第21話 バッカス

 学校からの帰り道、見覚えのある顔が工事現場に立っていた。


「申し訳ございません!あっしの不注意で本当に!今後は二度とこのような……ですからどうか……!」


 そう言って頭を下げる父の姿は、ただ顔が同じだけの赤の他人かと思うほど、自分の知る父とかけ離れていた。


「俺の金だ!お前にどうこう言われる筋合いは無い!」


 物をねだることすら戸惑われる貧しい日々。父の大声が自宅を軋ませる。

 父は常に瓶を抱き、酒を飲んでは母に手を挙げる。自分はそれを、ただ黙って見つめていた。

 毎日がその繰り返し。変わるのは父の飲む酒の銘柄くらい。毎日が昨日との間違い探し。それを自分は解くこともなく見つめ続ける。


 そんなある日、偶然か必然かは分からないが、違う瞬間が来た。

 父が瓶を離し、両手で母を殴りつける。いつもどおりに見つめ続ける自分の足が、その日だけは独りでに立ち上がる。

 力が欲しい。父を止める力が、母を守る力が、この現実を変える力が。


伐和きりかず!何をしている!?やめろ!!」


 父の声も聞かずに、瓶に残った僅かな量の酒を口に含む。

 これさえあれば力を得られるのだ。無力な自分が拳を振るえるだけの力を、父に対抗するための力を。


「クソガキがァァァァァーッ!!」


 飛びかかる父の足が滑り、倒れかかってくる光景がゆっくりと再生される。自分の手から離れた瓶が、床に落ちた衝撃で割れ、破片が散らばる。

 吸い込まれていく父の喉と、吐き出されていく赤い血潮。

 一瞬で全てを変えた。それほどまでに大きな力が眠っているのだ……この酒という悪魔の滴には。


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「……お手上げか」


 バッカスが金属球から手を離す。それを見たガブリエラは、些か拍子抜けかのように言った。


「随分と潔いのね」

「俺の能力……相性、悪い。それだけだ」


 『レイニー・漏りマンション』によって生まれた水滴はあらゆる物質に浸透し、その向こう側へ通り抜ける。しかしララの見せた能力によって、物質中の水滴は消失してしまった。

 消失の方法……それを考えるには音だけで十分だった。


「……相手の能力、熱だ。絨毯、天井……高熱にして蒸発させた。あの音、熱した鉄板に水滴垂らした時と同じ音だ」

「熱……!?」


 そんな単純なものなのだろうか?何となく腑に落ちない、というのが蔵道の心情だった。

 当のララ本人も、バッカスの言葉が不満だと言わんばかりに眉をひそめている。


「熱だなんてやめてよ。何だか単純で温もりのない言葉……熱なのに温もりが。それよりもっと複雑で一筋縄ではいかない、適した言葉があるっていうのに」

「……ならば何だと?」

「恋だよ!」


 ビシッとバッカスを指差し、ララが言い放つ。バッカスの反応は薄かった。


「どちらにしろ打つ手なしだ。俺の水滴、無力化される」


 神の石を置くはずだった土台に、バッカスはショットグラスを置き、酒を注ぐ。そしてライターで着火した。


「主人の仇討ちも失敗して俺の信頼、地の底だ。神の石、興味はない。お前ら同士で後、やってくれ」


 バッカスはそう言うとレクシドの遺体を片手で担ぎ、もう片方の手に火の灯った酒を持ちながら歩きだした。


「ちっ……!」


 後ろから保哲の舌打ちが聞こえた。自分が蔵道を仕留められなかったことが不満なのだろう。

 バッカスあいつが無能なせいで神の石を手に入れ損なった。悠長に酒を注いで、もはや完全にやる気を無くしたあいつに代わって、今度は保哲おれが戦わなくちゃいけない。

 大方、そう思っているのだろう。


 ……!!


 戦意を失った……保哲にはそう見えている。

 保哲、言ったはずだぞ。酒……俺の場合、力になると……!酔わせるのではない、勝たせるのだ……!子供の頃からの俺の恩恵……全ては酒から始まった!




「アレするかもよ」

「何……!?」


 バッカスの足が止まる。ララの発言……自分に向けて言ったのか?何と言った?


「ララはね……ゲームの中ならまだしも、現実で他人ひとを傷つけたくはない。でも万が一、自分の命を守ろうと必死になったら……その先は分からない。あなたのこと……アレするかもよ」


 満面の笑みを浮かべてララはそう言った。それは何とも可愛らしく、他者を惹きつける笑顔だった。初めて彼女と合うバッカスでも、彼女の人気ぶりを予想できるほどに。

 だが、その言葉は……!


「殺す……と言うのか?」

「そんなこと言ってないよ!アレはするけど」

「物騒な言葉、避けてるだけだ……!そもそも俺、もう戦う気、無いだろうが!なぜそんな釘、差すようなこと……!」

「さぁ?なぜだろうね?」

「……まさか、バッカスが嘘をついていると言うのか?君は人狼ゲームが得意だそうだが」

「蔵道さん、ララのことよく分かってるじゃない!そのせいで、ちょっと疑り深くなっちゃってねぇ……」

「…………。今のは光沢さんという君のファンから聞いた話だ」


 人狼ゲーム。それが騙し合いということくらいはバッカスにも分かる。だが、それだけで……自分の戦意喪失を演技だと見抜けるのか?

 バッカスの額に汗が浮かぶ。

 ララの言葉は簡潔だ。何もしなければ何もしない。でも、もしも何かしてくるのならば……殺害アレする。

 額の汗が頬をつたい、ポタリと絨毯に染み込んでいく。


「……分かった」


 バッカスが決断する。

 レクシドを担いだ左手を大きく振りかぶる。蔵道が咄嗟に身構えた。その視線は当然ながらレクシドの方を向く。

 その隙をついて右手に持ったショットグラスを振るう。左手に比べれば、その動きは遥かに小さく、なんてことはない。ただ手首を少し捻った程度の、視界の端に捉えた程度では注意も向かない動きだ。

 攻撃に踏み切った要因は二つ。一つは、バッカスにまだ戦意があると見抜かれたとしても、肝心の狙いまでは分からないであろうこと。もう一つは、目の前の少女の笑顔からは、その言葉とは裏腹に一切の凶悪性が感じられないということだ。


「ギャアアアアアッ!!」


 苦痛が絶叫を生む。


「『頬の紅潮エレガント・ドリーム』……目論見通りには行かなかったね」


 倒れているのはバッカスの方だった。

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