの娘は適齢期になれば己の出自に見合った家の息子に見初められて結婚をするというのがこのフラデニアではまだ一般的だ。
「レティお嬢様! 聞いていらっしゃいますか?」
「え、ええ。もちろんよ。ええと、そうよね。着飾ることが大事よね」
もちろんまったく聞いていなかった。
アレットは取り繕ったが、コニーに一蹴される。
「ちがいます。お嬢様がそんなにものほほんとしていらっしゃるから、水面下でお嬢様の縁談話が進められてしまうんですっ! しかも、あんな家の息子と!」
「えぇぇ!」
コニーが勢いよくまくしたてた。
その内容がアレットの想像をはるかに超えていて、さすがに驚いて声を上げた。淑女教育を受けたのに、思い切り大きな声を出してしまった。
「驚いている場合ではありませんよ」
「いや、驚くことよね」
というか、コニーのこの口調だと絶対に相手の家を知っている。
当人よりもコニーが先に自分の縁談話を知っているってどういうこと、とアレットは眉を顰めた。
もちろん、自分は公爵家の長女だ。
巷で流行っている恋愛小説のように、誰かに恋をして波乱万丈いろいろと三転くらい話が展開して最後は晴れて大団円、なんてことが自分の身には起こらないことくらい十分に理解しているが。
しているけれど。それでも十八の娘なのだから夢くらい見たかった。せめて、この夏くらいは夢を見せてほしかった。
だからこその新聞だったのに。
「わ……わたし、結婚するの?」
「その結婚を破棄するためにもですねぇ。こんなところで油を売っている場合ではないんですよ」
結局そこに話は戻るらしい。
「え、でも。いまから何をどうすれば―」
扉が叩かれたのはそんなとき。
規則正しく扉が叩かれ、少ししたのちに侍女のソレーヌが入室してきた。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
「え。お父様が?」
こんな時間に珍しい。
「コニー様。先ほどからフィリップ様付きの召使いが探していましたが」
淡々とソレーヌは用件を告げていく。彼女は仕事中は滅多なことで表情を表に出すことは無いのだ。
「わかりました。すぐに行きますよ」
コニーは肩を小さく竦めて動き始めた。
フィリップは弟の名前である。コニーの現在の主な仕事はこの弟の面倒を見ることだ。
「アレット様、新聞はまだご覧になられますか?」
コニーに代わりソレーヌが部屋へと入ってくる。彼女はテーブルの上に無造作に置かれた新聞各紙に目を止めた。
アレットが新聞を買い求めるのは社交欄をチェックするためだ。
探しているのは、アルメート共和国関連の話題。主に、鉄鉱王と呼ばれている男性のもの。
アレットの初恋、ヴァレル・カイゼルに関する記事である。
苦い初恋の思い出だが、アレットはまだ彼に淡い想いを抱いているのだ。
「え、ええ。置いておいて頂戴」
ソレーヌはアレットの答えに頷いてから、ドレスを着替えるよう促してきた。
「お客様もいらしていますので、お召し替えをするよう申し付かっております」
「そ、それって……」
アレットはぎくりとした。
なにしろ今しがた、己の縁談話が勝手に進んでいると聞かされたばかりだからだ。
「わたしはただ旦那様からアレット様をお連れするように申し付かっただけです」
(その返しがあやしさ大爆発よ!)
とはいえ、アレットに選択肢はない。
結局ソレーヌとほかの侍女たちによって着替えさせられ、髪の毛も丁寧に梳かされリボンをつけられ、薄く化粧もされてから部屋から追い出された。
こうなっては仕方ない。あとは階段を下りて応接間に行くのみ、だ。
ソレーヌがまずアレットの到着を告げ、アレットは応接間へと足を踏み入れた。
応接間には両親と、もう一人男性が座っていた。
男性はアレットを背にして長椅子に座っているので顔は分からない。
黒髪の男である。
「アレット、来たか」
アレットと目が合った父、ガブリアスが口を開いた。
両親は黒髪の男性の対面に並んで座っているため、アレットと顔を合わせる形になるのだ。
「お父様、お母様ごきげんよう」
アレットは父と母に挨拶をして、それから目線でもう一人を紹介するよう父に促した。
「アレット、おまえもよく知っているだろう。ヴァレル・カイゼル氏だ。数年前にアルメート共和国で鉄鋼の鉱山を掘り当てて今は鉄鋼王と呼ばれている。まだ若いのに優れた経営者だ」
アレットの胸が大きく脈打った。
父はいま、なんて言った?
