沈み、溺れる

皐月満

第1話

 私も彼女も、互いの名前すら知らない。

 それでもなぜか、私たちはお互いに解りあっている。

 

   *

 

 裸足のまま、ちゃぷちゃぷと水の中に入っていく。生ぬるい海水が足指の間を浸し、波にさらわれた砂に足を埋める。躊躇いなく、海の中へと進む。濡れた砂を踏みしめて、重い水の中へ。夏服のスカートの裾は海面を撫でて、やがて水が染み込んで沈んでいく。何もかもがずぶ濡れになる。

 いつからここにいたのか、彼女はとうに胸の下まで水に浸かっていた。緩い波の中に、制服の裾を揺らめかせながら。綺麗にまとめられた彼女の髪が、海面を撫でる穏やかな潮風に靡く。浜辺に背を向けた彼女の視線は、はるか水平線の先、この世界じゃない別の場所にあった。

「ねえ」

 追いついた私が華奢な背中に声をかけると、彼女はひらりと振り向く。そして、ふと笑う。その笑みは、いつも、どこか泣きそうだった。眉をきゅっと寄せて、涙を堪えるように目を細めた、その笑み。彼女のその表情はあまりに痛々しくて、そしてあまりに美しいから、私は見ていられなくなる。その視線を受け止めれば、身をよじる息苦しさに襲われる。肺が静かに悲鳴をあげた。

 かつて彼女に何があったのか、私は知らない。

 彼女も、私の抱える傷を知らない。

 それでも私たちは時折こうして、まるで引き寄せあうみたいにこの透明な海で会う。待ち合わせも、何もない。ただ赴くままにここへ来ると、必ず彼女がいる。

 彼女が、ふいにふらりと倒れこんできた。私は受け止めない。受け止めてあげられない。彼女もそれを分かっている。私と彼女は一緒になって海中に沈む。水飛沫が上がる音と入れ替わりに、耳から気泡が抜けていく。

 青くて、透明な水の中。

 誰もこない、この息ができない世界で、彼女の白くて細い手が私の首に触れた。気泡が、光を透かして水面へと浮上していく。ただの空気なのに、水の中だとなぜこうも美しく見えるのだろう。

 海底の砂の上で、彼女が私の首を掴んで力を込めた。私も同じように、彼女の首元に手を伸ばす。大人しく差し出された首に手をかけると、彼女の唇から息が溢れた。

 現実味に欠いた水中で、微笑みあう。

 私たちは互いに殺しあうのだ。二人きり、他の誰もいないぬるい水の中で、苦しみを息と一緒に吐き出して、全て忘れてしまいたいがゆえに。

 死のう。死のう、一緒に。

 私たちの間にあるのは、それだけ。

 重力と酸素のない、密度の高い時間に満たされる。刻一刻と失われていく感覚は、柔らかな水の感触へと置き換わる。生ぬるい水の温度が、重たい身体の輪郭を曖昧に溶かしていく。今は、この水の中にある世界だけ、私と彼女がいるこの静かな場所だけが、世界の全て。それ以外はもう、何も、何も感じない。

 息を吸うことなく水に沈んだ私には、酸素はもう既にほとんど残っていなかった。生の実感を手放して、この海に溶けてしまおう。海月が死んで海水へと溶けていくように、私も、彼女も、息をする苦しみもろとも消えてしまうのだ。それはなんて耽美で、なんて甘い夢だろうか。その、甘美で、明るい闇の中に音もなく沈んで、二度と息を吸うことのないように、溺れる。──溺れてしまえ。

 そのとき、ふっと首元の手が緩んだ。はっとして彼女を見ると、彼女は力なく砂の上に倒れようとしていた。水陰にゆらめくその安らかな表情を、私は美しいと思った。

 けれど。

 私は彼女の手首を掴む。

 できないのだ、私には。彼女の首を絞め続けてあげることが。

 音のする世界に顔を出す。冷えた手首を頼りに彼女を引き寄せ抱きしめると、水面に現れた彼女は激しく咳き込んだ。

 肺が、酸素を貪欲に貪っていく。溺れた身体に現実味が戻ってくるのと引き換えに、水中の感覚は遠のいていく。

 また、溶け損ねてしまった。

「……今日も、ダメだったね」

 彼女はそう言って苦笑した。端整な横顔を、髪から滴った水滴が伝って落ちていく。

「そうだね」

 私はそれだけ言って、彼女の細い身体が呼吸をしているのを腕の中で感じた。彼女は、今もまだ酸素を吸っていた。

 生きている。彼女も──私も。

 そう感じただけで、また身がよじれるほどに苦しくなった。目を閉じても、耳を塞いでも、どこまでも追いかけてくる呼吸という柵。私たちは、また、この柵に囚われて、生に縛り付けられている。

 いつも、そうだった。私たちはいつも消え損ねてしまう。この世界で、生きて、息をしているのが苦しくて、痛くて、この辛さから解放されたいと願ってやまないのに、だからこそ互いに殺しあうのに、叶わない。いいや、叶えないと言うのが正しいのだろう。一方が死に近づけば、首を絞められなくなる。そうすれば、もう一方はいずれ酸素を吸わなければいけなくなってしまう。だから、私たちは互いを失うのが怖くて、自分だけ助かってしまうのが恐くて、もう一方を水面へと引き上げる。

 それでも、こうして水の中に二人でいる間、その瞬間だけは、全てどこか遠い所のことのように錯覚できるのだ。苦しさも痛みも、何もかも水面の向こう。この一瞬ばかりの解放に快楽を求めて、私たちは何度も同じことをしているのかもしれない。

 

   *

 

 私たちは、互いの名前すら知らない。

 それでいい。私と彼女の間に、名前なんて必要ない。あるのは、ただ、絶望と快楽だけでいい。

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沈み、溺れる 皐月満 @enrai_no15

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