空耳ではなければヴァレル・カイゼルと紹介した。
ガブリアスの言葉を受けて、黒髪の男が立ち上がる。確かに、記憶にある彼も目の前の男性と同じく黒髪だった。
「久しぶりだね、アレット。あれから、さらに美しくなったようだね」
アレットの方に振り向いた男性は、それは紛れもなくヴァレルだった。
十六の夏の休暇に、フェザンティーエ公爵家の領地の屋敷で出会った青年だった。
「あ……あの……」
まったく予想もしていなかった再会にアレットは混乱して、まともに挨拶すらできなかった。
だって、目の前にヴァレルがいるのだ。ずっとずっと後悔ばかりしてきた。あのとき、自分の恋心にすら気が付いていなくて。それなのに、友達からヴァレルと仲がいいと勘繰られて、恥ずかしくなった。よくわからなかったけれど、あのときは自分とヴァレルが仲がいいことが罪のようにも感じられて、否定をすることが正しいと思ってしまった。
恋することが、それを友達に知られてしまうことが怖くて咄嗟にヴァレルを貶めてしまった。浅慮だったとあとになって悔やんでも過ぎてしまったことは元には戻せない。
「久しぶりだから驚いているようだな、アレット」
ガブリアスの言葉も今のアレットの耳には素通りで。
「あ、あの」
アレットは口をぱくぱくと開けたり閉じたりを繰り返した。
ヴァレルはあのころと変わらない笑顔をアレットに向けている。二年経って、精悍さが増したようにも見える。顔つきに鋭さが増したというか、甘さが抜けたような気がする。それはきっと、彼が仕事に精を出していたからなのだろう。貴族的な、どこか優雅さのある貴族の跡取り息子とは違った空気を彼は纏っている。
「アレット、きちんと挨拶をしなさい。おまえには黙っていたが、ヴァレル・カイゼルとの縁談が決まった。おまえはヴァレル氏の妻になるんだ」
(え……っと……)
アレットは今聞こえたフランデール語を頭の中で理解しようと試みた。
フランデール語というのはフラデニアや近隣諸国で使われている言葉である。
父はいま、結婚と言った。縁談がどうとか、なんとか。目の前にいるヴァレルを見て、妻とかなんとか。
それってええと。考えること数秒。
「えぇぇぇっ!」
一拍後。
アレットは大きな声を出した。
「アレット。はしたない」
母、オレリーが窘めた。
「あ、はい」
アレットは慌てて両手で口を閉ざした。
瞳はヴァレルに釘付けのままだった。
ヴァレルは面白そうに、アレットの様子を観察している、ようにも見える。
アレットはヴァレルと見つめ合う。
(もしかして、これって夢だったりする?)
アレットは口を塞いでいた手をほっぺに持って行く。そしてつねってみた。痛い。
(夢……では、ない?)
「何しているの?」
「ええと。もしかして、これは夢じゃないかと……」
馬鹿正直に答えてからアレットはしまったと思って口を閉ざした。いくらなんでもはしたない。淑女としてどうかと思う。
現にガブリアスはこれ見よがしに咳払いをした。あれは絶対に怒っている。
「とにかく、だ。アレット、おまえはヴァレル氏に嫁ぐことが決まった。少々性急だが、アルメート共和国での生活もあるから、すぐにでも結婚式を挙げて共和国行きの船に乗ることになる」
ガブリアスは淡々と今後の予定をアレットに聞かせた。
結婚式はフラデニアで挙げること。花嫁衣装などはすでに準備ができていることと、結婚式を挙げて、書類に署名をしたのち、すぐにアルメート共和国へ向かう大型客船に乗ること。花嫁道具などはこれから揃えるなどなど。
性急すぎて付いていけない。
「ちょっと待って。急だわ」
アレットはそれだけ言った。
「おまえにとってはそうかもしれないがな」
と、ガブリアスが息を吐いた。
「少し、彼女と二人きりにさせてもらえませんか、公爵。私から説明を」
「そうだな。それが良いかもしれない」
ヴァレルの提案にガブリアスが頷き、父は母を促して退出してしまった。
バタンと扉が閉まり、アレットはヴァレルと対峙する。
「さて、と。説明なら俺からするよ、可哀そうなお姫様」
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